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冴枝 夏樹
第1話どぶねずみ
「清く美しく」
和紙で作られた葉書には、まるまる太った黒紫の茄子一つ。その周りを「清く美しく」が丸っこい文字で囲むように踊っている。私は全身の体液という体液がアルコールに侵されていて、その言葉の何一つとして脳に心に沁みてこないどころか、なんなら異国の言語のように、異質なものとして硬く目に突き刺さってきた。痛い。痛いよ。私は寝そべったまま、葉書を床に放り投げた。ひらりひらりと二回ほど身を翻し、滑りこむようにして茄子は床に着地した。
カーテンを開けたままにしていた窓からは容赦なく夏の陽が照り付け、外からは近所の公園で遊び狂う子供たちの騒ぎ声と生き急ぐ蝉のけたたましい鳴き声。キャミソールにショーツだけのだらしない格好で、汗だくで、昨日の酒に浸されて、私はベッドの上でただただ後悔していた。昨夜もひどく酔っ払った。またやらかした。なんてだらしない女なの私って。もうお酒辞める。一生呑まない。ああ嫌だ、死にたい。死にたい。死にたくない。深酒した次の日に必ず訪れる後悔という名の波は、何度も押し寄せては、徐々に引いてゆく。だから私は懲りずに深酒を繰り返す。
しかも今朝は忌々しい茄子葉書の存在だ。昨晩、否、明け方か。でろんでろんになって帰ってきたはずなのに、私はきちんとポストの中を確認し、無機質なアルミ箱の中、一枚寂しく佇んでいたその葉書を摘み上げて部屋に持ち帰り、ご丁寧にも枕元に置き、化粧を落とし、デニムとシャツを脱ぎ捨て、寝たのだった。昨日の自分を呪った。酒のせいだけでない、最悪の目覚めだった。
絵葉書は離れて暮らす母の仕業だった。最近趣味の一環として絵葉書を始めたのは良いのだが、やたらと説教じみた文言を添えて頻繁に送りつけてくるのだから、閉口している。
目を閉じるとまあるい茄子が恐ろしく黒々と瞼の裏に浮かび上がった。私は目を閉じたまま、何も有益なものなんて詰まっていないのに、うんざりするほど重苦しいタールみたいな脳みそをフル回転して、ぼんやり考えた。
こりゃ母に不倫でも疑われているな。ふふっと一人せせら笑う。だってそうだろう、女三十五歳、真面目に働いて一人東京で生きている。それだけならば「清く美しく」だなんて説教されることもない。問題はおそらく、何故私が嫁に行けぬのかという事だ。表立って聞いてくることはないけれども、その件において父と母は相当気を揉んでいるに違いなかった。どうしてあの娘は結婚しないのかしら。結婚できないのかしら。結婚できない理由があるのかしら。結婚できない人と付き合っているのかしら。ハッ!今流行の不倫かしら。それならば、こうしちゃいられない。絵葉書。
と、こんなところだろう。そうだとしたら、母の憶測は半分アタリで半分ハズレだ。
あーーーーー。俯せになって枕に突っ伏すと、思い切り叫んだ。真綿がその声を吸い込んだ。阿保らしくなって、力尽きて、気が付いたら、そのまま寝てしまった。
母は幸せな人だ。幸せな家庭を作り上げることに全力を注いで生きてきたのだから、それもそのはずだ。赤いギンガムチェックのビニール製のテーブルクロスがその象徴だ。私たちは朝晩必ず家族で、部屋の大きさに対して少しばかり大きすぎるテーブルを囲み、クロスの上にパン屑を落とし、丁寧に出汁を取った味噌汁を溢し、母の焼いたまだ温かいクッキーをポロポロ齧り、時々宿題をしたりして、毎日を過ごした。歳の近い妹と私の間には、度々小さな諍いもあったけれど、大抵は和気あいあいと穏やかに過ごして私達は育ったのだ。ビニール製のテーブルクロスは、今じゃ随分と草臥れたもので、ビニールは触るとぺたぺた肌に張り付いて鬱陶しいし、傷付いた部分から下のチェックの生地に汚れが沁み込んで随分みすぼらしいものになっているのだが、母はそのテーブルクロスを新しいものに変えようとは思わないらしい。今では妹も私も家を出て、そのテーブルを囲むのは父と母二人きりになってしまったのだが、そのクロスには汚れと共に沢山のかけがえのない思い出が沁み込んでいるのだと、母は目を潤ませて言うのだった。
母を想うと、いつも小さな背中が浮かぶ。藍色のエプロンをして、鼻歌を歌いながら夕飯の支度をする母。掃除機をかけながら大音量でサラブライトマンをオーディオからたれ流している母。左手で柴犬を撫でながら庭の雑草をせっせと抜いている母。そのどれもが家のことをしている母の後ろ姿で、陽だまりのような甘い匂いを伴って、私の脳裏に蘇るのだった。母は私達姉妹と、愛する夫のために、何も疑う事なくその人生の大半をつぎ込んだ人であり、またそれが誇りで、幸せの形なのであった。
目が覚めたら夕方だった。土曜日とはいえど、いくらなんでも時間を無駄にし過ぎた。何もかも酒の飲み過ぎのせいなのは分かっている。うんざりしながら上半身を起こした。頭はスッキリとしていて、体液も殆ど通常の濃度に戻り体内を流れ始めたようだ。今度は寝過ぎて体の節々が痛んだ。のそっとベッドを下りて、葉書を拾い、本棚の中の本と本の隙間に隠すように適当に挟んだ。これで当分見ることはないだろうけれど、「清く美しく」の文言はぺったりと私の頭の中に貼りついてしまった。なんの感想もないけれど、ひどく嫌な気分は拭えなかった。ソファの上に放り出された鞄の中から携帯電話を取り出し、メールや履歴を確認する。昨晩飲みに行ったバーのバーテンダーからメールがきていた。
「いつもありがとねー」
私より五つ若いバーテンダーは背が高く、時折見せる翳が妙に色っぽい男だった。性格もマメで、店に飲みに行けば必ずこうしてメールを寄越す。あと幾つも若ければ、酔いと寂しさに任せて彼に恋でもしていたかもしれない。
「こちらこそ、いつもありがとう」
それだけ返して携帯をテーブルに置こうとすると、妹からの着信で、手の中で電話がブルルと震えた。
「もしもし」
「あー、おねえ」
かけてきたのは向こうのはずなのに、やけにかったるそうだ。
「どうしたの」
「あれ届いた?」
絵葉書!私と妹の声が一寸狂わずシンクロして、思わず二人で噴出した。
「おねえ、なんて書いてあったよ」
「清く美しく、と茄子」
はっ、と妹の笑い声が短く漏れた。
「なんで茄子」
「知らないよ。そういうあんたは」
「今を大切に、と風鈴。私が旦那の愚痴をぐちぐちと言っているのを聞いて、それに対する戒めだわ」
「へえ」
愚痴なんて言っていたのか。妹とはたまにこうして連絡を取り合う仲だったが、決して私に家庭の愚痴を溢すことはなかった。結婚していない姉に対する妹なりの気遣いか。それともはなから姉に家庭のことなど分かるわけがないという諦めか。どちらでもよいけれど、そうか母は妹にも格言を送っていたのか、と思うと、どんより陰っていた気持ちが多少は軽くなった。通話が終わると、部屋の中がとたんにしん、となった。昼間あれほど騒がしかった外からの雑音も、時折通り過ぎる車の走行音くらいになって、寂しさが強く押し寄せて、堪らなくなり、私はエアコンを切り、窓を開けた。空が低く唸っていた。
彼と別れたのは半年前だ。その一年位前から、別れる、やっぱり離れられない、を繰り返し、私たちはほとほと疲れていた。彼には家庭があり、子供がいて、学生の頃から付き合っている奥さんがいた。それでも私たちは激情に任せて恋をして二年程真剣に愛し合って、壊しあった。面白いくらいに傷付け合い、残った愛がどれほどのものかを推し量るようにして最後まできりきりと嫌な感情を擦り付けあった。最後に残ったのは殆ど憎しみと軽蔑だけだったはずなのに、いまだに私は毎日彼を思い出しては胸が苦しいのだった。
何があれほどまでに私達二人を虜にしたのだろうか。それはまるで互いに憑りつかれたみたいな執着を持っていた。そして別れた今も、至る所に彼はまだいるのだ。どこもかしこも手を繋いで歩いた道ばかりで、一人きりで歩いていても、あの温かくて少しがさがさした掌の厚みを感じる事があるのだから、私は重傷だった。
彼は家庭を捨てる気はなく、けれど私が大好きで、それでもやっぱり家庭が一番大切だから、不安と嫉妬に狂った私に応えることなど一つも出来ず、私が愛を求めれば逃げてゆくくせに、私が受け入れればこれでもかと私の愛を貪った。どこにでもある、ありふれた不倫のお話です。
あれは高校二年生の秋の夕暮れ。母が買い物で居ないのをいいことに、ソファに寝そべってスナック菓子を食べながら一人漫画を読んでいた。ルルルルルル、と自宅の電話が鳴り、私は舌打ちをしてのろのろと電話に出た。制服にスナック菓子のカスがついていて、嫌だなと思ったのを覚えている。取った受話器の向こうはしばらく無言だった。いたずら電話だろうか、と耳を澄ますと、鼻を啜る音がして、電話をかけてきた主が泣いているのが分かった。
「どちらさまですか」
「奥さまですか」
遠慮がちに主は言った。その声は涙で濡れていた。
「いいえ、娘ですけれど」
「すみません。それならば、いいのです」
「待って、掛け直しますけど」
くあんくあんと頭の中が揺れていた。
「いいえ、いいんです」
「待って、お名前だけでも」
どうしてだろう、私はやけに食い付いていた。すでにその不穏な電話の意味を解っていたのかもしれなかった。彼女は父の部下だと言って名前を告げた。聞いたことのある名だった。
「私はあなたのお父さんと長いこと恋愛関係にありました」
絞り出すように、呻くように、唐突に彼女は告白をした。
「お父さんに、私は捨てられました。ほとんどボロ雑巾のように。どうしたらよいのかしら私」
激しく浅い呼吸が漏れ伝わってきた。彼女は興奮していた。そしてとても苦しんでいた。
「ごめんなさい」
私は泣きながら謝っていた。
「どうしてあなたが泣くの」
「父が酷いことをあなたにしてしまったみたいだから」
「嫌よ、そんなの。あなたが謝るなんて嫌」
暫く私と彼女は電話を隔てて一緒に泣いていた。
「ごめんなさい。取り乱してしまいました。もう二度とこんな電話はしませんから、このことはお母さんにもお父さんにも秘密にしておいてもらえませんか」
そう言って彼女は電話を切った。私は律義に、会った事もない父の恋人を名乗る女との約束をいまだに守っている。
冷蔵庫から水を取り出し、体に流し込んだ。あの時のあの人と今の私は同じ。あの人の気持ちがよく解る。電話こそしなかったけれど、私も彼も彼の家庭も全部壊してしまいたいという衝動を、私は一時持っていた。それをしたらどこにも戻れなくなる、という恐怖がかろうじて私をそうさせなかったけれど。あの人は孤独だった。きっと物凄く、寂しかった。対して、何も知らぬまま家庭という名の城を守り通した母は、あんな孤独を味わったことなどきっと一度としてないのだ。身内であるはずの母が、彼の家庭を守り続ける彼の妻に重なった。孤独を知らない彼の妻。結果として妻を守った彼。では、私は、そしてあの時の彼女は、まるで行く宛のない孤独の海をさまよう海月だった。真っ暗でどこまでも広がる不安との闘い。だから私は時々彼女を想う。元気に生きているのだろうか、と。
冷蔵庫にあるもので食事を済ませて、なにとはなしにテレビを見ていても、遅くまで寝ていたせいか、今夜は眠れない予感がした。
「今夜は飲みにこないのー」
バーテンダーからの営業メールで携帯の画面が光った。眠れない夜は孤独だ。息も出来ないほど苦しい。時刻はまだ午後八時過ぎ。夜は長い。耐えられそうにない。
私はシャワーを浴びて、華奢な下着を身に付けた。半年前、まだ彼との関係が切れていない時に買った、男への媚びが織り込まれた甘美なレースの白い下着。
昨晩の深酒のせいで化粧ののりがすこぶる悪いが、諦めて家を出た。土曜日の夜、街は賑やかだった。私はその中にちゃんと紛れ込むために背筋を伸ばして一歩一歩店に向かう。三十五歳の嫁ぎ遅れた女がこうして夜な夜なバーに通う姿はなんて滑稽なことだろう。虚しいけれど、孤独よりかはましだと思った。
おー、来たねー。聞きなれたバーテンダーの嬌声にも似た甘え声と常連たちの歓声に迎えられ、束の間私の孤独は息を潜める。そんなものなのだ。そんなものは。自棄になってぐいぐい酒を飲む。飲み込む。くだらない話に花を咲かせて、取り留めなく酒を飲む。視界があやふやになってきたころ、一人、また一人、と常連たちは帰り、気付けば店には私とバーテンダーの二人になっていた。ブラのアンダーが急にきつく感じて取り外したくなる。
「もう一杯飲んで終わりにするか」
バーテンダーはそう言って自分にビールを注ぎ、私にもハイボールを作る。
「お客さんいないから、横座ってもいい?」
「いいよ」
そうして私たちは肩を寄せ合って乾杯をした。視界がとろけている。すっかり私は酔っている。酔いに任せて、バーテンダーの首に両腕を回した。バーテンダーが顎を少し上げて、私を見下ろすような仕草をする。色っぽかった。
「いいの?」
「何が?」
「俺彼女いるよ」
そんなこと、どうでもいい。野暮なこと言わないでよ。あんたは私が今夜眠れるようにしてくれたらそれだけでいい。それ以上はもう、誰にも何も求めたくなかった。これ以上何も言わないように唇を重ねた。彼の目が濡れて美しく光る。
「清く美しく」
「え」
「なんでもない」
もう一度唇を重ねた。街の片隅の薄汚れたバーで、人の男を貪る自分がどぶねずみのようで、なんだか何もかもが本当にどうでも良くなった。どぶねずみが美しいと歌った曲、そういえばあったな。ブルーハーツのリンダリンダが突如として頭の中に流れ始める。
どぶねずみ、みたいに、美しく、なりたい、写真には、写らない、美しさ、があるから。
ふ、と笑った。バーテンダーが不審な顔で私を覗き込む。その目には余裕があって、でもその奥に欲望の火が揺らめいたのを、私は見逃さない。どぶねずみが百歩譲って美しいとしても、決して清くはないのだった。
(了)
songs 冴枝 夏樹 @NatsukiSaeeda
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