75 初雪が降る前に1

 深まりゆく秋の日の昼下がり、聞き捨てならない噂を耳にしたマリーリアは怒りを胸にエドワルドの執務室を目指していた。相変わらずの無表情だが、わき目も振らずに大股で歩く彼女をすれ違う人達は何事かと振り返る。

 きっかけは鍛錬の休憩中に聞いた他愛もない会話だった。

「そう言えば最近、団長はまめにグロリア様のお館に通っておられるな」

 そう切り出したのはキリアンだった。

「そうだね」

 ルークは古びた長剣の手入れをしながら応じる。

「珍しいよな。女の所へ通う事はあっても、グロリア様の所へこれ程頻繁に顔を出す事は今まで無かったよな。おまえ、何か知らないか?」

 横からケビンが頻繁にエドワルドのお供をしているルークに訊ねる。

「コリン様が病で倒れられた時に、すぐに駆けつけなかったものだからグロリア様が相当怒っておられたらしい。冬まではあちらからここへ通う事に決めたと言っておられた」

「大変だな、団長も」

「下手なしゅうとめよりも怖いな」

 話を聞いていた2人は納得して頷いている。グロリアが彼の低姿勢な態度を気に入ったらしく、最近は館でルークも夕食に同席する機会が増えた。自然とそこで交わされる会話も耳に入ってくる。

「グロリア様にも話しておられたけれど、なんでも長く付き合っていた恋人とも別れたそうだ。しばらくはいい父親に徹すると仰せになられていた」

 他の2人が何か言いかける前に、マリーリアの体が動いていた。

「ルーク卿、それはガレット夫人の事か?」

 彼女はものすごい勢いでルークの襟首を掴む。少し締め上げられてルークはむせて咳き込み、周りの2人が慌てて止める。

「マリーリア卿、落ち着いて」

「も、申し訳ない。ルーク卿、大丈夫か?」

 マリーリアは我に返ると、慌てて手を離し、ルークはその場にしりもちをついた。

「……げほっ、げほっ……。いきなり、何ですか?」

 ルークは喉元をさすりながら涙目でマリーリアを見上げる。

「先ほどの話、殿下の恋人というのはガレット夫人の事ですか?」

 マリーリアは真剣な眼差しで問う。彼女の迫力に押され、ルークは苦情も言えずに首を傾げる。

「同一人物かは分からないけど、エルダと呼んでおられた」

「……」

「マリーリア卿?」

 無表情だが彼女からものすごい怒りのオーラを感じ、男3人は思わず後ずさる。

「ありがとう」

 唖然とする3人にマリーリアは静かにそう言い残すと、真直ぐにエドワルドの執務室へ向かったのだった。




「殿下!」

 マリーリアはノックなしで執務室に飛び込んでいた。

「何事だ?」

 執務室ではエドワルドとアスターが人員の配置について最終確認をしていたところだった。ものすごい勢いで飛び込んできた彼女に、アスターも思わず気圧されてしまう。

「どうした?」

 エドワルドが1人平然として椅子に座ったまま彼女に訊ねる。

「ガレット夫人と別れられたのは本当ですか?」

「君には関係ないだろう?」

 書き物をしていた手を止めてペンを置くと、頬杖をついてマリーリアを見上げる。

「そんな事はありません。私は……私は彼女の友人です」

「友人ねぇ……」

 エドワルドは揶揄やゆするような視線を送るが、彼女は気にせず机に手をついて彼に迫る。

「本当ですか? 教えて下さい」

「……まあ、そこまで言うのなら答えるが、その通りだ」

「どうしてですか?」

「そこまで答える義務はない」

「……」

 マリーリアは答えようとしないエドワルドを睨み付けるが、堪えた様子もない彼は平然としている。

「私の口から言えるのはここまでだ。仕事の邪魔だ、下がれ」

「……では、外出許可をください」

「良かろう」

 エドワルドの返答にマリーリアは頭を下げると執務室を出て行った。走り去る足音からすぐさまエルデネートの所へ向かったのだろう。

「友人ねぇ。彼女の口から出て来るとは思わなかった」

 エドワルドが呟く。

「良き傾向だとは思いますが……。しかし、良かったのですか?」

「外出ぐらい構わないだろう」

「いえ、ガレット夫人とお別れになった事です」

 副官のアスターはエドワルドがエルデネートに別れを告げた日に本人から聞いて知っていた。ただ、エドワルドにとって彼女がただの恋人ではなく、陰日向となって公私ともに支えてきたことをアスターは知っているので、彼女が抜けた影響を心配していた。

「お前までそんな事を言うのか? どのみちこのままの関係をこれ以上続ける事は不可能だ。本来なら1年前に終わらせなければならなかったところを私の我儘で引き留めていたのだ。遅すぎたくらいだ」

「失礼しました」

 意外に強い口調で反論され、アスターは失言だったと反省して頭を下げた。彼にしては珍しく、余計な事を言ってしまったようだ。

「それよりもさっきの続きだ」

「はっ」

 初雪が降り、濃霧と共に妖魔が現れるまであとわずかである。彼らの仕事はいくらでもあった。




 マリーリアは馬を借りるとロベリアの街へ飛び出して行った。住民から苦情が寄せられれば始末書物のスピードで馬を走らせ、街外れにある梔子館に向かった。

「まあ、マリーリア卿!」

 エルデネートは荷造りの最中だった。冷たい風が吹き付ける中、外套も羽織らずに薄手の稽古着のまま息を切らして現れたマリーリアに彼女は驚く。

「どうなさったのですか?」

「殿下に……殿下と別れられたと伺って……」

 息を整える間もなく彼女は尋ねる。

「お聞きになったのでございますね。その通りでございます」

「……引っ越しされるのですか?」

 荷造りされた箱を見てマリーリアは尋ねる。

「ええ。折角いらして下さったから、お茶にしましょうか?」

 エルデネートはにこりと微笑むと、玄関先で立ちっぱなしのマリーリアを中へ招き入れる。家具や調度品はそのままなのに、彼女の手作りらしい飾り物の類を取り払っただけで、屋敷の中はガランとして見えた。先日通された客間も、あの時の居心地良さを感じなくなっていた。

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