第5話 神憑きの儀

 朝。誰に起こされることもなく自然に起きる。

 昨日なかなか眠れなかったのに、何故かあたまはすっきりしていて、まぶたは軽い。

 顔を洗うために部屋を出よう。

 「おや、もう起きたのかい」

 おばあさんが声だけ聞こえる。

 「おはよー」

 と、わたしも声だけ返す。

 裏口から出たところにある井戸で顔を洗う。

 とても冷たい。冷たさが頭の奥まで染み込む。

 家の中に戻ると、身分の高い人が着ていそうな衣装が飾られていた。

 朝日に照らされたそれは、きらきらと光っているかのように見えた。

 「これが巫女の花嫁衣装さ。きれいなもんだろ」

 「うん。とてもきれい。でも……花嫁衣裳って?」

 「あんたは神様の花嫁なんだよ。巫女になるってことは神様の花嫁になるってことさ。就任式は結婚式だともいえるわね」

 衣装をじっと見る。布が幾層に折り重なっていてとても複雑なつくり。

 どうやって着るんだろう。

 「ちょっと待ちな。そんな格好でこれを着る気かい? こっちにおいで。すいてやるから」

 おばあさんはしたり顔を浮かべながらそう言う。

 「うん」

 と行って付いていく。

 そんなにぼさぼさなんだろうか。自分としてはいつもとおりなんだけど。

 いつもぼさぼさなのかも。

 衣装を身にまとうと最後に月桂冠をかぶった。

 鼻に親しんだにおい。

 大勢の神官に付き添われて、本殿の中に入っていく。

 とびらは大きく開かれていて、こんなに広く開くなんて知らなかった。

 前来た時は、小さくしか開いてなかったから。

 段差を上って本殿の真ん中にある台座に座る。

 両側にはたいまつがめらめらとちらついている。

 赤と黄色の熱気がこもった光は、そこら中にちらばって、部屋の中をやわらかに彩っている。

 えらい人が何かしゃべりはじめる。

 さいわいなことにわたしは何もしゃべらずに、ここに座っているだけで良いみたい。

 しゃべってといわれても何もしゃべられる気はしないのでほっとする。

 前の巫女さんみたいに上手くしゃべれるかな……。

 本殿での儀式が終わると地下に移動しはじめる。

 じめじめしていやなにおいのするあの部屋に行くのかと思ったけど、階段の途中で横道にそれて別の部屋に入る。

 ついてきた神官たちは、中に入らずに、部屋にいるのはわたしと侍女さんだけになる。

 口元を布で覆っていてわかりづらいけど、昨日見た侍女さんだと思う。

 部屋の中は明かりが十分にあって、壁の四方がよく見える。

 何だか奇妙なにおいがする……。

 そう思っていると、侍女さんがぼんやりと火のついた草切れの入ったお皿をわたしの鼻元に近づけてする。

 これは……?

 前の巫女さんが壇上に居た時にいつも感じられた臭い?

 あの時感じられたような、うっすらとしたにおいじゃなくて、鼻の奥まで一瞬に広がっていく強いにおい。

 なんだか頭がくらくらする。

 意識が頭から染み出していく。

 …………。


 ぼんやりと周りの景色が見える。

 侍女さんがわたしの体を触っているのが何となく見える。

 気が付くと、さっきの部屋の台の上に横たわっている。

 あれ……たしか……。

 さっきと着ている服が違う。色合いは似ているけど、花嫁衣裳に比べたらもっと簡素なもの。

 いったいさっきは何をされていたんだろう。

 体のどこも、いたくはないから乱暴はされていないと思うけど……。

 あれこれと考えている間に、外に連れて行かれて御車に乗った。

 「どこに行くの?」

 「これから巫女様にはパルナッソスの泉で清めの儀式を行っていただきます」

 忙しい。山の裏にあるカスタリアの霊泉に向かっている。

 あそこは時々行くからなじみが深い。

 清めってなんだろうと思いながら、窓から見える景色をこっそりとのぞく。

 (……!!)

 集落の人々が大勢こちらを見ていたのにびっくりしてあわてて顔を引っ込める。

 みんなこっちを見ていた……。あんなにたくさん……。

 そういえば前の巫女さんの御車がこの辺を通った時も大勢の人々が見守っていた気がする。

 今度はわたしが見られる側になってしまうのね。

 なんだか変な気持ち。

 カスタリアでは服を着たまま水浴びをした。

 春先でも水はとても冷たい。

 でも不思議といやな気持ちはしない。

 ずっとこのまま水に浸っていても良い気さえしてくる。

 ふと、泉の中を歩いてみたくなる。

 でも体が水分を吸って思ったように動かない。

 水はひざあたりまで浸かっていて足取りが重い。

 のろのろとした動きがもどかしくて、ちょっと急いで見る。

 あっ……。

 転んでしまった。うぅ……。

 笑われるかな……。

 辺りを見回すと、岸にいる神官の顔はぴくりとも動いていない。

 なんだか怖い。

 さっさと上がってしまおう。

 岸辺に上がると侍女が服を脱がせて体を拭いてくる。

 侍女さんはわたしと目を合わせようともしない。

 顔を傾げて視線を合わせようとしてもうまくかわされてしまう。

 そうこうしてる内に服を着終えちゃう。

 「御車にお戻りください」

 と侍女さんはいいながらも、視線はわたしの目線より下の中空にある。

 「どうして目を合わせてくれないの?」

 というと、侍女さんはハッとしたようにこちらを見ると、気まずそうに顔を赤らめて、下を向く。

 「巫女さまと目を合わせるなんて……畏れ多いです」

 とつぶやく。

 「おそれおおい?」

 どういう事だろう。

 侍女さんはそれ以上なにも答えてくれない。

 御車に乗って、神殿に戻る。

 長い廊下を渡った先の扉に着く。

 地下に行くんだ……。

 あのじめじめして暗い、いやなにおいのする場所。

 暗くてほとんど何も見えない……。

 前来た時と一緒……。

 生命があふれていた泉とは違って、ここには生き物の感じがしない。

 神さまはこんなところにいるんだろうか……?

 ここには生のみずみずしさは無くて、あるのは……生き物の無い……死の感覚。

 このにおい……。

 息が詰まりそう。

 頭がくらくらする。

 そう……、これは……、前の巫女さんが登壇した時に感じられたにおい。

 でも、前とは少し違うにおいも混じってる。

 焦げた臭いにおいもする。なにかを焼いているの……?

 薄暗がりの中でかすかに白く、丸い形に燃えている。

 あれは……、月桂樹?

 誰かが何か羽のようなもので光をあおいでいるのも見える。

 影が動いてこちらを向く。

 こわばった意識が幾分かやわらいだかと思うと、煙を多く嗅ぎすぎて意識が朦朧と……。

 すっと目の前に何か……、お椀のように見えるものが差し出される。

 これを……飲んで欲しいってことかな……。

 儀式の前に神官の人がそういった感じのことを言っていた気がする。

 ごく……。

 「けほっ……、こほっ……」

 杯のかたむけ具合がよくわからなくて、一気に口の中へ流し込んでしまう。

 ひどい味……。気持ちが悪い。

 こんなところに神さまはいるの……?

 約束が違うよ……。

 神さまはわたしを満たしてくれない。

 わたしはどんどんしずんでいくだけ。

 半ば無意識の中で、神官さんの一人がヤギを……とっても大きい角をしたヤギさんを薄暗がりの中から連れてくるのが見える。

 頭に水が振りかけられると、ヤギさんはぶるぶると震えた。

 意識が頭から染み出していく……。



 突然気が楽になる。

 暗闇じゃない。

 生の光、生きているみずみずしさ。

 光の無い暗闇に沈んでいたはずなのに、明かりが見える。

 空っぽだった体が中から膨れ上がりそうな感覚。

 これは……神さま……?

 神さまがわたしを満たしてくれているの?

 わたしの境界は壊れてしまいそうで、形を保っていられない。

 これが神さまなの……?

 この感じはあまりにも激しくって強烈。

 わたしの中から何かがあふれて飛び出しそうになる。

 体がそれに耐えられずに、壊れてしまいそう。

 ねじれて、後ろに倒れてもだえる。

 光は見えても、あたりの様子は何も見えない、わたしの体がどうなっているのかもわからない。

 まぶしくて、強烈に白い光がわたしのまぶたを覆っている。

 聞き覚えの無い、甲高くて人間離れした音が聞こえる。

 …………?

 これは……人の声……?

 どこから聞こえるの…………?

 言葉のようでもあるけれど、意味を持たない、叫び声のようにも聞こえる。

 のどが……きりきりと締め付けられる感じがする。

 ふと、わたしの唇、口元がぱくぱくと動いていることに気付く……。

 これは……わたしが叫んでいるの?

 でも、何を叫んでいるのかはわからない。

 どうして自分がこんなことをしゃべれるのかもわからない。

 これはわたしじゃない。

 これは神さま…………?

 神さまがわたしの口、体を借りて……しゃべっているの……?

 …………。



 ふと目を覚ます。

 見上げる天井に見覚えがある。

 そう、神殿の中庭にある小屋の一室。

 わたしはそこで寝ている。

 どれくらい時間がたったのかわからない。

 もう時間の感覚なんて無かった。

 どうやってあの地下の聖所から出てきたのか、面倒を見てくれたのかもわからない。

 あたりを見回すと、おばあさんがにんまりとしながらこっちを見ている。

 「わたしはいままでなにを……?」

 「お前さんは神憑きの後でぐったり疲れきって眠ってしまってのう。侍女がここまでおぶってきたというわけじゃ。二人で運ぼうかと思ったけれども、お前さんずいぶん軽いのう。一人でも十分だと言われたわい」

 ……なんだか申し訳ない気持ちになる。

 それに結局、わたしはあの儀式場で何も出来なかった。

 すぐに意識がうすくなっちゃって、何が起こっていたのか全然わからない。

 うっすらと、わたしが何か言葉を発していた気もするけど、あれが夢じゃなくてほんとなのか……それもわからない。

 やっぱりわたしには巫女なんて無理だったのかな……。

 ごめんなさい。と言おうとする前におばあさんは言葉を告げる。

 「しかし、お前さんの神憑きはたまげたわい」

 うぅ……。やっぱり怒られるんだ。

 「わしは、長いことここで巫女の世話をしておるけれども、お前さんのような巫女を目にしたのは初めてだよ」

 ごめんなさい……。

 「神殿の神官たちも喜んでおったよ」

 …………? 喜んでいた……?

 どういう意味だろう?

 「喜んでいたって……どういうこと?」

 「……? そりゃあお前さんが預言者として立派に勤めを果たしたということじゃよ」

 (……?)

 そんな……出来たかどうかも不安だったのに。

 あの神憑きの儀は上手くいっていたの?

 何が起こっていたのかもわからないのに……。

 でも、上手く出来たっていってくれている。

 すんなりと受け入れられないのはどうしてだろう。

 それは……、あの時わたしがどうしていたかわからないから。

 わたしがあの時、神さまに乗り移られて、何をしゃべっていたのかわからないから。

 あれは、本当にわたしだったの?

 ううん、わたしじゃない。

 あれは神さま。

 じゃあその間、わたしは? わたしはどこにいたの?

 わからない……。

 巫女として成功したことはとてもうれしい。

 今まで何かをして人に褒められたことなんてほとんど無かったから……。

 けど……、その喜びは、驚きのずっと後にやってきた。

 「あの……。わたしは、わたしは何を預言したの? 薄暗いあの部屋で……、何をしゃべっていたの?」

 おばあさんは口元をちょっとゆるめて、何秒か経った後に話し始める。

 「それは」

 いつもこういう話し方をする。そんな気がする。

 「それは、わしにも分からんのじゃ。それは神殿にお偉い神官たちが解釈してようやく分かることなんじゃ」

 …………。

 それを聞いてなんだかさびしい思いになる。

 神さまは確かにわたしの体を満たしてくれた。

 わたしは神さまとつながっていた。

 でもわたしには、神さまの言うことはわからない。

 体を借りて、どんなことを預言していたのか、それを知ることが出来ない。

 近くにいるのに、言葉を交わすことが出来ない。

 そんなもどかしさ。ものさびしさ。

 「お前さんは一日でいろんなことをして疲れただろう。もう少しお休み」

 といって、おばあさんは部屋を出て行く。

 その後で、再び扉を開ける音が聞こえる。

 外に出て行くのかな……?

 どこに行くんだろ……。

 ねむたい……。

 そういえばわたし、花嫁衣装を着たまま寝てる……。

 そう。地下の、あのじめじめとした聖なる場所でわたしは神さまの拠り代となったの。

 神さま……?

 神さまってなんだろう……?

 どこにいるの?

 どうしてここにはいないの?

 わたしは神さまがわからない。

 神さまの正体が、何かわからない。

 あのひとに乗り移られると、体の中から何かがとびだしていくみたいになって、どこからどこまでが自分の体なのかわからなくなる。

 わたしの心が「外」とつながって、体中が痛くなる。

 でも、いやな痛みじゃない。

 春先の泉に浸かるみたいに、刺激が体中に張り付くけれど、どこか心地よい。

 きっとこれは……わたしがあのひととつながってるということなの。

 ひと……?

 ひとなのかな……?

 わからない……。

 でも……そう、確かにあのひと……神さまはわたしを痛みで満たした。

 それでもどうしてか、恋しい。ただ神さまだけが。

 わたしを必要としてくれている神さまを知りたかった。

 神さまに会って、どうしてわたしが選ばれたのか、わたしには何ができるのか、教えてほしかった。

 そして、わたしは、あのじめじめした暗い場所で神さまに出会った。

 おばあさんは、わたしが神さまに気に入られていると言っている。

 それはとってもうれしい……はずのこと。

 ……でもわたしはわたしのままで神さまに会いたかった。

 神さまが、わたしの中に入ってくると、わたしはわたしじゃなくなる。

 わたしが神さまを知る前に、どこかへ去ってしまう。

 ただ、安らぎをもたらしてくれる神さまに、会いたかっただけなのに。

 なのに…………。

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