第19話「月明かりの下」
ざわざわとざわついた心に眠りを邪魔され、アーネストは瞼を開き目を開ける。目に映るのは、窓から差し込む月明かりに照らされた宿舎の天井。
これで何度目だろうか、上手く寝付けず再び目を覚ましてしまった。
仕方なくアーネストは布団を払いのけ上半身を起こす。
昼間の授業であった墜落事故。その時から感じる居心地の悪さと、何か起こるのではないかという不安が、心を落ちくかせてはくれず、心がざわついたままだった。
あの後、一部の授業を中止にし、今いる竜騎学舎の講師たちを集めて対策会議を講じた。そこで確りとした対策案が建てられる事は無かった。
応援を呼び警備を強化するにも、人員の選別に移動と時間がかかるため直ぐに行えず、報復などという行為は、全員が納得するわけもなく、また、統治者である国王を通さず行える訳もなく却下となった。最終的に、手の空いた講師が警備強化として警戒に当たるという形で会議は終了したのだった。
息を付き心、落ち着けようとする。それでもやはり、心は静まらず、睡魔がやってくることは無かった。
それでアーネストは寝る事を諦め、立ち上がる。そして、壁に立てかけてあった鞘に収まった剣を手に取り、宿舎の外へと歩き出した。
少し身体を動かし、さっぱりすれば、不安やあれこれを忘れ眠る事ができる。そんな気がした。
* * *
外へ出ると、夜空には綺麗な満月が浮かんでいて、雲は殆どなく、とても綺麗な夜空だった。
運動場へと出ると、宿舎の殆どの者が眠っているのか、とても静かだった。
静かな運動場に一人たたずむ。そうすると少しだけ昔の事が思い出される。
竜騎士である事を辞め、逃げ出した頃の記憶だ。何かを忘れたくて、何も考えたくなくて、ただひたすら剣を振っていた。
時間も場所も違うけれど、静かな場所に一人で立つと、少しだけその頃の事が思い出され、寂しい気持ちに成る。
一度大きく深呼吸して、頭に浮かんだ記憶を振り払う。そして、目を瞑り、精神を研ぎ澄ます。
ブン、ブンと風を切る音が聞えた。どうやら、アーネスト以外に誰かが居たようだった。
そっと目を開き、音がした方へと目を向ける。アーネストが立つ位置から少し離れた運動場の一角、そこで一人の少女が木剣を振っていた。
栗毛色の髪を後ろで結わえた少女――リディアだった。
リディアは授業で教えた通りの型にそって剣を振り、素振りをしていた。
彼女のきめ細かく、傷のない綺麗な肌を汗が伝い、小さく荒い息が微かに響く。いつからやっていたのだろうか、疲労は相当なものだと感じ取れた。
疲労から若干のブレを見ることができたが、それでも教えた型通りの動きで、よどみなく綺麗な動きをしていた。生真面目なリディアらしい動きだった。そして、先ほど昔の事を思い出したせいか、そんなリディアの姿に、昔の自分が重なって見えてしまった。
「こんな時間に、何してるんだ」
リディアの傍に近付き、アーネストは声をかける。それにリディアは動きを止め、一度大きく息をする。
「見ての通りですよ。先生こそ、こんな時間にどうしたのですか?」
「俺は……ちょっと寝付けなくてな。身体を動かそうかと思って」
手にした剣を掲げて見せ、答える。
「そうですか……」
リディアはそれに、静かに応え。興味を無くしたのか、アーネストか視線を外し、再び木剣を構え直す。
一振り、二振り、リディアは木剣を振るう。何か思いつめた様なリディアの表情、その真意を未だに聞けず、その言葉を聞こうとアーネストは言葉を探す。けれど、やはりどう言葉をかければいいか判らず、次の言葉が見つからなかった。
「先生。私と勝負してくれませんか?」
しばらく言葉を探していると、唐突に剣を止めたリディアがそう尋ねてきた。
「どうした? 急に」
「このまま剣を振っていても、何も見えてこない気がするので、だから、貴方という物差しで、今の私を測りたいのです。付き合って、くれますか?」
リディアはアーネストの方へと向き直り、気持ちの籠った鋭い目で見返してきた。
少し考える。目の前の少女が、どういう意図でその申し出を口にしてきたかを思考する。そして、見返した彼女の視線から伝わる思いの前では、あれこれ考えるより受けてみる方が良い様に思えた。いま、彼女が求めているものは、アーネストの手合い、ただそれだけなのだと感じた。
「分かった。少し、待っていてくれ」
アーネストは静かに応え、軽く身体を動かし、身体を解す。
そして、リディアと向き合う様に立つと、手にした剣の鞘の肩掛け用のバンドを鍔の辺りに巻き付け、剣が鞘から抜けないように固定する。これなら、間違って打ち込んでしまっても大怪我に至る事は殆どなくなる。
「そのような武器で良いのですか?」
アーネストの手にした剣を見て、リディアは眉をひそめる。
鞘に納めたままの剣では、大怪我を負わす事は少なくなるが、同時に空気抵抗を強く受けるため、上手く振り抜けなくなるうえ、武器も重くなる。素振りをする程度なら問題が無いが手合いとなると大きなハンデとなってしまう。
「構わないよ。そっちは、身体を動かした後で疲労している。これくらいのハンデがあった方が、ちょうどいい」
アーネストの返答を聞くと、リディアは納得したように表情を戻し、アーネストと対峙するように木剣を構える。
「手加減は……しないでくださいよ」
リディアが告げる。そして一度小さく息をすると共に目を閉る。
ゆっくり目を開くと、強くアーネストを睨み――リディアは素早く踏み込んでくる。
試合を見守る審判は無く、よって開始の合図は無い。故に、踏み込んできたリディアの一撃が開始の合図となる。
素早く、鋭い一撃。身体を動かし、疲労が溜まった状態から繰り出されたものとは思えないような、鋭い一撃だった。それにアーネストは軽く剣で払う様に打ち、リディアの一撃を弾く。
アーネストの対応を見て、リディアは踏み込んだ後素早く距離を取り、構え直す。単純な打ち合いでは経験で勝るアーネストに勝てないと思ったのだろう。
アーネストもリディアを見返し、剣を構え直す。
(手加減……か)
いつもの授業と同様に、全力を出さず直ぐに決着を付けるのではなく、相手の動きのすべてを引き出させ、足りない事を見出させるような立ち回り。最初はそれを考えていた。けれど、先ほどの一撃で、リディアが口にしたように、そういった指導ではなく、本気の勝負を望んでいるのだと理解できた。
こちらも息を付き、深く集中する。
再びリディアが踏み込んでくる。先ほどと同じような、早く、鋭い一撃。それをアーネストはもう一度弾く。リディアは、今度はそれで終わらせることは無く、弾かれた木剣を引き戻し、すぐざま二撃目を放つ。アーネストはその木剣の動きに合わせ、すぐさま剣でそれを切り払う。
三撃、四撃と攻撃が続き、その後リディアは再び距離を取る。やはり、鞘に収まった剣は重く、速度が出ない。いつも通りに動くのは少しだけ難しそうだった。
(それに、早いな)
教えた事を吸収し、隙なく、素早く打ち込んでくるリディアに嬉しさを覚え、アーネストは小さく笑みを浮かべる。
アーネストは二度ほど素振りをしてみせ、自分の中の感覚と、重く振りにくい剣との感覚のずれを確かめ修正していく。
リディアが少しずつ間合いを伺う様に距離を詰めてくる。そして、三度目の踏み込み、振り抜いて来た。先ほどより早く、鋭い一撃。勝負を付けに来た。そう思える一撃だった。
アーネストはそれを弾き、そして、それを予想してのリディアの二撃目よりも早く、反撃に入り、素早く剣を振り抜く。
リディアの首筋に、鞘に収まった剣の刃を添える。いつものような立ち回りではなく、相手の全力に自分の全力でもってねじ伏せる一撃。それによって、勝負がついたのだ。
「……参りました」
リディアが少し悲しそうな声で、降参の言葉を告げる。それが終了の合図となる。
アーネストは止めいていた息を吐き、剣を下げ、緊張を解く。
負けを認めたリディアは、こちらも緊張を解き、身体中の力が抜けたかのようにへたり込んだ。
「やっぱり、負けてしまいましたか……」
どこかすっきりしたような声で、それでいて寂しさを滲ませたような声で、リディアはそう口にした。
「これでも、剣術の腕を買われてここへ来た人間だ。そう簡単に負けはしなよ」
「そうですね……けど、全く見えなかった……抜身の剣では無いのに……剣術位なら、と思ったんですけどね……」
諦めた様な言葉でリディアは零す。
「でも、君は強かったと思う。教えた事を確りと吸収していて、とてもつい最近剣術を学び始めた者とは思えなかったよ」
アーネストの言葉に、リディアは小さく少しだけ嬉しそうに笑う。
「先生。先生は、私が竜騎士としてやっていけると思いますか?」
「どうだろうな。俺は竜騎士じゃないから、はっきりとは断言できないけど、君は竜騎士としてやっていける資質は十分持っていると思うよ」
実際に竜騎士として歩めなかったアーネストには、竜騎士に成った後の事は判らない。けれど、剣術の授業以外を見ていても、リディアは成績が示す通り、竜騎士としての能力はどれも学年の中でトップクラスの実力があり、竜騎士として大成できるだけの実力を備えている様に見えた。
「まるで、竜騎士であるかのような見方の答えですね」
「え」
リディアの鋭い指摘にアーネストは思わず驚きの声を上げる。アーネストの反応に、リディアは小さく笑う。
「私、ずっと不安で怖かったのです。演習の時から。自分が竜騎士としての必要な能力を持っていないのではないかと。
それで、ずっと迷っていました。このままやっていくかどうかを」
「……答えは出たのか?」
静かに語り始めたリディアに、アーネストは問いかける。リディアは一度小さく頷く。
「はい。だから、私、やめようと思います。竜騎学舎を」
「え」
本日二度目の驚きの声を上げる。
「竜騎士に成れば、私のなりたい私に成れると思っていました。だから、今まで頑張ってきました。けど、人はそう簡単に変われない。
出来ない事は、やはり出来ないのだと、その事だけを強く教えられました。だから、やめる事にします」
リディアの答えに、アーネストは直ぐに返す言葉を見つける事は出来なかった。リディアがどのような思考を辿ってその答えに至ったか判らない。それでも、色々な事に葛藤し、苦しんで決めたという事は、見ていて判断できた。それ故に、それに反論を挟むことは無粋な事の様に思えてしまった。
「竜騎学舎を辞めて、どうするつもりなんだ?」
「どうもしませんよ。前の生活に戻るだけです」
少しだけ顔を伏せ、感情を殺したような表情を声で、リディアは答えた。その姿は、このまま放って置いたら、取り返しのつかない事になるような気がして、見ていられなかった。
「出来ないから……出来ないと思ったから、やめるのか?」
目の前の少女を引き留めたくて、アーネストは尋ねた。
「出来ないのだから仕方ないじゃないですか」
「確かに、本当に出来ない事は、出来ないで、諦めるしかないとは思う。けど、君が竜騎士を諦めるのは、まだ早いんじゃないか?
君がなりたかったものは、そんなに簡単に諦められるものなのか?」
アーネストの言葉に、リディアは深く顔を伏せ、少しだけ身体を強張らせた。
「俺……の友人で、一度竜騎士を諦めた奴がいた。そいつは、竜騎士としての任務で、大きな失敗をして、自信を無くして、大切なものを無くした。
それで、自分は竜騎士に成れる人間、なるべき人間じゃないと言い続け、竜騎士である事を辞めた。逃げ出したんだ。
そいつは色々悩んで、そして、いろいろ後悔した。それでも、そいつは最終的に、竜騎士である事を選んだ。そして、ちゃんと空を飛んだ。
ずっと逃げ続けていた飛竜の背に乗って、戦場へと戻って行ったよ。
今、自分の出来ない事が、本当に出来ない事なのかなんて、今分かるわけない。だから、今それを決めつけるのは早いと俺は思う」
リディアを引き留めたくて、少しの嘘を織り交ぜて、自分の目にしてきたことを語る。それが、今のアーネストに出来る精一杯の言葉だった。
「誰にだって、どこかで躓く事はある……。ほんのちょっとの気付きや切っ掛けで、また歩き出せる……」
リディアは小さく零す。
「本当に私は、竜騎士としてやっていけるのでしょうか?」
顔を上げリディアは再び尋ねてきた。その表情は不安に揺れた儚げ表情だった。
「本当の答えは進んだ先にあると思う。けど、俺には、君なら出来ると思える」
「無責任な言葉ですね。でも、そうですね。もう少しだけ頑張ってみます」
アーネストの答えにリディアは柔らかく、そして小さくクスリと笑った。
カンカンカン、カンカンカン。と唐突に、何処からか聞きなれない鐘の音が響いた。
その音は林間学習の為の宿舎の端に備え付けられた見張り台から響いた音だった。それは、緊急時に鳴らされる鐘の音で、緊急時の対応訓練の際にも鳴らされる鐘の音でもあった。
もちろん、今、この時間に緊急時の対応訓練の予定があると聞かされていはいない。それはつまり、本当の緊急事態が発生した事を意味していた。
『グオオオォォ!!』
響いた鐘の音を掻き消す様な、大きく鋭い咆哮が辺りに響き渡った。
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