短編集「みねうち」
仁野久洋
ひとふり目:恋愛保存法
ひとふり目:恋愛保存法
「きみは、狂っている」
”完璧な彼”を目の前にした僕は、思わずそう叫んでいた――
僕は今日、意を決して長年想いを寄せていた彼女に告白をした。大学で同じ講義に出ているくらいの関係性から脱却していないにも関わらず、この気持ちを抑えきれなくなった僕は、やはりやっぱり予想通りに、あえなくあっけなく玉砕した。彼女の断り文句はこうだ。「好きな人、いえ、彼氏がいるので」と。
が、元々諦めの良い人間では無い僕が「それでも好きです。いえ、そもそも好きという気持ちにパートナーの有無など関係無いのです。恋人になってくれとは言いません。せめてお友達にしてください」と少々食い下がってみたところ、「では、私の家に来てください。それで諦めもつくでしょう」と言われ、首を捻りながらも素直に従って来た結果に出た僕の感想が「きみは、狂っている」だったのだ。
地方からうちの大学に通う彼女は、穴場的な古い住宅街の寂れた一戸建てを借りて住んでいた。親戚の資産なのだそうだが、買い手もつかずに放置されていた家であったらしい。赤茶けた瓦屋根と煤けた木板が良く言えば侘び寂びに通じているように見えなくも無いが、それはもう少し手入れをしないと無理そうだ。まずは枯渇によって枯葉の堆積している庭池と、そこらじゅうに蔓延る雑草をどうにかしなければ。
がらららら、とかしましい音を立てる玄関の引き戸を開けて「どうぞ」と僕を招き入れてくれた彼女は、適当に脱いだ僕の靴をきれいに揃えて奥へ奥へと進んでゆく。艶のない廊下が踏みしめるたびにぎしぎしと鳴くのが、僕にはまるで警告音のように思えた。
「ねぇ、きみの家に来れば僕の諦めもつくということだったけど、それってどういう意味なんだい?」
息苦しくなった僕はそもそもの疑問を彼女の背中に投げかけた。
「この奥の部屋に、私の好きな人、いえ、彼氏がいるのよ。こう言ってはなんだけど、彼は素晴らしい美貌と知性を兼ね備えた完璧な人なのよ。彼には誰も敵わない。だからあなたも諦めるはずなのよ。と、口で言ってもなかなか信じてはもらえないでしょうから、実際に見てもらおうと考えたわ。百聞は一見に如かず、ということね」
「なるほどね。きみほどの人にそこまで言わせるんだから、それはさぞかし素晴らしい男なのだろう」
つらつらと説明する彼女の言葉に内心憤りながらも、僕は得体の知れぬ違和感を覚えていた。
見てもらう、とは少々不自然な物言いではないか? 会ってもらうというのならまだしも自然だが……?
「ここよ。うふふ。あんまりびっくりしないでね」
最奥の部屋に到達すると、彼女がいたずらっぽくそう言って襖を引いた。まるで茶道の席でもあるかのように、す、とひと引き、それから「失礼しますね」と断ってからもうひと引きして襖を開ける。そんな彼女の後ろで、僕は自分でも驚くほどにわくわくしているのを感じていた。僕の恋に引導を渡すことになるであろうその男への興味が、具現化する絶望への恐怖を凌駕している。そういうことなのだろう。
襖を引いた彼女の背中越しに、文明開化時代の香るロココ調ソファに腰掛けた男が見えた。直後に僕が発した言葉が、
「きみは、狂っている」
だったのだ。
「やぁ。初めまして。お客様だね」
僕の正直に過ぎて失礼極まりない言動などまるで無視されている。
「ええ。彼、私の大学の同期なのよ。私の恋人になりたいんですって。でも、それは無理だからって断る為にお連れしたの。だって、あなたさえ見てもらえば、すぐに納得出来るはずだもの」
「ははは。なるほどね、と納得してしまうのも面映ゆいものがあるけれど」
「何も謙遜することなどないわ。だって、事実なんだもの」
「ふむ、謙遜とは少し違うが、確かに小さくなるようなことでもないね。それより彼、きみを気狂い呼ばわりしているけれど、いいのかい?」
「あら、どうしてかしら? 彼にも分かるはずなのに。分かるでしょう? 一般的な美的感覚を持っているのであれば、彼がどれほど美しいか、ひと目で理解出来るはずだわ」
彼女は男の組まれた足にしなだれかかると、僕にとろりとした目を向けた。僕は同意を求められている。それも、全くずれたポイントで、だ。
確かに、その彼氏の容姿は非の打ち所がないものだ。街行けば誰もが目を奪われてしまうことだろう。老若男女、世代も性別も飛び越えて、人を惹きつけてしまうほどの美しさ。完璧であるがゆえに、それはあまりにも不自然な美しさだ。
「これで分かったでしょう? この彼氏がいる限り、私は他の誰ともお付き合いなど出来ないの。私の心は、いえ、身も心も、ね。全てが、この彼のものなのよ」
彼女が男の手を取り愛おしそうに頬ずりした。その光景に、僕の心が恐慌に襲われ絶叫している。
「私の一目惚れだったのよ。偶然、同じ電車に乗り合わせたの。運命だと思ったわ。私は、彼に出逢う為に生まれてきたの。私の人生は彼の為にあるのだし、彼がいなければこの先を生きてゆく意味も無いの。私はそう思ったわ」
「ははは。大げさだな。心配しなくても、僕がきみの前からいなくなることなどないよ。だって」
ひと呼吸、間が空いた。
「だって……? だって、なんだと言うつもりだい……?」
僕は先を促した。このまま”彼女”の言葉を聞き続けているだけでは、どうにかなってしまいそうな気がしたからだ。
「……だって、僕はもう動くことなど出来ないのだから」
”彼女が”そう答えて寂しげに笑った。
”彼女は”なおも続けた。
「きみが僕をこんなふうにしてくれたおかげでね」
”彼女は”さらに話した。
「これではもう、僕はきみを抱き締めてあげることも出来ない」
そして”彼女は”こう言った。
「でも、その代わりに僕は永遠の存在としてきみのそばにいられる。そばにいられるだけ、なんだけれど」
僕はかさかさになってしまった唇で問いかけた。
「”それ”は……きみが、”作った”のかい?」
彼女はにっこりと微笑んだ。
「ええ、そうよ。凄く良く出来ているでしょう。この”剥製”を作るのに、私は凄く苦労したのよ。その甲斐はあったわね。彼、本当に完璧だわ。もう死んでいるところも含めて、ね。いえ、だからこそ、なのかしら? うふ。うふふっ」
完璧な彼氏。その正体は、彼女が”本物の人間”を使用して作った、ただの”剥製”だったのだ。僕は”人間の剥製”の作り方を知っている。なにしろ、僕も彼女も剥製師になるつもりでいるのだから、知っていて当然だ。しかし、その作り方は残虐だ。かなり高度なスキルも要求される。彼女はその技術を、余すところなく彼に使用したのだろう。だから僕は彼女に対し「狂っている」と断じたのだ。
なるほど、彼女の言うとおりだ。僕の恋心は一瞬で凍花のように砕け散ったのだから。
だが、これで終わりでは無かった。
本当の恐怖は、ここからだった。
僕は、彼女が僕にこの”彼氏”を見せた意味を、もう少し考えるべきだったのだ。
彼女はおもむろに取り出したハンカチで口を押さえると、彼氏の腰掛けるソファの後ろからスプレー缶を取り出した。
「でも、彼氏って一人じゃなきゃいけないってことはないわよね? 結婚しているわけじゃなし、若いうちは遊ばなくっちゃ」
「それはどういう意味なんだい? うっ!」
スプレーからの噴射を浴びて、僕の意識が遠のいた。何か麻痺系の薬品には違いないのだろうが、僕の思考は急速に停滞し始め、それを特定することすらかなわない。しかし、崩れ落ちた僕を見下ろす彼女の口から出た次の言葉に、僕がこれからどうなるのかだけははっきりと理解した。
「ごめんなさいね。あなたを彼氏には出来ないけれど、ボーイフレンドにならしてあげる。あなた、彼と違って可愛いんだもの。美しさと可愛さって、どちらも選び難いものでしょう? うふ、ふふっ、ふ」
彼女は、最初からそのつもりだったのだ。だから僕に見せたのだ。それはそうだろう。こんなものを見た僕が、そのまま普通に帰宅するなんて誰だって思わない。
「さぁ、また頑張らなくっちゃね。きれいに皮を剥ぐのが一番大変なのだから。収縮を予防するのも難しいけど、二回目だからもっと早く出来るはずだわ」
喜々として弾む彼女の言葉を浴びながら、僕の視界は暗闇に染まっていった。
~ END ~
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