種を蒔いた夏の日に

高村千里

第四作目

 せみが庭で鳴いている。

 自室の中で閉じこもり、効きの悪いクーラーに生ぬるく冷やされ机に伏せた。 ──やっぱり、だめだ。

 夏の蒸し暑さのせいだけではない気だるさを、僕はどうにも上手く消化できないでいた。

 苦労して入った美術大学での生活は思っていたより充実しなくて、今日は暑いからと取って付けたような理由で大学へは行かず、かと言って家で何をするでもなかった僕は、夏の暑さにただ疲弊する日々を過ごしていた。

 気がついたら夏休みになっていて、けれどやはり、僕はだらけて過ごした。なぜかは分かっていた。最近、絵を描くのが楽しくない。このことに気がついたとき、僕はそれなりに愕然とした。ああ楽しくない。ガラガラと緩急を繰り返しながらも確かに回っていた僕の歯車は、ある日突然止まった。なんで? どうして? 絵を描くことが楽しくないんだ。

 画家を志して美大に入学した僕にとって、これは死活問題だった。絵を描くのが楽しくないからと言って、この道を辞めることは出来ない。辞めたらどうなるのか。僕はきっと、廃人になるだろう。僕には絵以外何もなく、絵以外どうでも良かった。けど、その絵、その絵が描けない。描いていて楽しくない絵など、僕は描いたことがなかった。八方塞がりだった。だから僕は何もしなかった……、出来なかった。

 夏休みが始まって二週間が経ったある日、祖母と僕しかいない家の玄関でチャイムが鳴った。僕は一応、楽しくなるかも知れないと一日一回は鉛筆を持つようにしている習慣の最中だったので、集中を切らしたくなくて、来訪者の対応は祖母を恃んだ。

 またチャイムが鳴る。画用紙の上の鉛筆の影は黒くて、鋭利で、一向にすり減ってくれない。頭の中にあるのは、広大な無だけだ。

 僕は仕方なく立ち上がり、祖母の姿を家の中で探しつつ玄関に向かった。

「はーい?」

 戸を開けると僕の前に、懐かしい顔が現れた。

 来訪者は叔父だった。大柄な体つきで顎ひげと口ひげを生やし、いかにも、な面をしているが、反対に目元は笑いじわが刻まれ、声には穏やかさがにじむ人柄だ。顔を見るのは三年ぶりになる。と、言うのも。

 叔父の職業を思い出そうとして、僕は思わず、別のことを思い出さざるを得なかった。

 叔父は、「急で悪いが、緊急の仕事が出来たから、しばらく泊まる」とだけ言い残して、彼のために空けてある部屋にこもってしまった。その部屋の扉を見て、思い出す。あれは僕が八つの時だった。

 今日と同じような慌ただしさで、叔父は家にやって来た。叔父は出迎えた父と母に早口で何かを言うとすぐに、普段誰も使っていない部屋に向かってしまった。小さなボストンバッグが玄関先に置いてけぼりにされ、それを僕は恐る恐る眺めていた。そんな僕を見た祖父から声がかかった。

「カケル、それ、あいつのとこに運んでってやってくれ」

 バッグは小さい上に中身も伴っておらず、しおっとして軽く、子どもの僕でも楽々持つことが出来た。心ばかりだったがノックをし、部屋に入った僕は、

「あっ」

 つい声を上げてしまう。僕の声に、叔父が振り返った。

「これ、カケルが描いたのか?」

 叔父は手に、僕が描いた絵を持っていた。人の出入りの少なかったこの部屋だが、先週暇つぶしで家を歩き回っていたとき、この部屋でキレイな色の花瓶を見つけた。それであり合わせの画材を引っ張り出してきた僕は日が暮れるまで絵を描くことに没頭した。叔父が持っていたのは、そのときの絵だった。机の上に置いて乾かしているうち、絵が完成した満足感と、次回の画題探しで気が移ったのですっかり忘れてしまっていた。

 僕が頷くのを見た叔父は、感嘆し、僕を大いに褒めた。それは僕の子ども心をうんと揺さぶった。

「カケルは、オレみたいな仕事が出来るようになるかもしれないぞ」

 と叔父が言うので、叔父の仕事をまだ知らなかった僕は、叔父に訊ねてみた。すると叔父は、快活に笑って、

「種を蒔く仕事だよ」と僕に答えた。

 仕事が忙しくて帰ることが出来ない、と叔父から実家には定期的に連絡が入り続けていたので、三年ぶりと言っても、そんなに長くは感じなかった。叔父はやはり、僕が大学生になっても”種を蒔く仕事”をしている。三年も実家に帰れないくらいだから、仕事は波に乗っているのだろう。

 叔父が三年ぶりに姿を現し、部屋にこもり始めてから、一か月経った。僕は相変わらず楽しさを取り戻せず、夏休みは残り半分を切った。僕はこの頃になると何事に対してもイライラしていて、楽しまずに描いた何十もの絵の山をやけになって庭で燃やしてしまったりした。僕が叫んだり走り出したりするのも時間の問題だったがしかし、僕の前に事件は起きた。

 叔父が失踪したのだ。出かけると言って家を出ていった後、行方がわからなくなってしまった。荷物は元々ないに等しかったが、それらを全て置いたまま、彼はいなくなった。

 最初誰も深刻に考えなかったが、日が経つにつれ家中が騒がしくなり初め、僕の夏休みが終わる頃、とうとう皆、叔父の失踪を疑わなくなった。彼の職業では、よくあることらしい。

 夏休み最後の日。僕は久々に、叔父の部屋に入った。主のいなくなった部屋は寂しげに見え、あのキレイな花瓶に活けられた花はしおれてしまっていた。

 それを見て、僕は悲しくて堪らなくなった。あの日叔父が話してくれた言葉を、また少し思い出した。種を蒔き、花を咲かせる、叔父の言葉を。

「種を蒔くときは、大体、どんな花が咲くのか想像して蒔くんだ。長いこと育てるんだけど、やっぱり最後はこいつら自身が上手いこと咲いてくれなきゃいけない。オレは種を蒔くだけなんだ。でもそれを続けていると、あるとき突然、オレの想像以上の花を咲かせてくれるんだ」

 それがこの仕事の楽しさだと、叔父は笑っていた。僕は手を伸ばして花瓶の花に触れた。

 途端、唯一残っていた花弁が一枚、机の上にひらりと落ちた。目で追った先に、一束、厚い原稿がどんと置かれている。無意識に手に取り、ページを繰っていく僕の目に、万年筆で書かれた叔父の字が飛び込んできた。


 あれから十年が経った。時が過ぎていくのは早いものだ。今から十年前は大学生で、実家に住んでいた事実を時々夢だったように感じるのだから。

 電車を乗り継ぎ、駅でタクシーに乗り込んで、あのときのことを思い出していた。あの言葉に出会えなかったなら、僕は今ごろどうしていたのだろうか。

 実家に帰った僕は、仏壇に手を合わせた。

──原稿には。

”カケルは、オレが蒔いた中で、一番美しい花を咲かせる種だ”

 と書かれていた。

 あのとき、涙が止まらなかった。そして僕は、叔父の言葉をもって再び絵を描き始めた。悲しみを抱えながら。そうして描いた絵が次々と高く評価され、賞を取り、プロの画家としての足がかりになった。今では僕も、叔父と同じように種を蒔く仕事をしている。僕はあの言葉を忘れないだろう。

 祖父の仏壇から顔を上げた僕は、実家で飄々とくつろいでいる男を睨みつけた。

 失踪から一年後、叔父は白骨として……ではなく、壮健な様子で帰ってきた。口が塞がらなかった僕に向かって、彼は意味ありげに破顔したのだった。

 これもまた、僕は忘れないだろう。

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種を蒔いた夏の日に 高村千里 @senri421

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