187 最後の仕上げ2

「エルヴィン、起きて」

 フレアは寝入っている息子の頬を突く。授乳中なのだが、前日までの大移動で疲れているのか、エルヴィンは乳を口に含んだままで寝入ってしまうのだ。それでもお腹は空いているらしく、口を離せばぐずるので、仕方なくこうして起こしてやるのだ。

「エルヴィン」

 もう一度突けばようやく口が動いた。肩に止まるルルーを通じ、息子が乳を吸ってくれる姿を眺めるのは何ともいえず心癒される瞬間だった。

「お方様、殿下がいらっしゃいました。朝食を一緒にと仰せですので、代わりましょう」

 そこへ乳母役の女性が部屋に入って来る。エドワルドの仕事が一段落したのかもしれない。それならば彼が好きなお茶を淹れてあげようと、フレアはまた寝てしまったエルヴィンを彼女に預け、急いで身だしなみを整えた。

 一方、エルヴィンを受け取った彼女は躊躇ためらうことなく豊満な胸を肌蹴はだけると、再びぐずりだしたエルヴィンに乳を与える。すると女ですら見惚れる豊かな胸に赤子は夢中で吸い付いている。産後に体調を崩したこともあって、フレアは少し乳の出が悪いのかもしれない。

「それではお願いします。飲み終えたら後で連れて来て下さい」

「はい」

 少しだけ彼女が羨ましいと思いながらフレアは寝室を後にした。




「おはようございます」

「おはよう」

 エドワルドは食卓に付いてお茶を飲んでいた。別れてから一時も経っていないのに、こんなあいさつを交わすのはおかしいかもとは思うのだが、他に適当な言葉が思いつかなかったのだ。

「お仕事終わりましたの?」

「まだあるが一段落ついた。コリンは?」

 エルヴィンのむずかる声は聞こえたが、コリンシアは姿を見せるどころか声すら聞こえない。

「疲れているし、昨夜は十分に眠れなかったから寝ているの」

「そうか……」

 大人びたことを言っていてもまだまだ子供である。ラグラスの件で責任は十分に果たしたし、今はゆっくり休ませてあげた方が良いだろう。

「お茶を淹れなおしますね」

 エドワルドの茶器は空になっていた。フレアは手早くお茶の支度を整えてからオリガが支度してくれた朝食の席に着く。

 食卓の上には素朴だが手の込んだ料理が並んでいる。それだけでも贅沢なのだが、フレアの淹れたお茶が加わると一層豊かな気分になる。エドワルドは顔を綻ばせながら、妻と2人で食事を楽しんだ。

「失礼いたします」

 授乳が終わったらしく、乳母役の女性がエルヴィンを連れて来てくれた。背が高く、きびきびとした動きをしている事から彼女も武術をたしなむのだろう。事実、故郷の村では自警団の束ねをしている父親を手伝い、大の男達からは姐さんと呼ばれて村の治安に貢献して来たらしい。酔漢を片手であしらい、更には押し入った強盗をフライパン1つで撃退したという武勇伝の持ち主である。

「いらっしゃい、エルヴィン」

 腹が満たされたのか赤子はぐっすりと眠っていた。フレアは彼女に礼を言って息子を受け取り、夫の元に戻る。彼女は頭を下げると、コリンシアが眠る奥の寝室に戻って行った。

「よく寝ているな」

「この子も疲れたのでしょう。たくさんの人に会ったからびっくりしたのかも」

「そうか……」

 妻から息子を手渡され、また泣かれるのではないかと恐る恐る受け取ったのだが、予想に反して赤子はすやすやと眠っている。相変わらず指をしゃぶっており、時折口を動かしているのは乳を吸っているつもりなのだろうか。

 ようやく明るい所でじっくりと息子の顔を眺めることが出来た。この1年間耐えて待ち、ようやく戻ってきた幸せは以前にもまして何倍にも膨らみ、心を満たしていた。

 そこへ戸を叩く音がして、ミハイルといつもとは違う小竜を連れたアレスが入って来る。こうして訪れて来たと言う事は、何か不測の事態でも起きたのだろうか?

「夫婦水入らずのところを邪魔してすまんな」

 少々身構えてしまったのだが、フレアは父親に席を勧め、すぐに人数分のお茶の支度を始める。その間に彼女の家族は彼女の夫が抱いている赤子に釘付けとなる。

「小っちぇー」

「ふむ。よく寝ておるな」

 アレスは昨夜、小さな甥っ子の姿を見てはいるが、何分慌ただしかったので初対面と変わらない。ミハイルも初めて対面した孫を婿から手渡され、その小さな寝顔に相貌そうぼうを崩す。

「髪の毛ぽやっぽや」

「ふむ。そうだな」

 アレスがエルヴィンを覗き込むと、肩の小竜も同じように覗き込んでいる。本当はルルーも赤子をかまいたいのだが、お茶を淹れるのに離れてもらっては非常に困る。うずうずしている小竜をたしなめてフレアは人数分のお茶を淹れた。

「話には聞いていたが、顔のつくりは総じてフレアに似ておるな」

「そうですね」

 エドワルドは手を伸ばして寝ている息子の髪に触れる。大人の男が3人も揃って赤子の顔を覗き込んで和んでいる姿はなんだか微笑ましくもある。だが、彼等は和むためだけに来たのでは無いのだろう。

「何かありましたの?」

 フレアの問いかけに、とたんに肩を落としたアレスはエドワルドに対して深々と頭を下げる。

「すみません、義兄上。ベルクをどこへでも誘導できると豪語しましたが、フォルビア正神殿に向かわせることが出来なくなりました」

「彼の居場所は分かるか?」

「奴が情報の拠点だと信じていた小神殿に居ます」

 危険を察知して逃げ出したのかと思ったのだが、そうでもないらしい。ラグラスも捕えたし、思った以上に強力な後ろ盾も得ているので、実力行使も辞さないつもりだったエドワルドは少しだけ拍子抜けする。

「ラグラスが義兄上を脅迫した知らせには結構慌てた様で、慣れていないのに馬で夜通し駆けてこちらに向かっていたそうです。天晴だけど無理した結果、休息に立ち寄ったその小神殿でふとしたはずみで腰を痛めて動けなくなったと知らせが来ました」

「え?」

「ギックリ腰だよ。本当に笑わせてくれる……」

 ベルクの護衛に紛れているガスパルから送られてきた小竜は、痛くて動けないのにどうにかして移動しようとするベルクの姿も記憶していた。なかなか見られない彼の醜態を思い出し、我慢が出来なくなったアレスはクツクツと笑いだした。エドワルドとフレアは唖然として互いの顔を見合わせる。

「自力では動けぬようだから、こちらの準備が整うまで大人しくしてくれるだろう」

 既に報告を受けていたらしいミハイルは、以外にも慣れた手つきで寝ている赤子を緩やかに揺すっている。赤子の方もまるで起きる気配もなく、相変わらず指をしゃぶりながら健やかな寝息をたてていた。

「見届け役の連中にはルイスが知らせに行った。まだ来ておられないが、タルカナの宰相閣下が到着されたら打ち合わせをしておきたいのだが、ご同席頂けるか?」

「勿論です」

 エドワルドは即答するが、気になるのは見届け役に集まった顔ぶれである。タルカナからは宰相が来るとなると、他もそれぞれの国で中枢を担う人物が来ているのではないだろうか……。

「お義父様、他には何方がお集まりくださっているのですか?」

「そうだなぁ……ガウラの王弟殿下とダーバの御隠居、後は形ばかりだが礎の里の綱紀を司る賢者殿かな。案内役にディエゴも連れて来た。エヴィルからは何方が来るかは分からないが、タルカナの宰相殿とご一緒に来られる予定だ」

 ミハイルがご隠居と呼んでいるのはダーバの先代国主である。ミハイルと同年代だが、1年前に位を息子に譲って悠々自適の生活を送っている。それでも現役国主と変わらない影響力を持つのは確かだった。思った通り、錚々そうそうたる顔ぶれである。

 ちなみにエルニアを始めとした大陸の南方にある国々は、今回は国主直筆の書簡をしたため、ミハイル達に全てを委任していた。

「奴が動けるようになるまで待ってもいいが、早々に終わらせる方向で話を纏めたい。後は置き去りにされた大母補様だが、送った護衛と合流してそのまま船でこちらに向かっているそうだ。おお、そうだ。サントリナのオスカー卿がいち早く駆けつけて来てくれたとシュザンナ様が感謝していた」

「オスカーが?」

 ベルクに護衛を断られたと聞いていたが、気を利かせて陰ながら後を追っていたらしい。おそらく、サントリナ公カールの入れ知恵なのだろう。

「情勢も変わった事だし、飛竜でこちらにお連れした方がいいかもしれんな」

「そうですね」

 ベルクが正神殿に到着するのを確認してから移動しようと思っていたが、この分ならここを引き払い、城か正神殿に移ってしまった方が良さそうである。城に滞在しているベルクの部下は、聖域の竜騎士達の手助けもあって昨夜のうちに捕縛したので問題はない。

 別働隊に同行したオルティスも今頃は城に到着しているはずなので、妻子の帰還を伝えれば迎える準備をぬかりなく整えてくれるはずだ。だが、少しは猶予も必要だろう。

「ここを引き払い、正神殿に移ります」

「では、我らも移動すると致そうか」

 エドワルドが心を決めると、ミハイルは視線をアレスに向ける。どうやらその辺の手配を全て彼に押し付けるつもりの様だ。アレスは肩を竦めると彼等に頭を下げて部屋を出て行った。

「皆に知らせてくる」

 フレアが淹れなおしてくれたお茶を飲み干すと、エドワルドも彼等のやり取りを黙って聞いていた彼女にそう断り、頬に口づける。そしてミハイルに頭を下げると、新たな情報と方針を通達しに部屋を出て行った。

「なかなか、良い男ではないか」

 その姿を見送った後、赤子を抱いたままのミハイルが感想を漏らす。彼の言ういい男の基準は決して見かけだけでは無い。それを知っているフレアは、夫を認めて貰えた嬉しさに自然と笑みが零れる。

「ええ」

 幸せそうな笑みを浮かべる彼女の姿にミハイルは満足気に頷いた。





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