Save the day 君が夢見る毎に世界は変わる
立 青
第1話 そして、怪しい夏が始まった
人と夢とを合わせると「儚い」という字になる。いくら夢想していても、この世から取り残されるばかりだ。だが、この現実世界と同じ重みのある夢が実在する。そして、夢は力をふるい始める。
昼下がりのことだ。
真剣な表情で歩道を這いつくばるように、あるいは酔っぱらいのように右へ行ったり左へ行ったりする人を目にしたら、あなたはやはり気になるだろうか。
それが捜し物でもしているように見えたらどうだろう。
声を掛けるだろうか。
もし、その人が好みのタイプの異性だったら、僕でも勇気と本能で声をかけるかもしれない。だが、その人は好みのタイプではない。いやいや、そもそもが女性ではなく、男性、初老、それも眼鏡をかけたさえない男。おまけに、七月の歩道を、薬剤師のような白衣を着てウロウロしているのだ。
「あの、どうしました。何か捜し物ですか。お手伝いしましょうか」
だから、その日、僕が声をかけたのは、たまたま自分の親切心が最高の日だったからだ。あるいは、運命というやつかもしれない。
ちょうど、男は道ばたに植わっている紫陽花の下を覗こうと、ゆっくりと這いつくばったところだった。痩せた体がクモのように見えた。
夢中になって怪しい動きをしていたはずなのに、彼は僕の声に即座に反応した。
「そうか、君だったのか!」
顔を上げると、彼は、捜し物が捜し人に変わったかのように、しっかりと目を開き、僕を見た。厚めの唇が横に広がり、笑顔になった。
恐ろしく古そうなプラスチックの眼鏡に長い顔、三日は剃っていそうにない白髪交じりの無精ひげとぼさぼさの髪の毛、細身の体、緑のTシャツに黄色いハーフパンツが白衣の間からのぞいている。
明らかな違和感を感じさせた。
いやいや、それどころか『君だったのか』という言葉に、危険を感じた。まるで僕と会うことが予定されていたようじゃないか。
「ごめんなさい。急ぐんで」
逃げようと叫んだ時には、もう遅かった。彼は満面の笑みと共に、ギュッと僕の腕を握っていた。
「やあ、よろしく。私は種野吉芳。君と会うのを楽しみにしていた」
僕を捕まえていた左手はそのまま、右手を差し出してきた。
その握手を求める手に応じてしまったのは、もちろん僕の意思からではなく、状況に無意識に対応してしまう自分の調子良さからだった。
「で、君の名前は」
「あっと、紗原です、
いけない、おまけに本名まで教えてしまった。会うのを楽しみにしていたよといながら、僕の名前も知らない奴だというのに。
「なんだか困ったような顔をしているね。ふうむ。
だが、それも無理はない。初めて会った人に『そうか、君だったのか』と言われれば面食らうのは当然だ」
僕は、こわばった笑顔で大きく頷きながら、どうにか握手していた右手を離すことに成功した。次は、この場から逃げ出すきっかけをつくることだ。
明らかな敵意を持っている奴とのトラブルというのは、意外と少ないものだ。なぜならば、危険は予想できるし、よっぽどのことがなければ、わざわざ近づきもしない。
だから、気をつけなければならないのは、笑顔で接してくる人物だ。おまけにどこか違和感を漂わせていたら、本当に気をつけなければならない。その状況に自分ははまっていた。
おまけに、種野というおじさんは、僕の警戒心を全く感じていないようだった。
「君は、夏休みに入ったばかりなのに、何もすることがない。そうだろう」
こちらの状況を知っているかのように言ってきた。先月、部活を退部した僕には、この夏休み、宿題以外にやることはなかった。おまけに宿題をせかす家族もいない。
「はあ、確かに忙しくはないですが」
なぜ、嘘でも忙しいと言えないのだろう。
「そんな君にぴったりのことがある。私の研究所に来たまえ」
「研究所って、なんですかそれ。夏休み、子ども理科実験室ですか」
「うむ、そういうのとは違う。いろんなことを研究しておるのじゃ」
「研究って、あなたは何かの学者さんですか。博士ってやつですか。その白衣も、だからですか」
彼は、当然のことだとばかりに鷹揚に頷いた。おまけに僕の驚いた声が嬉しかったのか、種野博士?の目は、眼鏡の奥でにんまりと線のように細くなった。
「確かに、博士の学位はもっているので、種野博士と呼んでくれてかまわん。実は、私の知人たちも種野博士と呼んでくれておる。
そして、研究というのはこれじゃよ」
彼は、両手で白衣を広げ、緑のTシャツを見せた。そこには「save the day」という文字が黒々とプリントされていた。
「なんですか、セーブ ザ デイって」
セーブはたしか「救う」って意味だった。
でも『日を救う』ってなんだろう。意味が分からない。
「ふむ、君は英語が苦手かね」
彼は試すように僕を見た。
「いえ、まだ中2なので。
でも、直訳すると『日を救う』ってなるんで、意味がとれなくて」
「なるほど、『日を救う』という訳も悪くはない。
『今という日を救う』ために研究をしておるということになる」
『今という日を救う』だって。今、救われたいのは、この僕だ。そう、あなたから逃げたいんだ。
このままじゃ、明日には僕は地上にいないかもしれない。マッドサイエンティストの怪しい実験の犠牲者として闇に葬りさられる自分の姿が浮かんできた。もちろん、背景は湿った地下室だ。昔、何かで見た中世の拷問道具まで、置かれている。床には、誰のか分からない血糊がついている。
「じゃあ、私の研究所で、続きの話をしよう。なに、ここから歩いて行ける近さじゃ」
わあ、彼の手が僕の背を押してきた。
よ、よし、逃げるぞ!走るのはたいして速くないが、五十歳ぐらいのおじさんに負けるはずはない。
「研究所に、美人の助手がおってな、その娘にお茶とうまい菓子でも用意させよう。
紗原君、もし腹が減っておるのなら、料理だって用意できるぞ」
僕の弱みを知っているかのように、このタイミングで種野さんは言った。
「助手がいるんですか」
「ああ、おるよ。きれいな助手じゃ。それに様々なことをしているので、研究所にはいろいろな人が出入りしておるよ」
二人きりというのでなければ、それほど、危険じゃないかもしれない。
「あの、『今という日を救うため』というのは分かりやすくいうと」
「うむ、人の役に立つことをいろいろとなやっておる。うまくいくこともあれば、進まないこともあるし、後退を余儀なくされることもある。先がどうなるか分からないから面白いぞ。
例えば、さっき、なぜ私はあのような行動をとっていたのか、不思議じゃったろ。その理由も聞きたくないかね」
「ええ、そりゃあ聞きたいですよ」
つい聞きたいと答えてしまった。いけない、いけない。一人ぼっちの家で過ごし、おそろしいほどに何事もなく終わるはずだった夏休みは、急に怪しい夏休みへと変貌し始めたらしい。
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