砂糖の無い生活

香炉木

第1話 ある日

 ふと気がつくと揺れていた。景色は次々と流れていく。固く組んでいたはずの腕はいつの間にやら解けていた。電車の心地よいリズムを子守唄代わりに眠ってしまったようだ。朝一番に乗り込んだ電車はメンチカツの肉よりもギュウギュウに車内に押し込み揉まれて、きっと今ならものすごくジューシーなメンチカツになれるのかもと人生を諦めかけもした。だが、しばらくいくつかの電車を乗り継ぎ見える風景が緑になってきたころジューシーな脂まみれの私はようやく座ることに成功した。時刻ももう昼頃のようだ。通勤ラッシュを過ぎ、長閑な車内。ベビーカーを押す母親が入ってきても誰も咎めない。むしろ和やかな空気になる。誰も座る席に困らないほど田舎に来ていた。

「あ」

 と、大きな一声が聞こえた。

「お母さん、見てみて、入道雲。」

 ブラインドを半分程下ろしてうたた寝をしていた様子の母親に自分の視界に映った景色に興味を示すよう少年は揺すった。

「えぇ、そうね」

 チラッと一見しただけで、また眠りに落ちてしまった。母親もきっと日頃の育児・家事に疲れているのだろう。少年はそんな母親を見て唇を尖らすが、彼もまた緩やかな陽光に眠気を誘われていたのだ。もう一度見ると寄り添うように眠りに落ちていた。

 私は少年が一時でも夢中になった入道雲に目を向けた。これは見事。澄み渡った青空にまるで水彩画で描かれたような暴力的な白が広がっていた。こんな絵を描いてしまったら生きているうちにでも人気画家になってしまうかもしれない。じ、と眺めていると雲は段々と形を変えていく。まるで生き物かのように、もごもごと蠢く姿はずっと見ていても飽きが来ない。

 気がつくと電車は駅に停車していた。周りを見渡すといつの間にか乗客全員いなかった。ただ一人を除いて。

「お客さん、ここ終点ですよ。」

「あ、はい、すみません今降りますので。」

 見回りに来た車掌だった。この電車は折り返すのだろう。焦りながら荷物を整え、私は電車を後にした。片手に荷物を、もう片手に切符を持ち改札を抜けようとするも、改札はなかった。いや正確には自動改札・有人改札がないのだ。それじゃあこの切符はどこへと思い出口周辺を見回すとそこには〈切符はこちら〉と書かれた箱が設置されていた。さすがの田舎っぷりに笑いを堪えられなかった。

 駅を抜けるとそこは私の知らない世界に来たようだった。辺り一帯は背の高い草が生い茂り、ヒグラシの声がサラウンドに聞こえてくる。そこへ秋のような爽やかな風がサアァと通った。すると腰辺りまである草が一斉に艶をもって流れていった。そして私は赤に染まった土地へと一歩踏み込んだ。

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