6.スカボロー・フェア
夕暮れ時の晩夏の風は湿り気を帯びて肌にまとわりつく。山裾に広がる霊園内は涼しくはあったけれど、湿度の高さゆえの不快感はふもとの街と同じだった。
「唯子ちゃんが手入れしてくれたみたいね」
水の入った桶を置きながら母親は微笑む。駈はこっくり頷いて他所の区画よりも広々と青々とした祖母の墓地を見つめた。
今はまだラベンダーの紫色の花が、落ち着いたベージュの小さな墓石を取り囲んでいる。柄杓を使ってそこへ水を注ぎながら、母親が添い寝しながらよく歌ってくれた歌を思い出す。
「お母さん」
「うん?」
「おばあちゃんてどんな人だったの?」
父親は思い出話は一切しない。だから駈はここに来るたびにお母さんに尋ねるのだ。
「とっても優しいひとだったよ」
そしてお母さんの答えはいつも同じ。今もしゃがみこんでじっと祖母の墓碑銘を見つめている。
「幸絵おばあちゃんだって優しいよ」
「そう?」
お母さんは立ち上がり、駈の肩を抱いてくれた。
「お父さんはどうして一緒に来ないの?」
またいつものように駈は尋ねる。そしてこの質問に対する返事も分かっているから、そっとお母さんの顔を見上げる。
「泣いてるところを見られたくないからだよ」
やっぱりお母さんはいつものように意地悪く微笑んでいる。
「……」
みんなが駈はお母さんに似ていると言うけれど、そうかなと駈は思う。お母さんみたいにどんな時でも綺麗な人は、他にはいないのじゃないかと思う。変わり者な伯母が言う通り、お母さんは女神さまだから。
しばらくの間寄り添って佇んでいたら、涼しい風が吹きつけてきて駈はくしゃみをしてしまった。
「冷えて来たね。帰ろうか」
最後に祖母にさようならを言って墓地を後にする。霊園の置き場に道具を片付けて手を洗い、駈の手を拭いてくれながらお母さんが言った。
「夕ご飯はどこかで食べて帰ろうか?」
「……お父さんは?」
「遅くなるって言ってなかった? だからお母さん今日は泊まるよ。駈のベッドで寝ても良い?」
いいに決まってる。駈は無表情の中にも頬を紅潮させてこくこく頷く。
「だったら、ごはんはお父さんが帰って来るの待ってようよ」
「ええ? それから作ってもらわなきゃならないんだよ? お腹すいちゃうよ?」
お母さんはお菓子は作るのにご飯は作らない。殺人的に料理が下手だからだ。世界の平和のために包丁は持たないと豪語している。必然的にご飯を作るのは父親の役目だ。
「待っててあげようよ」
淡々と駈が主張すると、しょうがないなあとお母さんは眉をひそめた。
「店でテイクアウト用に何か作ってもらおう」
駈は口元を少しほころばせて頷く。ロータスのマスター志岐琢磨が作る料理は、駈が知る誰が作るよりも美味しい。
「駈はお父さんのこと好き?」
クルマに乗り込んでお母さんが尋ねてくる。後部座席のジュニアシートに座ってシートベルトをのばしながら駈はこっくり頷く。
駈のお父さんは何を考えているか分からない、と兄姉たちや周りの人からよく言われるが、そんなことはないと駈は思う。あんなに分かりやすい人はいないと思う。
なかなか止めなかった煙草をぱったり止めたのはお母さんのお腹に赤ちゃんができたからだと聞いた。会社勤めを辞め、在宅の仕事に切り替えたのも駈を育てるためだと聞いた。
それもこれも駈のためというよりは、お母さんに褒めてもらいたくてだと駈は思う。どんなにカッコつけていたって、お父さんはお母さんが好きで仕方ないから。それは和樹や花梨の父親たちだってそうなのだろうけど。お父さんだって決して負けていないと駈は思う。兄姉たちも同じ主張をするだろうけれど。
バックミラー越しに駈に微笑みかけ、お母さんはクルマを駐車場からなだらかな坂道の車道へと出す。
「よーし、じゃあ早く店に行こう」
にこりと笑うお母さんに駈もこくこく頷く。お母さんの運転は怖いとみんなが言う。なるべくハンドルを握らないでくれと懇願する。だけど料理と違ってお母さんはここは譲らない。実は駈もお母さんの運転でお出かけするのは嫌いじゃない。スリル満点で楽しいからだ。
クルマは坂道を加速しながら走り下りて行く。興奮を感じながら駈は考える。今夜お願いしたら、お母さんはあの子守唄を歌ってくれるだろうか……。
お母さんは悪魔みたいに意地悪だけど、天使みたいに歌ってくれる。
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