冷たい熱情、その行方。

高村千里

第五作目

 大勢の人の話し声であふれた教室。長机が何十と並んでいて、図書館でよく見る、音があまり出ない椅子がそれとセットで置いてある。皆自由に過ごし、一人は携帯をいじったり、一人は本を読んだりしていた。

 入り口で前から二番目の席が空いていることを確認した私が教室に入った直後、白板から一番遠い席でわっと声が上がった。

 大学へ進学してから二か月が経った。私の前の席と後ろの席はもう人が座っていて、私がその真ん中に座るとまるで”ビンゴ!”だった。リュックを床に置くフリをして後ろを眺めると、さっき歓声が上がった席の周りに男女の集団が七、八人いて、教室内でも一層大きな音を生んでいた。

 毎回こうだった。大学なんてこんなものなんだろうと思いながらも、私はそのこんなものをあまり好きになれずに、三回目から私は講義が始まるまでの間イヤホンをするようになった。

 大学というものもやはりカーストで出来ていて、派手めな子たちが学内を支配している。カーストで一番下にいる人たちは無言の配慮と遠慮が求められる。

 つまり、今の私たちがそう。一番後ろの席は彼らのものだ。どんなにうるさくっても、無視。自分の世界を守るだけで必死で、皆、読書したり音楽を聴いたり携帯をいじったりして頑なに上からの侵入を拒んでいる。

 前から二番目の私の地位。肩をすぼめて、とりあえずびくびくしてみる。何びびってんの? って、エ? コレ、音楽に乗ってるだけですけど──どん。

 私の肩に突然、重みが来た。

「君さ、」

 重みは後ろからだった。C君だ。ビンゴを前から数えて、A、B、C。真ん中の私はB子。C君は私の肩を掴み、眉をひそめた。

「さっきから左右に揺れてるの、やめてくんない? ゲームがやりづらい」

「ごめん」

 ポップなミュージックの合間を縫って聞こえたC君の声は聞こえにくかったが、男子にしては高めの声だったので、彼の不愉快そうな感じは大いに私に伝わった。C君は掴む力を緩めて、

「いや、別に、いいけど」

 と顔をうつむかせ、もう一方の手に持っていた携帯の、点灯したままだった画面を切ってしまった。

 C君のほうを向くのをやめ、私はA君のほうを見た。

 青いワイシャツからぽこぽこと飛び出た背骨。猫背で姿勢が悪くて、大学生になったのに真っ黒なままの髪の毛。C君だって、私だって、茶色だというのに。高校までは黒髪が原則だったのが、今は黒髪の学生のほうが珍しくて、A君の黒髪はとても目立っていた。

 七日前一度、気になってA君に話しかけた。講義の直前で、彼の背を一回、指でつついた。

「髪の毛、なんで染めないの?」

 そのとき講義が始まってしまい、彼は私のほうを振り返ることなく、返事を聞くことも出来なかった。

 私の指の腹に、彼の返事のようなごりっとした骨の感触だけが残っていた。

 そのときは突然訪れた。昨日、学内の食堂で遅めの昼食を食べていると、ふいに話しかけられ、何かを言われた。ミートソースパスタを口に入れるのを止め、声のしたほうを見上げる。

 A君だった。しなっとくたびれた白いシャツを着て、私と同じミートソースパスタの皿を手に持っている。A君はもう一度私へ口を開いたが、彼の言葉がやはり聞き取れない。

 私が答えられないでいると、A君は食堂のテーブルへパスタ皿をどん、と無造作に置いた。驚いて彼の顔を避け、ボタンがついている部分の布の左右にだけある短冊形の柄を見ていたら、彼に左耳を触られた。

「えっ──」

 思いもよらない彼の行動に呆然とする。怖くてまだピアスじゃない耳飾りが耳朶でちゃらんと鳴り、

「染めてるよ、」

 と耳元で声がくっきりと聞こえた。私の視界の隅でふらふらと揺れたイヤホンの左側を見て、やっと私は自分がイヤホンをしていたことを思い出した。

 A君の言葉が何なのか、初め分からなかった。

「俺、クオーターだから、地毛は茶色なんだ」

 それが六日前の質問の答えだということに行きついたとき、私はなんだか、妙に感動してしまった。

 質問した私でさえ忘れていたのに彼は、たまたま思い出しただけかもしれないが六日経っても、覚えていた。積もっては消えていく膨大な会話の山の中から、あの何気ない言葉を拾い上げ、ずっと持っていてくれた。その事実が、ただ嬉しい。

 C君の声みたいに高くなくて、音楽を聴いてたら紛れて聞こえなくなってしまう声。わざわざ黒にした髪の毛。教室で、席が前後なのに振り返ってくれない猫背。

 新入生歓迎と銘打って開かれた春の学祭で、A君の姿を探していた。騒がしい雑踏の中を、イヤホンをさしたまま通り抜ける。

 A君は、屋台が出ているところからずっと遠いところにいた。一部の学生しか使わない裏口の、小さな扉の前。大学の端っこで、木々が植えられうす暗く、足を踏み出すと腐葉土がふにゃりと軟らかい。地面に埋もれた足を持ち上げるごとに土の香りがした。

 私に背を向けて立っていた彼が私のほうを振り返り、「あっ」と声を発した。A君だ。A君の声だ。私の心が、それだけで悦び震えるのが分かった。ああ、やっぱり、私は。

──食堂でA君に話しかけられて以来、気がつけば彼の姿を探しすようになっていた。彼は人と目を合わせない。だから瞳はいつも暗くて、光を嫌っている。純血の日本人よりも瞳孔が茶味がかっているから脆弱に見え、故に美しい。まるで闇夜に浮かぶ朧月のよう。教室で一番地位の低いは常に怯えている。それはきっと、私も感じている目に見えないものへの恐怖で、だから彼は教室では絶対に後ろを振り返らない。怖がりで愚かで、かわいそうな人。でもそれが愛おしい。

 A君は、あのときと同じ白いシャツを着ていた。

 私はA君の許へ歩みよった。

「偶然だね」

 と言った瞬間、彼の目に警戒の色が浮かんだ。しまった、不自然すぎたか。

「学祭に疲れちゃって……」

 慌てて取り繕ったが、A君の瞳は厳しいままだった。完全に、不審者を見る目つきだ。誰だってそう思うだろう。学祭の最中に、こんな薄暗い場所に来るなんて。

 次に言葉を続けられずに口をつぐむ。

「君、ここで何してるの?」

 A君の声を聞くためにイヤホンの上から、低くて冷たい声音が鼓膜を震わせた。そこには無情だけがある。

 短く息を吐くと、首筋から這い上がるような感じで、ぞくぞくと震えた。私はそれを、聞こえないフリをしようとした。もう一度耳に触れてほしかったから。

 そのとき、彼の背中から物音がした。

「だめだよ”あーくん”、お友だちにそんな言い方しちゃ」

 その声がしたと思ったら、あっという間にA君は私へ背を向けた。

 A君の後ろから顔を出したのは、私と同じくらいの歳の女の子だった。私を一度も見ようとしないくせに、お友だち、のところだけいやにはっきりと言う。

「謝るのは、わたしにじゃなくてお友だちにでしょう?」

「でも……」

 彼の背骨が目の前いっぱいに広がっていた。でこぼこと整列していない背中は、後ろを振り返らない。

「あーくんなら、できるよ。だってがんばれる子だもん」

 ぎょっとする。

 そう言い放った女は、A君の頭をよしよしと撫で始めたのだ。私が一番嫌いなタイプの女。それがどうしてA君と一緒にいるの?

 A君の大きく歪んだ背中を見つめる。

 あなたたちこそ、ここで何をしていたの?

 脳裏で何かが音を立てて嵌まった。私は小さく発狂しながら片手でイヤホンをむしり取った。

 自分に対する羞恥と、Aに対する失望と、女に対する嫌悪からだった。

 彼の白いシャツ。その胸元についたミートソースのシミへ向けて、自虐。そこは私の恋の終焉。酸っぱいにおいがしそうな、だいだい色の丸。

 来た道を振り返る。

「あーあ、道、間違えた」

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冷たい熱情、その行方。 高村千里 @senri421

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