3.祖父の書斎
「いらっしゃい! 三人とも。さあ入って。おばあちゃまがケーキを焼いてあげたからね」
「わーい、ありがとう。おばあちゃま」
「お邪魔します」
はしゃぐ花梨の後から礼儀正しく和樹が脱いだ靴を揃え、駈の小さな靴も揃えて自分の靴の横に置いてくれた。弟が緊張しているのが分かるのだろう、和樹はぴったり駈にくっついてくれている。
お母さんが生まれて育った家。もう何度も来ているし祖父も祖母もいつも優しいのに駈は何故だか緊張する。それは、駈のお父さんが決してここには足を踏み入れようとしないことに関係しているのかもしれない。
明るいリビングのソファーに座って花梨がさっそくお菓子をつまんでいる。子どもたちの声を聞きつけて祖父が顔を出した。
「こんにちは、おじいちゃま」
「よく来たね」
「お邪魔してます」
「うん。みんな元気そうだね」
温厚そのものの笑顔に助けられて駈も頷くように会釈する。
「さあさあ皆でケーキを食べましょう。座って座って」
祖母の幸絵が促す。ワンホールのケーキが皆のお腹に収まった頃、和樹がそっと祖父に尋ねた。
「書斎に行ってもいいですか?」
これも半分は駈のために言ってくれたに違いない。
「いいよ。おじいちゃんも行こう。駈も来るよね」
もちろん。こくこく頷く駈に祖父の目が優しくなる。
「わたしはおばあちゃまといる!」
既に羽目をはずしはじめている花梨に苦い顔をする和樹の横で駈は張り切って立ち上がる。この家で一番好きな場所。おじいちゃんの書斎。
駈の家は物が少ない。本も読みたいなら図書館で借りて来いとお父さんは言う。正しい方法だと思う。だけど家にたくさん本があるのも素敵だと駈は思う。
和樹が世界文学全集の一巻を手に取ると、祖父は眼尻に皺を寄せて言った。
「それはまだ早いだろう」
「……そうですね」
中を開いてみて和樹も頷く。
「おまえたちの母親は中学生でそれを読み始めたよ」
「中学か」
「そういえばお父さんも順番に借りに来ていたかな。和樹ももう少ししたらそうしなさい」
「はい」
嬉しそうに頷く和樹を横目に駈も書棚の本に手を延ばす。「日本の伝奇・伝承」という全集本だ。
「駈は不思議な話が好きなのか?」
「不思議というか……歴史とか、文化とかおもしろい。民俗学っていうの?」
祖父は顔をしわくちゃにして微笑む。
「誰に似たんだろうねえ」
『誰に似たのだか……』
お母さんもこんなふうに笑って言っていた。困ったような、悲しそうな、仕方がないか、というふうな。
「それも駈にはまだ難しいだろう。漢字がいっぱいだよ」
「お父さんが辞書をくれたから」
分からない字はいちいち人に訊かないで自分で調べろと渡された。
「そうか……」
祖父は目を瞬かせて別の書棚の方に向かう。
「まあ、巽はおまえくらいの年にはそれこそもっと難しい学術書を読んでいたが」
中川巽。誰もが天才だという、駈たちの伯父だ。
「これを読んだらどうだろうか」
持ってきてくれたのは「星の伝説」というタイトルの分厚い本。
「まだろくに漢字も読めない頃、おまえのお母さんがどうしても読みたいとせがむから、僕がフリガナを振ってあげたんだ」
開いてみると、几帳面な字で行間に読み仮名が振ってある。
「辞書を渡すなんて発想がおじいちゃんにはなくてねえ。そうか、そうすればよかったんだね」
それは、きっとおじいちゃんがとてもやさしい人だから。とてもとてもお母さんを愛していたから。
本を開いたまま固まっている駈を祖父は腰を屈めて覗き込む。
「駈には辞書があるから、こんなものは必要ないね」
慌てて駈はふるふると首を振る。
「ボク、これを読みます」
「そうか」
おじいちゃんは嬉しそうに笑って駈の頭を撫でてくれた。
他にも何冊か借りていく本を決めてリビングに降りていくと、そこではきゃっきゃとはしゃぎながら花梨が幸絵に髪を結ってもらっていた。
「花梨ちゃんの髪はあの子にそっくりね」
「お母さん?」
「ええ、そう。こしがあって豊かで重くて。もっと長くのばせばいいのに」
「んーーどうしようかなー」
「あの子も私が言っても伸ばしてくれなくてね。巽さんが言ったらころっと……」
延々と続きそうな思い出話に男子チームは目配せし合い、そっと庭へと出て行った。
お母さんは天使で悪魔で女神様。やさしい両親に愛されて育った。
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