第4話屋上の契約

 日曜日の屋上はかなり混んでいた。周りは人、人、人がいて、子どもを連れた家族から二人寄り添いながらゆっくり歩を進める老夫婦もいる。ここへ来るきっかけは突然届いた無料招待券だった。周りの友達に聞いて貰っている人は私以外にはいなかった。少し不審に思いながらもお父さんが休みだったため、連れていってもらうことになったのだ。私は人ごみが苦手である。自分が急に小さくなったような気がして、大衆という渦に吸い込まれそうになる感覚が怖かった。だから父親と絶対はぐれないと最初から決心していた。でも、今まさにこの瞬間、私は父を見失っている。周りをぐるりと見渡しても父の姿はどこにもなかった。


 不安がゆっくりと私の身体を侵食してくる。声が詰まる。助けを求めたり、泣き叫ぶことができない。自分を囲む建物、雑音、冷たい風がどんどんと大きくなってゆき、身動きをとることもできずそのまま飲み込まれてしまいそうだった。


 「お嬢ちゃん、迷子になったの?お父さんは?」


 私の幻想が一瞬かき消された。声のする方を向くと、若い男性がしゃがみながらこちらを見つめていた。全身がブルーのコスチュームに包まれていて、戦隊ものの一人なのだろうかと考えてしまう。気づくと鼻が何らかの香りで満たされる。この香りは危険信号なのではないかと思った。知らない男の人に声をかけられてはいけません。


 「あの・・・。お父さんいなくなっちゃったんです。案内所とかの場所って知ってますか?」


 案内所に行けば安心できると思った。しかし、私は尋ねてからはたと後悔した。悪い人は何かにつけて私をどこか人気のないところへと連れていこうとするに違いない。私はその手助けをしてしまったのではないか。


 「案内所?どこにあるんだろうなぁ・・・。わからないなぁ。」


 男性は心底困ったような顔をしながら右手で長い髪をかき上げる。


 「でも、お嬢ちゃんをある場所に連れていきたいんだよね」


 やはり私の予想は的中であった。この男性は私を誘拐しようとしているに違いない。誘拐されたことがないから現実味が湧かないけれど、危険なことに決まっている。スカートの裾を両手で握りしめる。


 「わ、私は、、、誘拐なんてされないんだから・・・」


 私は全速力で逃げ出そうとした。


 「悠太君って知ってる?同級生の」


 男性が発した一言に、私は込めた力を一気に奪われる。確かに同級生で悠太君はいる。でも、どうしてそのことをこの男性が知っているのか。


 「その悠太君のところに連れていきたいんだよね。そして、誘拐?なんてしないよ。こんなバレバレの格好で誘拐をする人はいないと思うよ」


 男性は終始しゃがんだまま、おだやかな表情だった。


 「悠太君と喧嘩しちゃったんでしょ?ヒーローはそういうのに耳聡いんだ。二人には仲良くなってほしくてね」


 私は黙ることしかできなかった。この男性が言うように誘拐するならもっと自然な格好をしてもよいはずだった。もはや目の前にいるヒーローと名乗っている男性が悠太君の所へと連れていってくれることは本当であること心の中で認めている。しかし、男性は悠太君と私が仲良くなってほしいと頼んでいる。それとこれとは話が違うではないか。悠太君は私の大切なぬいぐるみを理由もなく痛めつけた。ぬいぐるみだからまた買ってもらうこともできるし、直すことだってできるはずである。しかし、私は悠太君を許せずにいた。それはどうしてなのだろう。


「お嬢ちゃんは、悠太君に何か嫌なことをされたんだよね?もしかしたら悠太君の事許さないって思っているかもしれない。許すことはとても大変で、大きな力がいる。自分にはその力がないと思えば、無理をして許す必要はない。自分が苦しむだけだからね。だけど、いつか、その力が付いたなと思ったときには、きっと許してほしい」


 男性は折り曲げていた膝をゆっくりのばし、何も言わず右手を私の方に差し出した。私にはその力があるのだろうか。今はないだろう。でも、悠太君と会って、会話を交わしたなら。私も無言で左手を差し伸べた。そして青くて大きな手をしっかりと握った。


「ヒーローが迷子を助けるよ」


 男性はこちらを向いてほほ笑んだ。私も思わず笑みがこぼれる。


 「それにしても、ブラックが遅いな・・・。ブラックが来ないと悠太君の居場所わかんないな」


 男性がぶつぶつと独り言を言い始める。ヒーローってこんなに頼りなかったっけ。


 「あ、来た来た。ちょうどよかったぞーブラック」


 「ああ、よかった」


 こちら側に走ってくる男性がどうやらブラックのようだった。ブラックはその名の通り黒のスーツを着ていた。そしてなぜか左手に見覚えのあるくまのぬいぐるみを抱えている。


 「君が杏里紗ちゃんだね。こんにちは、はじめまして。僕はブラック、といっても今はスーツ姿か。あ、はい。これ君にプレゼント。たまたま富豪のおばさんからもらったんだよね」


 そう言うとブラックと名乗る男性は私にぬいぐるみを手渡した。新品同様のぬいぐるみだった。あの日以来触れたことがなかったこの柔らかくてぬくもりのある感触。私が悠太君を許せなかったのは、たぶんぬいぐるみが高価だからとか、大切なものだからとかじゃないのだろう。きっと、この感触が忘れられずにいたからではないだろうか。


 その後ブルーのコスチュームを着た男性と、黒のスーツ姿の男性はお互いを「青木」「目黒」と言い合い、二言三言言葉を交わして解散した。青木さんは私にまた目を向ける。


 「待たせてごめんよ。こっからがヒーローショーだ」


 青木さんは私の手をグイッと引っ張り、人ごみの中をかき分けていく、敵の妨害を避けるように、私を助けるように。




 しばらくして青木さんが減速し始めた。青木さんも私も息があがっていた。よく見ると、私たちの前方にお母さんと一緒に帰ろうとするする悠太君の姿があった。青木さんは私の手を離し、目で合図を送る。悠太君の元へ行って来いということだった。

私は間に合うかどうかわからない悠太君との距離を縮めるために、あがった息を堪えながらひたすらに走った。ぬいぐるみを両手に抱きなおす。温かさが胸いっぱいに広がった。


 悠太君が帰る間際、名残惜しそうにこちらを振り向いた。たぶん私が走ってきたことに気付いたのではない。しかし、私の姿を見つけると、悠太君の目が大きく見開いた。そして隣にいたお母さんと何か言葉を交わした後、こちらに走って向かってくる。


 私の前まで来た悠太君は何かを決心したようだった。私の周りは雑然と無数の人が歩いているはずなのに、今の空間だけは、二人きりに思えた。


「あれ、ぬいぐるみ。直してもらったの」


「ううん、知らない人からもらったの」


「なんだよそのへんてこなエピソードは。どころでさ。」




 悠太君がお母さんの元へ向かった後、私は本来の状況を思い出した。私は迷子だったのだ。しょうがない、誰かに助けを求めて案内所まで連れていってもらおう。そう思ったとき、背後からお父さんの声がした。


「いやー、ごめんごめん。いつの間にかいなくなってて、すぐ捜しに行こうと思ったんだけど、変なおじいさんに捕まってね。今どき、じゃ、とか、ぞい、って言う人がいるんだな」


 お父さんは相変わらずマイペースである。お父さんが私を見ていない間に、私には様々なことが起きていたというのに。


 「もー、しょうがないなー」


 「あれ、いつもの杏里紗なら、なんでちゃんと捜してくれなかったの!とか大声で泣き叫ぶと思ったんだけどな。何かあったのか?って、ぬいぐるみもいつの間に」


「別にー。私も日々成長してるってことじゃない?力が付いたのかもねー。ぬいぐるみはヒーローからもらったんだよ」


 お父さんは訳があまりわかっていないようだったが、やがて胸をなで下ろし、顔の表情が緩んだ。もしお父さんとはぐれなかったら、ヒーローは私の前に姿を現さなかったのだろうか。いや、きっとどんな形であれやってきたのだろう。


 「ちゃんとエスコートしてよね」


 すぐにヒーローのような力を持つことはできない。けれど、自分にも力はあることがわかった。ゆっくりでいいから、どんどん強くしていこう。私は決心し、全力でわがままをはたらいた。

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