factor.2 - 2

「うーん、いないなぁ……」


 頬が地面に付いてしまいそうな体勢で、自動販売機の下を覗いてみる。

 子猫ぐらいなら潜り込めるかも、と思ったが、あいにく十円玉すら見当たらない。世知辛い世の中である。


「『とりあえず犬猫探せ』って言われても……遼じゃないんだから……」


 先程別れてきた同僚のように、「地下からネズミの鳴き声がする!」などと躊躇なくマンホールの穴に飛び込めるわけもなく。

 西新宿の路地でひたすらに、野良動物を探しさまようこと一時間。次の自販機を見つけ、キャップ帽のつばをくるりと後ろに回して気合いを入れ直した。


 お金のこともあるけれど、やっぱり一番は、獅子彦の期待に応えたいからだ。



 医者である彼は、おそらく周囲の誰よりも、純也の体のを察している。風を操り、致命傷すら自然治癒する――ヒトの形をしているだけの化け物だという事実を、把握している。

 にもかかわらず、二年ちょっとの付き合いしかない純也のことも、彼は遼平と同じように「息子」と呼んでくれるから。


 もちろん、本気にしているわけではない。

 身寄りのない純也を慰めるための、不器用な冗談であることを、聡明な少年は初めから理解している。


 そういうぎこちない優しさも遼平とそっくりで、だからこそ、あの温かな手に報いたいのだ。



「だっ、ダメだってば! 痛っ、蹴らないでごめんなさいでもこれだけはぁ!」


 六つ目の自販機から体を起こしたところで、不意に聞き覚えのある悲鳴がした。


 路地の角からひょこっと顔を覗かせると、そこにいたのは何かに憤っているお下げ髪の女児。と、その子の脚にしがみつき、踏ん張っている赤毛の成人男性。

 被害者と加害者の区別がつかず固まっていた純也だったが、女の子が手に持ったアルミ缶で男の頭を連打し始めたので、急いで二人の間に割って入る。


 拾い物と思われる大きなTシャツとサンダルしか身につけていない少女を保護し、同時に、背後にいる顔見知りにも気遣いの声をかけた。


「リンリン大丈夫? 何してるの……って言うか、何されちゃったの?」


 少年を救世主のように見上げ、潤んだ朱色の瞳から滝の涙を流す貧相な男の名は、リン李淵リエンという。警備員である純也と愛称で呼び合う仲の、自称泥棒だ。ちなみに前科はまだ無い。


「純ちゃあぁん! あぁ良かった、俺もうどうしたらいいか……っ。大変なんだ、泥棒だよ捕まえて!」


「リンリンついに自首するの……?」


「俺じゃないよ!? いや俺も泥棒だけど今はそっち! その子が、商品を勝手に持って行こうとするんだよぉっ」


 状況を把握するため、少年は改めて周囲を見回す。

 すぐそこには、パネルが開いたままの自動販売機と、これから補充されるのであろう缶の詰まった段ボール。加えて、飲料メーカーの作業着をまとっている窃盗犯(仮)。


 純也が保護した少女は、依然『離して!』と頬を怒りで膨らませている。段ボールから直接取ったのであろう、冷えていない飲料缶を握り締めて。

 これらの情報をまとめた上で、少年はうーん、と短く思考してから。


『ね、君、このお兄さんに飲み物のお金は払った?』


『お金? ない! 喉かわいた、だから飲む!』


『お母さんやお父さんと一緒? この近くにいるかな?』


『ない! アイーシャのママ、いなくなった!』


 やや舌足らずな言葉だが、『いなくなった』という表現から察するに、何らかの理由ではぐれてしまったのだろう。つまりは迷子だ。


 肌の色からアフリカ系と思われる少女――アイーシャは、悪びれた様子もなく純也に『これ開けて!』とアルミ缶を掲げてくる。

 李淵はその様子に目を見張り、落ちた帽子を拾うのも忘れていた。


「すごいね純ちゃんっ、この子と喋れちゃうんだ! えらいなーそんな歳でもうバイリンガル?」


「え……アイーシャちゃんの言葉、わからなかったの? あれ、僕、いま……?」


「へー、その子アイーシャって名前なんだー。ビックリしたよ、純ちゃんいきなり聞いたこともない言葉話し出すんだもん。それどこら辺の国の言語なの?」


 尊敬の瞳を輝かせ尋ねてくる李淵に、純也の方が戸惑ってしまう。

 今、純也はアイーシャの言葉を理解し、会話を成立させることができた。ごくごく自然に、耳から入ってきた彼女の言葉を聞き取り、無自覚にいた。



 習得した記憶のない言語を、体が覚えている。


 これまでも英語や、医学書にあるドイツ語を苦も無く読めることから「欧州圏ヨーロッパの出身なんじゃないのか」と獅子彦に言われたことがある。確かに皮膚は白人のそれに近いが、しかし日本語に困ったこともない。

 どんな言語にも対応できてしまうことが、純也の出自をより絞りにくくさせる一因でもあった。


 そしてまた一つ明らかになった、《自身がいとも容易く操れる、どこの国のものともわからない言葉》に背筋が冷えていく。この震えをごまかすため、得体の知れない己を突き止めるために、僅かに声をかすらせながらも少年は少女に尋ねた。


 『君はどこから来たの?』――内側の動揺とは裏腹に、難なく紡がれた異国語の問いは、誰よりも純也の耳朶じだに反響し続けた。



『暗くて、狭くて、でも人いっぱいいるところ! ママとそこに住んでる!』


『そこが、アイーシャちゃんの生まれた場所?』


『アイーシャ生まれたの、ここちがう。ママ言ってた、ラナニィエから来た!』


 現地の発音であろう『ラナニィエ』という言葉を数度繰り返し、純也は脳内からそれに該当する日本語を探す。

 もはや崇拝の視線を向けてくる李淵への返答をやっと手に入れ、彼に向き直った。


「アイーシャちゃん、南部アフリカの方から来たみたい。確かこの言葉、ラナニア共和国周辺のものだよ」


「ラナニアって、あの!? そっか……こんな小さいのに苦労したんだね……っ」


 突然涙ぐみ、地面に膝を折って少女の手を握ろうとした李淵に驚き、アイーシャはまたも飲料缶を振り上げ男の脳天を強打し始めた。


 350㎖の鈍器から男をかばいつつ、純也はラベルに書かれた『炭酸飲料』の文字に気付き、どんなに頼まれてもこれだけは開けてはいけないと悟る。


「リンリン、いきなりどうしたの? 苦労って?」


「あれ、純ちゃん知らない? もう二年ぐらい前かな……当時はかなり大きくニュースになったんだよ。ひどい内乱が起きて、多国籍軍が止めに入ったんだけど余計に悪化しちゃって。今もまだ小規模の紛争が続いてるらしいけど……実質ラナニアという国は、なくなっちゃったんだ。難民もいっぱい出て……うぅ、よくこんな島国まで逃げ延びてこれたねぇ……っ」


 作業着の袖を涙と鼻水でぐしょぐしょにしている大人の前で、純也とアイーシャは互いにきょとん顔を浮かべる。純也が失った記憶には偏りがあるようで、世界史は理解していながらも、ここ数年の時事に関してはとんと抜け落ちているのだ。


『ねえっ、アイーシャは喉かわいた! これ開けて! 飲む!』


 一方の少女も異国人による同情など察せるはずもなく、純也に対し飲料缶を押し付けてくる。純也はそれが売り物であることを丁寧に教えるが、まだ十にも満たないであろう少女は、駄々をこね缶を振り回すばかり。


「純ちゃん、その子の家族は……?」

「お母さんとはぐれちゃって、迷子みたい。それで喉が渇いてるって」

「そうだったんだ……、ちょっと待ってて」


 そう言うと李淵は慣れた手付きで自動販売機のパネルを閉め、小銭を投入してボタンを押した。商品が落ちてくるいささか乱暴な音に、小さな肩を跳ねさせたアイーシャへ、男は立膝をついて目線を合わせると。


「怖がらせてごめんね。アイーシャちゃんの持ってるそれ、俺のと取り換えっこしよ? ほら、こっちの方が大きいし冷たいよ。交換、ね?」

「コーカン?」


 李淵のジェスチャーが通じたのか、それともよく冷えたペットボトルを渡されて驚いたのか、少女は今までかたくなに握り締めていた飲料缶を手放した。それに顔を綻ばせてから、「こっちは純ちゃんに」と一緒に買った日本茶を差し出す。


「ありがとう、でも僕にまでいいの?」


「助けてくれたお礼だよ。それと後で、純ちゃんから教えてあげてね。泥棒はいけないことだって!」


「そうだねリンリン……泥棒はいけないことだよ?」


「ごめん俺泥棒だったごめんなさい……!」


 上目遣いで更生を促してくる透き通った空色に、自称泥棒は顔を覆い懺悔ざんげする。

 これまで窃盗未遂に至ったことがあるのかどうかすら怪しいが、「アイーシャちゃんはこんな大人になっちゃダメだよおぉうぅ」と膝から崩れ落ちていた。


「アイーシャちゃんを俺みたいなっ、少し残ったシャーペンの芯以上に使えない人間にしないためにもぉっ、ぐすっ、お母さんのもとへ届けてあげなくちゃ……!」


「いや、ちゃんとアルバイトしてるだけ、僕や遼よりよっぽど社会に貢献してるよリンリン……。今はお仕事中なんだよね? それなら僕が、アイーシャちゃんを交番まで連れて行ってあげるよ」


 李淵から貰ったミネラルウォーターを、早速がぶ飲みしているアイーシャに視線をやりつつ、純也は「ここからだと新宿署に向かった方が早いかなぁ」と独り言つ。

 しかし李淵は考え込む素振りを見せた後、朱色の瞳を陰らせた。


「それは……まずいかも。確か、日本政府はラナニアからの難民受け入れを認めてないはずなんだ。だから、俺の憶測だけど、この子は密入国の可能性がある」


 「もしそうだとしたら、警察に届けちゃうのは危ないんじゃない、かな……」消え入る声でそう続けた男は、はるか遠国より流れ着いた少女に、まるで我が身のことであるかのような憂う表情を向ける。


「聞いたことがあるんだ。そういう無国籍の人たちが寄り集まって暮らしてる場所が、世田谷にあるって。あっ、おお俺は違うよ!? 俺は生まれも育ちも日本だし、住民票や免許証だってちゃんと持ってるからね!? ただその、いっつもオドオドしてるせいか、しょっちゅう職質に遭うもんでさ……それで、そんな話を耳にして」


 堂々と本名で取得してある運転免許証(しかもゴールド)を純也に示しながら「確かあのおまわりさん、『世田谷区の下北あたり』って言ってた気がするなぁ」などと記憶を辿る李淵。


 仮にも裏社会の人間でありながら度々職務質問に引っかかり、しかも実際泥棒であるにもかかわらず一度も逮捕されていないという事実に、純也は言い表せない複雑な感情を抱いたがそっと胸の内にしまっておくことにした。


「教えてくれてありがとう。アイーシャちゃんは、僕が責任を持ってお母さんの元へ送り届けるよ!」


 李淵に頭を下げた後、少女に異国語を投げ掛けながら手を差し出す。自身よりほんの少し小さな手のひらを重ねられて、少年は真っ白な指先で柔らかく包み込んだ。


 そうして背を向けて歩き出した子供たちに、李淵は「まま待って!」と裏返った声を上げる。

 二対の大きな瞳がぱちくりと振り返って初めて、男は言葉の続きを持っていないことに気付いた。けれど、あまりにか細い背中を見た瞬間、呼び止めずにはいられなかったのだ。


 李淵は汗で湿った赤毛を揺らし、少女の前に跪く。先程彼女から返してもらったアルミ缶を手のひらに乗せると、いきなりもう片手で押し潰した。


 だが純也が予想した、炭酸の暴発は起こらず。李淵がそっと両手を開くと、白い小鳩こばとが一羽、現れたではないか。

 空へ舞い上がる鳩を目で追っていた少年少女が首を戻せば、飲料缶を消した男の手には、一輪の黄色い花が握られている。


「一緒にお母さんを探してあげられなくてごめん。俺にはこんなことしかできないけど、アイーシャちゃんが無事におうちへ帰れますように」


 片膝を立てた姿勢からアイーシャの透明な瞳を見上げ、太陽色のコスモスを捧ぐ。

 ぽかんと口を開けたままの少女に、「あ、造花でごめんね? 内職で作ったやつの余りなんだけど……」と八の字眉を寄せて頬を掻いた。


 言葉はわからずとも、彼の意図は通じたのだろう。少女はおずおずと手を伸ばして花茎を摘む。それに安堵した李淵が腰を上げると、頭上で羽ばたいていた小鳩が主人の肩に戻ってきた。

 アイーシャが人工の花弁に見惚れている一方で、純也は小鳩をじっと見つめて。


「その子、リンリンが飼ってるの?」

「あぁ、フランソワーズっていうんだ。毎晩俺の話し相手になってくれる、優しい子なんだよー」

「そっか……。野良じゃないなら関係無いし、連れていっちゃダメだよね……」


「純ちゃん、野生動物を探してるの? 西新宿で?」

「うん」


「警備員のお仕事、で……?」

「たぶん……」


 報酬のえさを嬉しそうにつつくフランソワーズから目を逸らし、純也は今頃ドブネズミを追いかけて下水道を走り回っているであろう同僚に思いを馳せた。

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