紅茶か珈琲か
「真柴さん――偽名だとは思いますが、取り敢えずはそう呼ばせていただきますね。僕からのお願いを一つ、聞いていただけますか」
最初に会った時のような、舞台俳優じみた話し方ではない。私はまだ、ファミレスでの秀一がどこまで演技をしていたのか測り切れないでいた。
「内容によるな」
動揺を悟られてはいけない。努めて飄々と返す。
「父の部屋から、何か好きなものを一つ、持っていく事を許す――僕がそう言っても、ですか? 」
さらりととんでもないことを言う。一体この子供は、何を考えているのだ?
「鍵がかかっているんじゃなかったか」
「ああ、」
嘘です、と無邪気に笑う秀一。
「手帳は返してもらえるのかな」
一歩、秀一に近づいた。まだ手帳を奪いに飛び掛かるには遠い。
「今すぐに、とはいきませんが」
秀一が横に視線を投げた。録画機器はそっちか。しかし、そうか、と落胆する。私は秀一と立ち回りを演じるわけにはいかないらしい。真柴さん、傷害罪って知ってます? ……我ながら趣味の悪い空耳だ。
「それでいい」
どんな魂胆があって私に田辺博士の私物を与えようとするのかは分からない。だが、ここから上手く立ち回れば、あわよくば――依頼の達成と、手帳の奪還を同時に叶えることが出来る。覚悟を決めろ、と私は自分自身を鼓舞した。目の前でうっすらと笑う少年のいうことを聞いてやるのだ。今は。
「有難うございます。いや、そろそろなので助かります」
何が、とは聞いてやらない。これ以上謎を増やして楽しいことなど何もないから。
「さて、しかしですよ、真柴さん」
秀一が私に背を向ける。余裕だな、少年。口には出さない。
「僕のお願いを聞いてもらうためにはまず、僕が生んでしまった誤解を片付けなければなりませんね」
そう言うと、秀一は玄関のドアを開けて振り向いた。白い歯がのぞく。
「お茶でもいかがですか。――答えあわせ、しましょう」
***
「どうぞ」
出されたのは匂いからして紅茶だった。テーブルを挟んで私の向かいに座った秀一が淹れたものだ。強い視線を感じ、いたたまれない。
「……どうぞ」
もう一度言われた。飲めというのか……これを? どきついアップルティーの香りに包まれた黒い液体を睨む。
「紅茶で間違いないよね? 」
視覚か嗅覚か。信用に足るのはどちらだ。
「……失礼なことを聞いているとは思いませんか」
少し濃くなってしまっただけです、と言いながらも自分のカップはちゃっかり遠ざける秀一。私はといえば、紅茶から珈琲を錬成する儀式に立ち会えなかったことを心から残念に思っていた。
「魔法は存在しないものと思っていたよ、今この時まではね」
テーブルの真ん中辺りに追いやられた秀一のカップに、自分のカップを近づける。カチ、と固い音がした。
「本題に入らせてください」
こころなし小さな声で秀一が言う。耳が赤いのは寒さのせいだろう。なあ、少年。レストランで秀一が、『腕が足りないようで』と言っていたのを思い出す。これは本当の事だったのか――足りない、という次元ではないが。……では、他は?
「まずは妹を紹介しておきましょうか」
立ち直りがはやい。既に彼の頬は二つの笑窪をたたえていた。場違いにも微笑ましいなどと思った私だったが、しかし次の瞬間には一点を見つめて固まることしかできなくなった。なぜなら。
「さゆ、出てきていいよ」
という秀一の声に応じて、小さな女の子が一つの部屋からひょっこり姿を現したからである。驚くべきことに、さっきまで確かに閉まっていたドアを開けて。
「……」
唖然とする私を見て満足そうに頷いた秀一は席を立ち、少女の目の前に膝をついて、その頭をなでた。喜びが滲んだ声で私に語りかける。
「驚いてくださるんですね、真柴さん。曖昧な表現に留めていたので、ひょっとしたら気づいてくださらないんじゃないかと心配していたんですよ――もっとも、僕のわざとらしいアピールに引っかかってくれたからこそ、今日、泥棒さんはこの家に来ているんでしょうけれど」
少年は優雅な所作で立ち上がる。
「妹の小百合です。小学三年生。ほら、さゆ、おじさんに挨拶して」
手で指し示すされた私は、いつの間にか半分腰を浮かせていた。
「こんにちは、たなべ、さゆりです、よろしく」
少女――小百合は小さく頭を下げ、彼女の兄は「『よろしくお願いします』だろ」と彼女の言葉遣いをたしなめた。耐えきれず、声が漏れる。
「……聞こえる、のか……? 」
この時になってやっと、私は自分の盛大な勘違いに気が付いたのだった。
「それは驚くでしょうね、真柴さん」
つかつかと歩み寄って来た秀一が、私の顔を掬い上げるかのようにのぞき込んだ。私は何も言えず、秀一とまともに視線がぶつかる。
「この間抜けな少年の妹は耳が聞こえないんじゃないか――だとしたら。例えば地下室に彼女がいる時にガラスを破ったとして、自分はばれることなく家の中を物色できるんじゃないか? ――そう思ったからあなたは週末である今日、計画を実行に移したんだ」
……その通りだった。少年探偵はなおも、泥棒を追い詰める。
「どうしてそんな勘違いが起きたのか。答えは単純。僕が真柴さんと初めて会った時にとった行動から、真柴さんは僕の妹の耳は聞こえないのではないか、という疑惑を持ったんです」
疑惑で十分でした、と少年は言った。
「僕も本当に意外でした。遊び半分のつもりでやってみたら、ちゃんと気づいてくださったから。勘が鋭いんだな、と驚きましたよ」
秀一の身振りが大きくなる。
「……お褒めにあずかり、光栄だな。私はまんまと君に担がれたわけだ」
何とか台詞を絞り出した。
「答え合わせ、だったね。聞かせてもらえるかな、勘違いを狙った君は、なにをしたのか」
おそらく私は、面白いようにそれらに騙されていることだろう。泣きそうである。
「よろこんで。あ、その前に」
少年は小百合の方を向いて、
「ありがとう。また暫く、部屋で待っててくれるかな? お昼ごはんまでには、お話し終わらせるから」
小百合は不満げに兄を睨んだが、彼がごめんね、と手を合わせると、諦めたように部屋に戻っていった。
「……なんて、僕が大層なことをして、あなたを騙したみたいに言っちゃいましたけど、」
また耳が赤くなっている。大人びているとはいえ、まだ高校生だ。年相応のところもあるらしかった。
「実際そう大したことはしていないし、言っていないんですよ、僕は」
恥ずかしいなあ、と少年は頭を掻き、
「妹の前だったので、ちょっと恰好つけてしまったんですね」
と声をひそめた。――確かに、彼はそこまで大袈裟なことはしていない――だが、本心から私は言う。
「見事な演技だったよ、秀一君」
***
「分かるように説明してくれよ、もったいぶりやがって」
佐竹は本日三本目のたばこをふかしていた。
「お前はその坊主が何をしたから、そんな勘違いをしたのかっていうのが聞きたいんだ。俺は」
少し話が長くなりすぎたらしい。
「すまん。ちょっと巻きで話すよ」
ふん、と友人は鼻を鳴らした。いいから早く話せ、ということだろう。
「まず最初は彼の話し方。違和感を感じるくらい、ハキハキと、相手の目を見て話していた。さらに、表情の変化が必要以上に大きい」
「次に食事の話をしている時だ。秀一君は、『怒る』という言葉を使ったのと同時に、腹の前で手を上下に動かした、と言ったよな? 」
佐竹はここでピンときたようだ。
「お前、ちょっと疑り深すぎるんじゃないか? 」
とあきれている。店主は、まだぽかんと口を開けたままだった。
「まだ続きがあるんだよ、三つめ、『もうすぐ』と言った時の特徴的な手の動き」
「まあ、『ちょっと』って意味を伝えるだけなら、わざわざ親指と人差し指を一回合わせる、なんてことはしなくていいわな。普通は」
わかる?と佐竹は店主にちょっかいをかけるが、店長は首を振るばかりだ。
「四つ目、明らかに相手の視界に自分がいないと分かっていた時――私が店員を探して後ろを向いた時の事だよ――彼はわざわざテーブルに身を乗り出してまで、私の肩をたたいた。彼がした演技はこのくらいだね」
付け加えるとすれば、一部屋だけカーテンが閉まっていることと、週末は妹しか家にいないことをアピールしたこと、くらいだろう。カーテンの情報のおかげでまっすぐに田辺博士の部屋へ向かった私を撮影するのは固定カメラ一台で事足りるようになっただろうし――さすがにそこまで知っておいて部屋を間違える泥棒もいないだろう――、妹「は」いると分かっているのに盗みにはいる阿呆はいないと思ってくれるだろう、従って私は週末赴くことで容疑から外れるだろう……という期待を私に抱かせることにも成功している。
「うーん、まだ分からないわね。降参だわ」
店主はホールドアップした。すかさず、得意顔の佐竹が説明を始めたので、この隙に私は紅茶を一口飲んだ。長話の最中、店主が用意してくれたものだ。ちゃんと、うまい。
「なに、聞いてみれば簡単だよ。店長さんは、イヤホンで音楽聞きながらスマホ構ってるやつに話聞いてもらいたい時、どうする? 」
「そうね、まず肩を叩いて……あ、」
「四つ目の意味は分かっただろ? 勿論、秀一が肩を叩いたとき、コイツはイヤホンなんてしていなかった。さらに、だ。派手に転びそうになった後、こんな会話があったろう、『妹と話すときの癖が出てしまって』……みたいな」
コイツ、のところで佐竹は私を指差した。店主は嬉しそうに、胸の前で手を叩く。
「それで何でも屋さんは勘違いを深めたのね。じゃあ、最初の三つはなに? 」
「ハキハキ喋るってのはようするに、母音の違いが明確にわかるくらい口の動きが大きかったってことだろ。プラス、表情の変化。――こんな感じかな」
佐竹は実際に秀一の様子をまねて見せた。ころころと表情を変え、口をせわしなく動かす。ちょっとオーバーだ。
「なんか、どっかで見たことあるわね」
眉をひそめた店主に分かりやすいよう、
「こうするともっと似てるかな」
佐竹は両手のこうを見せて、腹のあたりで上下させると、眉根を寄せて口を真一文字に固く結んだ。佐竹なりの『怒り』の表情である。
「そうそう、そんな感じ。ニュース番組やら天気予報やらの左下でたまにやってるもの」
店主もどこか得意げになって言う
「――手話、ね」
「ビンゴです、店長さん」
私はやけくその拍手を送った。
「これでお前がとんでもない勘違いをしちまった理由もわかったわけだな。本当にその子供、あなどれないなあ、おい」
佐竹が自分の腹を撫ぜて軽くのけぞった。
「同意が得られてうれしいよ」と、本日何度か目の苦笑。
店主はまだ、得意げに笑っていた。
***
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