みどじいの沼

真生麻稀哉(シンノウマキヤ)

第1話


「大学生の時なんですけど、」


メグミさんは、言った。


「沼に落ちたんです」


え? あなたが?


と私が聞き返すと、


メグミさんは、


「ええ」


とマブタを閉じて頷いた。



「そうです。


 夢の中で、


 深い深い沼に、わたし、落ちたんです」


なんだ、夢の話かと、私が目を細めると、


「わたし、その頃、1つ下の大ちゃんって男の子とつきあっていたんです」


一体、なんの話だ?


「大ちゃんの実家に泊まりに行って、その夜、その夢を見たんです。


 大ちゃんの部屋は2階にあって、どこからかお線香の臭いが漂っていて。


 あと、何かよくわからない、誰かに見られているような、すごくすごく気持ち

 悪い気配がしてて。


 わたし、気になって、ごはんが食べられなかったんです」



なぜか、そこでメグミさんは泣きそうな声になった。



「大ちゃんのお母さんは、オカズにほとんど手を付けないわたしに、すごく呆れて。


 そのあと、寝る前に、わたし、トイレに行こうとして、聞いちゃったんです。」


聞いたって、何を?


「キッチンで、大ちゃんのお母さんが、大ちゃんに


 『あのメグミって彼女は、ダメよ。


  遊びでつきあうならいいけど、


  ぜっ…たいに、結婚相手になんて選んではダメよ』


 って言うのを。


 大ちゃんは、なんて答えたのか、わからなかった。


 でも、大ちゃんのお母さんが


 『結婚さえしなければ、何をしてもかまわないけど、妊娠だけは、絶対しない

  ようにしなさいよ』


 って言うのが聞こえたんです。」




私は、黙ってメグミさんの話を聞いていた


彼女のキャミソールワンピースの白い肩が震えていた。



「あんなの、聞かなきゃよかった。


 だから、きっと、あんな夢を見たんです」


それは絶望の奥底から響くような声音だった。



「わたし、大ちゃんの部屋に布団をしいてもらって、二人で眠って、それで…」



メグミさんはすうっと、私に向かって手を伸ばした。


私の目の前に、彼女の白い腕がまっすぐ伸びていた。



「この腕からはじまって、わたしの全身に、透明なイクラのようなものが

 ついていたんです。


 びっしりと」


え? イクラ?


今は正月じゃないぞ。


「夢の中の話です。


 気が付いたら、わたしの体中に、透明なイクラがはりついていたんです。


 それで、腕についていたのを、必死にはらい落そうとしたんです」


メグミさんは、何もついていない腕を、もう片方の手ではたいて、その仕草をしてみせた。



「なぜだか、わたし、卵だって思ったんです。


 その透明なイクラを。


 ちょうど自分が人間じゃなくって、一本の丸太棒(まるたんぼう)になって、


 全身に何かの卵を産みつけられているような、そんな感じでした」



どうしてまた、そんな風に感じたんです?


私の質問にメグミさんは、



「辺りには腐った森みたいな、青いような土のような奇妙な臭いがしていました。」



と言い、不意に座っていた椅子から、ブンと片足を蹴り上げた。



「それから、いきなりわたしは誰かに蹴り落とされたんです。


 沼の中に、ぼちゃんって」



メグミさんは、苦しそうに顔を歪めた。



「どんなに助けを呼んでも、隣にいるはずの大ちゃんは、助けてくれなくて。


 どろどろの藻みたいなものが絡み合う沼の中、わたしは、裸で必死に

 もがいていて、あえぎながら、溺れながら、昏い水面を遠く見上げると、

 知らないおじいさんの顔があって、じっとわたしを見つめていました。


 やがておじいさんは、どろどろの臭い沼に手をつっこんで、手招きするように

 わたしに向かって、手を伸ばしてきました。


 わたしも、そのおじいさんに手を伸ばしたんです。


 沼の中で、悲鳴をあげながら。」

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