10.クシコス・ポスト

 運動会当日は、朝から夏みたいに太陽がギラギラしていて、むき出しの首のうしろに日差しが突き刺さるみたいだった。ヒリヒリするね、と言い合いながら、誰ともなく始めたことを真似して花梨も頭の後ろをタオルで覆った。


 グラウンドでは、今は六年生の徒競走が行われている。三年生の花梨たちに比べて体は大きいし、走るのもみんな速くて迫力がある。


 花梨のクラスが属する紅組は今のところ僅差で白組の得点を上回っていたため、より興奮したクラスの男子たちは、腕を振り回しながら紅組の六年生が走るのを応援している。流行りのポップソングを替え歌にした紅組応援歌を、声を張り上げて何回も何回も歌うから、花梨は耳がおかしくなるかと思った。はっきり言ってうんざりだ。


 六年生全員が走り終わって大音量のBGMが途切れると、男の子たちもスイッチを切ったように口を閉じて応援席の椅子に腰を下ろした。やっと静かになった、と思う間もなく今度は真っ黒の学ランを着込んだ暑苦しい集団が走り出てきた。


 そうだった。次のプログラムは応援合戦だった。またあの替え歌を歌わなければならないのかと、ため息をつきながら花梨は立ち上がる。それも今日で最後だ、頑張ろう。


 声を張り上げる紅組応援団長の音頭と大太鼓の拍子に合わせ、一拍子から三拍子まで手を打ち合わす。

「花梨ちゃんのおにいちゃんがいちばんカッコイイね」

 隣にいるクラスメイトの女子に話しかけられて、花梨は胸をのけ反らせて顔を真っ赤にしている応援団長の後方に視線を投げる。黒い学ランを羽織って赤い長いハチマキを締め、涼しい顔をしながら淡々と大太鼓を叩いている兄の和樹を見つめる。そうか? そんなにカッコいいかな?


 紅組の応援が終わると、今度は白組の応援団長が号令台に上る。真っ黒な学ランに白い長いハチマキ。暑苦しい紅組のそれと違って、白い手袋もとてもさわやかだ。日焼けした小さな顔に白い歯がまぶしい。長い黒髪を首のうしろでキリっとまとめた女の子が、背中で両手を組んで女子のわりには低く伸びやかな声を張り上げると、わあっと保護者席からも拍手がわいた。


 フレーフレーとまっすぐ伸ばす腕も指先まで神経が行き届いてきれいだ。花梨は敵である白組応援団長の雄姿に見ほれる。

「カッコイイよねえ。真凛さん」

 ついさっき和樹のことをカッコイイと言ったクラスメイトも簡単に乗り換える。仕方ない、女子上級生がきれいでカッコイイのだから。


 応援合戦が終わると、次は花梨たち三年生の表現ダンスだ。現代風にアレンジした民謡の曲に合わせ、腰を落としてリズムを取る。曲の切り替わりで列からばらけトラックのラインに沿って楕円形に大きく丸く並ぶ。ロープの向こうでカメラを構えている保護者たちに向かってキメポーズを繰り返す。


 たいていの児童たちは、このとき自分がどの位置に来るかを親に伝えてある。花梨のお父さんもまさにその場所でムービーカメラを構えて待っていてくれた。片手で小さく手を振るお父さんに笑顔を返して、花梨は心の中で大きく頷く。やっぱり花梨のお父さんがいちばんカッコいい。


 午前中のプログラムが終わり、担任の先生のお話の後、お父さんお母さんのところに昼食を食べに向かう。


「リナちゃん」

 花梨は前を歩くクラスメイトに声をかける。

「パパいる?」

「うん、あそこに」

 振り返ったリナはにっこりして場所を指差す。

「花梨ちゃんちは?」

「来てるよ。また後でね」

「うん!」

 元気よく別れたところで、お父さんが花梨を迎えに来てくれた。

「いつもどおり体育館でいいよな?」

「うん、涼しいし」


 運動会のときには毎年決まった場所でお弁当を食べるから、向かった先には和樹と和樹のお父さんが既にお弁当を広げていた。


「ほら、これ」

 通路の水道で手を洗ってきて座った花梨に、和樹がサンドイッチが詰まったランチボックスを差し出してくる。断面がとてもカラフルなサンドイッチだ。

「お母さんが作ったの?」

 顔を輝かせる花梨の横でお父さんの頬が引きつる。

「大丈夫だ。調理したのは俺だ。あいつは挟んだだけ」

 和樹のお父さんに言われてほっとした様子で胸をなでおろす。大人はみんなお母さんの料理に怯える。花梨にとっては、挟んでくれただけでも立派なお母さんの手料理だから嬉しいけれど。

 ひよこの顔をしたウズラの卵がかわいくて、花梨はお父さんに写真を撮ってもらった。


「応援団て大変だね。暑いのに学ラン着て」

 四人でお弁当を食べながら花梨のお父さんが和樹に話しかける。おにぎりを頬張ったばかりだから頷くだけで返事をする和樹に、花梨がさらに問いかける。

「来年は団長やるの?」

「……そうならないよう、今年引き受けたんだよ」

 ぼそぼそ和樹は計算高い発言をする。苦笑いしてお茶を飲みながら和樹のお父さんがつぶやいた。


「白組は女の子が応援団長なんだね」

「六年生の真凛さん! 人気者だよね?」

 花梨に同意を求められた和樹は、今度は卵焼きを口に入れながら頷いている。微笑んで「へえ」と相槌を打った和樹のお父さんは何やら遠い目になる。


 お弁当を平らげてひとやすみした後、先に和樹が立ち上がったのを見て花梨も赤白帽子をかぶり直してレジャーシートから出た。

「おトイレ行って席に戻るね」

「ああ」


 子どもたちを見送って荷物をまとめながら池崎正人は提案する。

「終わったらおれがふたりを店まで連れてきます。一ノ瀬さん、予定があるんですよね」

「……頼めるかな?」

「もちろんっす」

 正人だって花梨を預かってもらうことがある。子育ては助け合いが大切だ。


「ところで『女の子が応援団長』で何を思い出したんすか?」

「……抜け目なくなったなあ、君は」

「鍛えられたっす」

「後で教えてあげるよ」

「忘れた振りしないでくださいよ」

「わかった、わかった」

 先に荷物を持って出て行く一ノ瀬誠のことも正人は見送る。最後にレジャーシートを畳んでバスケットに突っ込んだとき、声をかけられた。

「花梨ちゃんのお父さん」


 ちらちら視線を感じていたから、話しかけられると覚悟していた。子どもたちには気付かせることなく近寄って来るなオーラを展開させていた誠がいなくなれば、寄ってこられるだろうということも。誠にああ言われたけれど、自分はまだまだ修行が足りない。


「大変ですね」

 なにがですか? 訊いてやりたいのをぐっとこらえる。

 ――私のこと、庇ったらダメ。

 いつだって、泥をかぶるのは彼女で。

 ――悪者は分かりやすく独りのほうが良いに決まってる。

 愛想笑いを頬に浮かべて正人は顔を上げる。

「いえ……」


「明後日の代休日、うちの子が花梨ちゃんと遊びたいって……いいですか?」

「それは、子ども同士で約束してもらえば」

 ――子どもたちに窮屈な思いさせたくないでしょう。

「あ、これ。わたしが焼いたんですけど、花梨ちゃんと一緒にどうぞ」

 ――あなたは被害者の顔をして同情されてれば良いの。

 違う。わがままを言って困らせたのは自分なのに。悪いのは自分なのに。

 多分、これが罰なんだ。

「ありがとうございます」

 へらっと笑顔を貼り付けて正人は小さな袋を受け取った。





 ランチタイムの客足が遠退くと、とたんに店は暇になる。一ノ瀬美登利はカウンターの一番奥の席に座って頬杖をつき、正人が送信してきた画像を眺めていた。

 彼女の隣では駈がおとなしく本を読んでいるし、その更に隣では村上達彦がやっぱり無言のまま新聞を広げていた。カウンターの中でぼーっと加熱式タバコのスティックを銜えた志岐琢磨があくびをかみ殺す。

 つられて美登利もあくびが出そうになったとき、駈が立ち上がった。カウンターの上に本を広げたまま、静かに化粧室へと向かう。


 すると達彦がぼそっとつぶやいた。

「子どもの運動会にも行かないってどうなんだ?」

「…………」

 美登利が目を落としているスマートフォンの画面には、彼女が今朝ランチボックスに詰めたサンドイッチを頬張っている花梨が写っている。


「俺たちがガキの頃は来れない親だってたくさんいただろ?」

「それが今じゃ、ジジババ総出で来るんだぜ。うぜえよ」

 わざわざ辛辣な口を利く男二人に美登利は小さく笑う。

「私がいなくてもあのふたりは大丈夫でしょう」

 言っている本人がダメージを受けている表情だったのだろう。

「駈の運動会には来たって平気だ。他人の視線を気にするほど繊細じゃあないからな」

 俺もあいつも。付け足した達彦に美登利はゆるく頭を振った。

「そんなことない」

「……」

 駈が戻って来たので、達彦は口を閉ざす。


「駈、お兄ちゃんたちが帰ってきたらお散歩行こうか。ついでにどこかでおやつ食べよう」

「うん、いいよ。お母さんは何が食べたいの?」

「駈が食べたいもの」

 小さな頭を抱き寄せて美登利は微笑む。母子のスキンシップに入れずに達彦は穴が開きそうな視線を新聞に注いでいる。

 琢磨ははあっと溜息を吐きながら加熱式タバコのホルダーを持って外へと出て行った。

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