第11話

 なんだか真直ぐ行きたくなくて、カフェに寄り道をした。

 酒ではなく、美味い珈琲と煙草が欲しかった。

 今日はずっと誰かと一緒だった気がする。

 普段なら独りの時間がある。

 それがないと、俺が俺でいられない気がして。

 この店のオリジナルブレンドは煙草によくあう。

 コロンビアの深煎りを軸に、酸味より苦みと香りでバランスを取っている。

 ここの親父がパイプ吸いだからだろうな。

「目黒君が一人とは珍しいねえ」

 テーブルに座る俺に、カウンターの向こうから親父が声を掛けて来た。

 手にはお気に入りのパイプ。自分でブレンドするという葉を詰めている。

 俺が最後の客なのだろう。親父は営業中にパイプを吹かすことはない。

「なんか一人になりたくて」

「おやおや、邪魔したかな?」

「いえ」

「これから大岡君のところかい?」

「はい」

 親父がパイプ用の長いマッチで火を着けると、すぐに独特の香りが立ち上る。

 パイプは吸うものではなく、吹かして香りを楽しむ。

 上級者にもなれば、三十分以上吹かし続ける。

 時に空気を送り、時に吹かし、その香りを纏う。

 その火種が消えぬよう、ずっとパイプを咥えているというわけだ。

 それきり、親父との会話はない。

 俺は三本煙草を吸い、親父はパイプを吹かしていた。

「遅くまですいません。そろそろ行きます」

「ああ、気にすることはないよ。最近になって女房のやつが臭いって言い出してね。何十年も一緒にいるっていうのに、今更だよ。誰かがいる空間でパイプをやるのも久しぶりだ。どことは言えないけど、一人でやるのとは別物だね」

「そんなものですか?」

「酒が苦かったり、甘かったりするだろう? あれと似た感覚だよ」

「なるほど」

 俺は話が長くなる前にと、簡単に礼を言ってカフェを出た。

 今日は独りにはなれないのかも知れない。

 それはそれでいい。

 きっと、それも俺なんだ。

 あの家で暮らすようになってから、自分らしくないと思うことが増えた。

 チカのことを思い、何よりユカのことを考えながら生活している。

 俺らしくない、か。

 ティーシャツに穴開きの501。足元はリングブーツ。Schottのライダースを引っ掛けて、火の着いていない煙草を咥えたオッサン。

 少なくとも今時じゃねえな。

 そんなことを考えながら、店のドアを開けた。

「ヒロ? なんか良いことあった?」

 いらっしゃませ、くらい言ってもいいんじゃねえか?

「腰が痛えってだけで、良いことなんて何もねえぞ」

「なんかニヤけていたよ」

 カウンターの端でメグルちゃんが真っ赤な顔をして固まっている。

 今日の今日で、よく来れたな。

 女ってやつぁ、よくわからん。

 他に客は二組三人。

 珍しいことに生ビールが売れている。


―― つまさきで恋をしてたの 二十歳はたちのあの人に


 イマージュのかげりじゃねえか。

 ってことは、ターンテーブルで回ってるのは、中森明菜のファーストか。

 どんな選曲だよ。

 煙草の臭いに混じって、甘い香りが漂っている。

 メグルちゃんの前にはカルバドスの瓶。

 ローリストン・ドンフロンテ1977。(※1)

 その傍らにブランデーグラスと、さっき見かけたばかりのパイプ用マッチ。

「アンタ、まさか……」

「うん」

「燃やしたのかよ……」

「香りを楽しむなら、これが一番だからね」

「否定はしねえ。しねえけど、よりによってローリストンかよ……」

 なんて危ねえ遊びを教えやがるんだよ。

 病みつきんなっても知らねえぞ。

「ヒロもやる?」

「落ち着いてからにしとくよ。モレッティ」

「ビールなら生が開い――」

「モレッティ」

 悪いけど、ハイネケンな気分じゃないんでね。

 俺はモレッティおじさんに会いたいの。

 チカは、渋々感丸出しで、冷蔵庫からモレッティの瓶を取り出す。

「ビールなら生が開いてるんじゃねえのか?」

「偶にはおじさんを愛でないとね。カルバドスの香りには、モレッティのフルーティさが合うよね。流石ヒロ」

 ボトルネックを交差させるように打ち合わせて、ラッパ飲み。

 フルーティなおじさんを味わい、早速、缶ピーに火を着ける。

「で、お嬢ちゃんは何飲んでんだよ」

「水です……。香りで酔ってます」

「また大人の階段上っちまったな」

 メグルちゃんは急に酔いが回ったのか、涙目で真っ赤に茹で上がる。

「や、やめてくださいよ……。あ、あの、今日はも、もう帰ります!」

「うん、気を付けて帰るんだよ」

「おう、タクシー呼んだほうが良いんじゃねえか?」

 止める間もなく、メグルちゃんは帰っていった。

「あの子、金払ってった?」

「カルバドス燃やして、水飲んだだけだから」

 何に酔ったんだか。


―― 追いかけるほど好きじゃないわ 一晩眠って忘れる


 「イマージュの翳り」の次は「条件反射」。

 曲は格好いいんだよな。

 こればっかりは、このアルバムの時点じゃ明菜ちゃんの歳が足りてねえ。

 メロディも難しいから仕方ねえんだけど、背伸びにもほどがあるってな。

 そう思ってたら、チカがカウンターから出て、営業中には珍しくギターを鳴らし始めた。

「おいおい」

「この曲だけ。ねえ、ヒロ歌ってよ」

「歌ってよって、アンタなあ。他にもお客さんいるじゃねえかよ」

「あ、気にしないでください。マスターのギターが聴けるんですから、大歓迎です!」

「ほらほら」

 エレキ相手にマイクも無しで歌うのはキツイんだぜ。

 狭い店だから、何とかなるけどさ。

 仕方なく立ち上がって、モレッティ片手に、チカの肩に肘をのせる。


―― どこか淋しそうと感じてたから それを優しそうと感じてたから


 これじゃ若い子の背伸びじゃなくて、どっかの阿婆擦れだな。


―― 夢ではとっくに抱かれてるのに あなたの強さに怯えた


 昔のアイドルはトンでもねえ歌を歌いやがる。


―― 瞬間 条件反射 追いかけるわ 後悔の嵐は今 エイトビート


 チカに触れていながら、思い浮かんだのは「Nite nite」と微笑むユカの顔。

 なんだこの罪悪感は。

 何も悪いことした覚えはねえぞ。

 歌詞からユカを連想しただけのことだ。

 ガキ相手に何を言い訳してるんだか。

 中森明菜が「ダウンタウンすと~り~」を歌い終わると、他の客たちは帰っていった。

 カウンターに一人、残される。

「そろそろ燃やすかな」

「そうだね」

 ローリストンとブランデーグラスを俺の前に置いたチカは、レコードを変える。

 俺はグラスにローリストンを数滴垂らし、内側を満遍なく濡らしていく。

 チカが針を落としたのはGuns N' Rosesの「Use your Illusion Ⅰ」のSideC。(※2)

 その一曲目は「November Rain」。

 チカが無言でマッチを差し出す。

 俺はグラスをもう一振りしてから、マッチを擦った。

 硫黄が燃えるのを待つ。

 そう、余計な香りは要らない。

 そっとグラスの中に炎を差し入れれば、一瞬、ふわりと青い炎が立つ。

 グラスを置いて、ポンっとコースターを乗せて蓋をする。

 俺はチカの瞳を覗き込んだ。

 アクセルが歌う通りに。

 アンタは俺を抱いた時と同じように、愛ってやつを感じるのか?

 そもそも、抱き合いながら愛なんてもんを感じてたっけか?

「僕はさっきもやったから、お先にどうぞ」

「じゃあ遠慮なく」

 コースターを退けて、ブランデーグラスを煽るように、鼻を突っ込み、思い切り吸い込む。

 素早く蓋をしてチカにまわす。

「ああ……」

 目を瞑って香りを飲み込むと、鼻孔からそのまま脳みそに染み渡るように、全ての感覚が芳醇な香りに満たされる。

 トリュフとリンゴが複雑に絡み合い、熟成された酒特有のランシオ香とナッツが追いかけて来る。

 目を開けると、チカもうっとりとしている。

 スラッシュのギターを聴きながら、余韻に浸る。

 なあ、アンタは俺がアンタのものだって確かめたいか?

 俺達は知ってる。

 わざわざ確かめ合わなくたって。

 でもさ、そんな顔されたら、俺は確かめたくなっちまうよ。

 カウンター越しに引き寄せたチカの唇は、ローリストンの甘い香りがした。



※1……ローリストン ドンフランデ1977 美味しいけどお高い林檎のブランデー。市場価格で三万円以上。お店で飲んだら恐ろしい料金を獲られる(誤字ではない)に違いない。

※2……Use your Illusion Ⅰ アナログ盤は12インチの二枚組なので、A面~D面の表記。CDでは十曲目のNovember RainはC面の一曲目。

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