第9話β 救出
黒いもやが見える。
それは煙のように黒く、陶器を作る時の泥のように粘りがあって、かみなりのようなうなり声を上げている。
やがてもやは形を変えていって、おじいさんの顔の形になった。かみなりのように聞こえていたうなり声もおじいさんのうめき声に変わる。
とても苦しそうにもだえている。何か口を動かしているけど、言葉には聞こえない。
でもその口の動きを見ていると、ある言葉が頭に浮かんだ。
「殺される……!!」
一気に目が覚めた。
日はまだのぼっていない。
大変……。おじいさんを助けなきゃ。
急いで小屋を飛び出した。
そうだ……、殺されるって言ってた。誰に……? わからない。でも、用心しないと。
神殿の門は夜には閉まっているけれど、小屋は神殿の中にある。内側から神殿に入るのは簡単。
心配なのは暗くてよく見えないこと。
道は覚えているからゆっくり歩けば大丈夫だと思うけど……。
辺りに足音は1つ。
かすかに響くわたしの足音だけ。
転んでしまったらおしまいだ。
リコも連れて来れば良かったなぁ。
わたしは目があまりよくないのだ。
でもここまで来たらもう行くしか無い。
昨日来た、おじいさんの部屋らしき場所に来た。
暗いからあまり自信はない。もしかしたら隣かもしれない。
間違えたらおじいさんは助けられなくなってしまう。
迷いながらも扉の取っ手に手をかけようとすると、木の棒のようなものが壁と取っ手の間にかけられているのが見えた。
そして扉の隙間からは、地下にあふれていたあの嫌な臭いがした。
ここだ。
わたしはそう直感した。
誰かがおじいさんを閉じ込めようとしているのだ。
取っ手に挟まれた木の棒は簡単には外れなかった。
(外れないっ。このっこのっ……!)
足を使って押し出すと、ようやくそれは外れた。
でも……。
カランコロンと、棒が転がる音が響く。
(しまった……!)
はじき出された木の棒は、石の床に転げ落ちて大きな音を立てた。
誰かが起きてしまうかもしれない。
急いで扉を開けた。
その瞬間、それまでとは比べ物にならないくらい強烈な、地下のにおいがあふれて来た。
どうしてこんなところで……?
でも今はそんなことを気にしていられない。
急いで中に入る。
この時、真っ暗な場所に勢いよく入っていったものの不思議と何かにぶつかることはなかった。
夢で聞こえたうめき声が確かにそこから聞こえて来た。
「おじいさんっ!」
「ピトか。わしをここから連れ出してくれ……」
「うん、うんっ」
目には涙があふれた。
でももともと真っ暗な部屋。
涙がぬぐわずにおじいさんをかついでいく。
見た目よりも重たいおじいさんの体を引っ張っている内に何度か体を柱にぶつけてしまう。
でもそんなことは気にならなかった。
部屋を出ても辺りにはしじまが満ちている。幸いなことに誰にも見つかっていないみたい。
手を地について這うように進むおじいさんを、わたしはなんとか小屋まで連れていった。
「はぁっ、はぁっ」
気が抜けた瞬間、肩や足の指や膝に痛みが広がって来た。
どうやら意外に強くぶつかってしまっていたよう。
でもそれよりも、今はおじいさんを助けられたことが嬉しい。
「ピト様。どうしたんですか? それに大神官様も」
物音に気付いたリコが声をかけて来た。リコが松明に火をつけると、ようやくおじいさんの顔を見ることができた。
それは丈夫だった頃のおじいさんと違う顔つきをしていた。
目は落ちくぼんで、浅黒く、髪は強い風にあおられた時みたいに、一本一本が違う方向を向いている。
リコが水を持ってくると、おじいさんは一気に飲み干した。
そうして一息ついた後のおじいさんは、これまで見たことないような、険しい顔つきで暗闇をにらんでいた。
「テイレシアスじゃな。あの男……」
つぶやかれた名前はわたしも知るプロフェテスの名前だった。
「ピトよ。誰かに見つかるといかん。ここを離れるぞ」
「離れるって? でもここは、神殿の奥にあるし……神殿から離れるにはさっきの道を通らないと……」
「心配するな。小屋の裏側にはある仕掛けが施されている。そこから神殿の外に出ることができるのだ」
おじいさんはそう言って裏手から小屋の外へ出た。
わたしも付いていく。
「リコも来て」
わたしがそう声をかけて振り返ると、リコは既に松明を持ってわたしのすぐそばにいた。
「おぉ、そうじゃ。侍女も来るのだ」
おじいさんはそう言ってリコを手招きした。
おじいさんとリコが話すのを見たのは、これがはじめてのような気がした。
おじいさんは壁沿いに歩くと、神殿の柱についた神さまの像に手をかけて、棒のようなものをひねる。
そうして、リコの松明を手に取ると、柱のそばにある台に火を付けた。
何をしているんだろうと思ったその時、柱の回転して通路ができた。
まるで魔法のようだった。
わたしがそれを見つめて呆然としている間に、おじいさんは奥へ進んでいく。
「ほれ、ついて来い」
その言葉を合図に、わたしとリコも後に続いた。リコは松明を持ったまま器用にはしごを登っていく。
神殿から離れる方向に歩く時も、後ろから追われているんじゃないかという不安で胸の鼓動が頭にまで響いて来そうだった。
リコはおじいさんの指差す方向にゆっくりと歩いている。
神殿から離れておじいさんの味方はいるんだろうか。
「どこへ行くの?」
不安に思ってそう聞いて見る。
「屯所だ」
おじいさんはそう答えた。
「屯所?」
「兵隊のいるところじゃよ」
兵隊? 兵隊と言えば、いかめしい鎧に、とがった武器を持った人たち。そんな人たちが集まるところに行くのだろうか。
「心配するなピトよ。デルフォイの兵隊はわしの味方じゃよ。デルフォイだけじゃない。アテナイ、テーバイ、スパルタ。ヘラス中の王がわしのことを知っている」
そう言った時のおじいさんの顔はいつになく険しく、声は荒々しかった。
松明の明かりが、しわの窪みをより一層深くしている。
わたしは、はだしのまま、山の中腹にある神殿から、ふもとの町へと歩みを進めた。
屯所というところに着くと、灯りの前に腰かけた一人の兵隊らしき人がいた。かろうじて盾を立てて、剣のつかを握っていたけれど、眠っているように見える。
「これ、起きんか」
「あ……、こっ、これはプルタルコス様!? どうしてこんな場所に?」
杖で頭をこづかれた兵隊は、不愉快そうに眼を半開きにするけれど、目の前の相手が誰かを知ると、すぐに威儀を正してまっすぐ立ち上がった。
「なぁに、神殿に良からぬことを企んでおったやつがいての。ここに避難して来たというわけじゃ」
「良からぬこと?」
「話は後じゃ。この子たちも夜風に晒されたくはないじゃろう」
「これは巫女様も……。後もう一人はどなたで?」
兵隊を名乗る人は、リコを見てそう言った。
「この者は、神殿の婢女じゃよ。だが、入れてやれ。この者もわしを救ってくれた者の一人でな」
「プルタルコス様を……? わかりました。さ、こちらへ」
仰々しい剣を手にしていたにも関わらず、兵隊は、ていねいで礼儀正しかった。
兵隊に連れられて、屯所の中を進んで行く。
日の光はまだ見えないけれど、少しずつ辺りが明るくなっているように感じる。人の姿は見えない。みんなまだ寝ているんだろうか。
「ただいま、クリトン兵士長をお呼びしてきます。こちらでお待ちを」
そう言って、兵隊は出ていった。
どうやら安全そうだということがわかると、ようやく安堵のため息をつけた。
「ねえ、これからどうなっちゃうの?」
誰にも目を向けずに、そうつぶやいた。
「まずは、神殿を私物化しようとする不届き者を成敗せねばならぬな……。心配することはない。ここにいる男たちがやってくれるでな。ピトは事がおさまるまでここでゆっくりしておくと良い」
「不届き者?」
「お主も知っているテイレシアスのことじゃよ」
そういえばおじいさんを助けた時もその名前を聞いたのだった。
「あやつは、わしを毒で殺そうとしたのだ」
薄々と感じてはいたものの、それをはっきりと聞いた時、わたしは空気が震えるのを感じた。
けれど、その重大な事実から少し離れたところで、些細とも思える別の疑問がふくらみはじめた。
「あの地下のにおいが毒なの?」
わたしがこう言うと、おじいさんの目の奥が少し光ったような気がした。
「いや……、あれは神に近づくための薬なんじゃ。少しだけなら、この世界にいながら神に近づくことができる。しかし、飲みすぎると神の世界に行ってしまう、つまり死んでしまうということなんじゃよ」
「神の世界に行くことは悪いことなの?」
わたしがそういうとおじいさんは少し困った表情を浮かべた。
「悪いことではないよ。ただ、わしがいなくなってしまうと、邪な考えを持ったテイレシアスめらが神殿に居残り続けることになるじゃろう。わしはそれが許せないのだ」
「テイレシアスはよこしまなの?」
「そうとも。テーバイの王族から賄賂をもらっていたという噂もあった。そしてわしを殺そうとしたことからも、やつが悪であることは疑いようもない」
「そうだったんだ……」
テイレシアスは、よく人を叱る怖い人だったけれども、殺す殺さないとまで考えているとは思わなかった。
おじいさんを殺そうとしたというのは恐ろしいことだけれども、恨む気持ちよりも恐ろしいという思いが先に来た。
がちゃがちゃと、金属の音がこだまする。心を不安にさせる、痛々しい音。
部屋の入り口に目を向けると、さっきの兵隊よりも、ひとまわり大きな体をした人がおじいさんの前にひざまずいた。
「アディマントスの子クリトン、ただいま馳せ参じました。この度御身が大難を免れたこと、ヘルメス神に感謝いたします」
「前口上は良い。夜が完全に明ける前に誅伐に向かう。脱走が気付かれている可能性も高い。機先を制する方が良いだろう」
「は! 兵を三十人ほど連れて行きます」
「突入する人員はそのくらいで良いじゃろう。だが、神殿を囲う予備兵も別に五十人ほど借りるぞ。装備は軽装で行け。百人に満たないとは言え鎧をまとっていては、うるさくて気づかれてしまうであろう。神殿の者らを捕らえるのに鎧は不要である。そして、神殿には敵と仲間が混在しておる。殺さずに捕らえよ」
「は! 突入する先行隊はすぐにでも出兵可能です。後続は、後を追ってくるよう部下に指示しておきます」
「頼むぞ。あらかた捉えたら神殿の前に並べるように。……わしの同胞にも少し手荒な真似をしてしまうことになるが、致し方あるまい」
そうおじいさんが伝えると兵隊たちは、部屋を後にした。おじいさんも立ち上がりその後を追って行き、部屋を出る頃にわたしの方に振り向いた。
「ピトよ。おぬしはここで待っておれ。神殿は邪悪な人間に汚されてしまった。浄化が必要なんじゃよ」
わたしが何も答えないままおじいさんを見つめていると、おじいさんはわたしの頭に軽く手を置いて、部屋から出て行った。
きっとわたしは不安そうな顔をしていたのだと思う。
浄化、というのは何をするんだろうか……。
もしかして……、あの鋭く尖った武器でテイレシアスのおじさんを突くのだろうか。それを思った瞬間、自分の胸が突かれたかのような感覚に襲われた。痛くて、重くて、心が詰まる。
「ピト様、どうしたんですか?」
かたわらに座っていたリコが心配そうにわたしの顔をのぞきこんできた。
「えっと、神殿で起きることを想像したら途端に胸が苦しくなって……」
「お優しいんですね。ピト様。でも大丈夫です。テイレシアスはおじいさんを殺そうとしていた悪い人なんですから。」
「悪い人でも、苦しいものは苦しいよ」
わたしがそう答えると、リコは難しそうな顔をした。屯所の窓からは神殿が眺められた。神殿は何事もなかったかのように静かにたたずんでいる。
あんなに大変なことが起こったのに……。
そっけない様子がなんだか不気味に感じられた。
部屋の出口には、頭とお腹に硬い鉄をのせた兵隊の後ろ姿が見える。
「ねぇ、外を見て良い?」
そう声をかけてみる。
兵隊は、振り返ると、岩みたいに硬そうな表情で、「だめです」と言った。
少し間を置いて、「大神官様の身に危機が及んだのです。巫女様も安全とは言えません」
と言葉を続ける。
「この建物からは出ないから。それなら良いでしょ?」
わたしがそう言うと、兵隊は困ったような顔をして、うーんとうなった。
「大神官様が帰ってからならご案内できます。それまでは、この部屋でおとなしくしていてください」
そう言って兵隊はわたしを部屋から出そうとしなかった。
諦めて寝台へと戻る。
おじいさん、どうせすぐに戻ってくるよね。
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