ヒロ・チカ
謡義太郎
第1話
聴き覚えのある曲が流れている。
なんだったっけ?
ああ、カイ・ハンセンの歌声だ。HelloweenのKeeper of the Seven Keys。
懐かしいなあ。
あれ?
ああ、寝てたのか。
寝てた?
「うおっ」
目を開けるだけの作業に、妙な声が出た。
見上げる先には見知らぬ……いや、見たことのある天井。
後頭部に感じる硬い感触。
間違いなく腕枕だな、こりゃ。またやっちまった。
高らかに鳴り響くメタルなツインギター。
そんな中でも、顔のすぐ横で気持ちよさそうに上下する胸。
「おい、アンタ。おいってば!」
上半身を起こし、隣で寝ている男の胸をを揺さぶると、下に敷いていた左腕で巻き取られる。
「ぬおっ」
完全に寝てる。絶対寝てる。起きてたら、こんなこと出来るはずがない。
「おいっ! いい……か、げ、ん、にっ!」
腕の中でもがいてみれば、右腕もやってきて、抱きすくめられる。
いや、勘弁してくれ。
嫌じゃないから、困るんだよ。
何とか絡みつく腕から抜け出して、勝手知ったる他人の家でシャワーを浴びる。
まだ足元が揺れている。危うく階段から落ちるところだった。
何だってテラスハウスなんかに住んでんだよ。酔っぱらって階段はキツイんだよ。まったく。
歳を喰って、酒の抜けが悪くなった。
三十代の前半までは良かったんだ。何とか。後半に突入した途端、色々と無理が利かなくなった。
髭は剃らなくて良いか。クライアントに会う約束はない。まあ、さっきまで隣に寝ていた男もクライアントではあるのだけれど。
三十でフリーランスになって七年。なんとか食い繋いでいる。
フリーランスってやつは因果な商売で、どこからどこまでか仕事なのか、境目というやつがない。
Macに向かって作業している時が仕事かといえば、そうでもないし。
昨日だって納品だけのつもりだったんだ。
午前中にデータでの入稿を終え、煩いクライアント様の名刺を印刷してもらう為に、友人の会社へ向かった。
兎に角、ここまでが大変だった。
まずローマ字表記で揉めた。今までどうしていたんだって話なんだけど。
「Oooka Chikaじゃ外国人の方は読めないんだよ」
「じゃあヘボン式にする? Ôokaならどう?」
「なんかカッコ悪くないかな?」
「Ohokaは嫌なんでしょ?」
「嫌だね。オウじゃなくてオオなんだから」
聞けば、ホスト時代の名刺は下の名前だけ。飲食店を経営する社長になってからは、ローマ字表記なんてしたことなかったそうだ。
「下の名前読めないでしょ、普通」
「千束」と書いて「チカ」と読む。
「読む必要がないからね。大岡さん、大岡様、大岡社長。ほらね?」
結局ヘボン式表記に落ち着いた。
次はフォントだ。
やれ、このハライが気に入らないとか、スマートじゃないとか、どれも一長一短。
結局、ロゴから名前、アルファベット、住所、電話番号に至る、全てのフォントを手書きした。
そして色。
俺の鞄にはその色見本たる物が入っている。
MAKER'S MARK "ROCK THE VOTE" (Blue White Red Wax)。
言わずと知れたバーボンの大御所、メーカーズマークのリミテッドエディション。青、赤、白と三色の蝋で封をされた、コレクターボトル。
ロゴの下地の色はこの青。ロゴは赤で、という指定。
「文字色の黒はヒロに任せるよ。黒過ぎず、紙に馴染むような、極僅かな滲み」
微妙な色の加減は難しい。
モニターの色をそのまま紙に再現できるわけじゃない。
うちにあるプリンターもそこそこの性能なんだけど、今回使う紙を考えると、ちょっと不安が残る。
そこで友人の会社、古巣でもあるデザイン事務所の超高性能プリンターを拝借しようというわけだ。
最寄り駅の奥沢から東急線を乗り継いで蒲田に出る。すっかり綺麗になった繁華街を抜けて京急蒲田まで歩く。途中、カフェチェーンでレタスドッグを頬張り、当然のことながらニコチンも補充する。喫煙者には世知辛い世の中になったもんだ。京急空港線で
首都高沿いに少し歩けば、工場やら倉庫が立ち並んでいる。
デザイン事務所といえば、都会的でお洒落なイメージがあるかもしれないが、それはほんの表層に過ぎない。
画面の中で終わるならば兎も角、サンプルまで自前で制作しようとすれば、材料の搬入や広い作業場の確保などで、立地は絞られてくる。
よくもこんな場所に数年間通ったものだと思う。
今でもなんだかんだと、月に数回は顔を出してはいる。
受付のある細やかな吹き抜けホールには誰もいない。カウンターには内線電話が鎮座ましましているのみ。
本日も通常営業。
内線を取り上げ、いつもの番号を呼び出す。
『はい、羽田は席を外しております。どのようなご用件でしょうか?』
「目黒くんが中に入りたがっておりますので、どなたかお迎えに来て頂けないでしょうか?」
デザイン会社はセキュリティが厳しい。まあ、きちんとしたところはだけど。
社内に一歩足を踏み入れれば、マル秘案件の素材がそこかしこに転がっている。
元社員で、今も取引があるとはいえ、顔パスというわけにもいかない。機械は融通が利かないのだ。
『なんだ、ユーテンか。ちょうど煙草吸いたかったから、このあやめ様が直々にお迎えしてしんぜよう。して、手土産は何を持参致した?』
「ははー。本日は貴重なお酒など、ご用意いたしましてございます」
『えー、飲めないもの持ってくんなー』
ほどなく、階段の上にある事務所入り口から、黒髪を複雑に結い上げた、スタイル抜群の美人が颯爽と現れた。控えめな胸はまあ、意見の分かれるところではあるけど。
赤い縁のざーます眼鏡。左顎に黒子。一部の性癖の持ち主からは、絶大な支持を集めている。
ざっくりした生成りのサマーセーターに、ショッキングピンクのスキニーパンツ。足元は真白のエアジョーダン。斑に染まった元白衣を羽織っている。
わからん。こいつのセンスだけは理解できない。
階段を上り、事務所の中へ入る。
「ほい、お土産」
蒲田のカフェチェーンで買い占めたミルフィーユ。
「おお、流石ユーテン」
「あんまり数がないんだ。そっとな」
「あ、じゃあアタシの冷蔵庫に隠そう」
こいつのスペースには冷蔵庫がある。相変わらず自由な会社だ。
喫煙スペースで一服するあやめに付き合い、そのままプリンタールームへ向かう。
「社長はね、出掛けなきゃいけなくなって、ユーテンの面倒はアタシが仰せつかってんのよ。データはもうこっちに回ってるから、後は色調整ね」
「お、助かる。紙は?」
「昨日届いて、もうセットしてあるわよ。確実に余るけど、残りは保管しとけばいいのよね?」
チカが選んだ紙の最低ロットが、結構な量だったのだ。
早速刷り出しに取り掛かる。
色というのは不思議なもので、面積や質感、隣り合った色などで、受ける印象が大きく変わってしまう。
そのため、刷り出しただけではなく、実際に名刺を作らなければならない。
指定された色見本と並べて「同じ色ですよね?」というわけにもいかないのだ。
データも間隔を開けて、微妙に色の配合を変えた名刺が並んでいる。
刷り出した一枚目は廃棄。まだプリンタヘッドにインクが馴染んでいない。
二枚目。なんとなく色むらがあるような。廃棄。
三枚目。満足のいく刷り上がり。
裁断。
微妙な色違いの名刺が並ぶ。百通り。
そこで鞄から件のボトルを取り出す。
「あら、ホントにお酒持ってきたの?」
「色見本なものでね」
面倒だ。
蝋の色というのが厄介なのだ。
艶やかでありながら、マット。
それをこの高級感溢れる真白の紙に再現する。
どれだ。
同じ色域を見比べていると、段々わからなくなってくる。
休憩を挟みながら、納得のいくものが出来た頃には、すっかり日も落ちていた。
出来立てほやほやの名刺三百枚を抱えて、大井町にあるチカの店へ辿り着いたのは、夜も十時を回っていたと思う。
色見本のボトルを開け、ニヤニヤと名刺を眺めながら飲むチカは、終始ご機嫌だった。
いや、覚えている限り、というべきか。
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