37話:歓送
旅立った飛行機は、本田を揺らしつつ、首都をあとにする。窓際に座る本田は、小さくなる夜明けの景色を見つめて、日本を出発した時に見た街並みとの違いに気がついた。この異国とも、もう別れの時間になった。様々なことはあったが、一瞬だったように思える。
ここに降り立った時に本田の足に走った、若干の痛みを伴う大きな衝撃は緊張のせいだと今ならわかる。スヴェンソンは厄介な男だった。自分が生きてきた電子世界を容易に裏切って自分の野望を叶え、その段階で世界中の人間を巻き込むことを厭わない。本田にはまるで神経が理解できない。だが、ただの大学生に過ぎない本田が、そのスヴェンソンを潰すという計画は、ある意味、スヴェンソンの野望を超えるほどの野望だった。
あとから考えたら凄まじいことをしたものだと自分でも思う。だがその時は必死だった。本田をそこまで駆り立てたのはなんだったのだろう。第2次ネットショックの予告が本田の姉に送られたからか? 国崎が関わっていた事件だったからか? ネットショックが世界に与える影響が多すぎるからか? インターネットを救いたいからか?
おそらくどれも違う。本田は、自分でもまさかとは思っているが、自らの深層心理に薄々気がついている。
やってみたかったから。
この計画を実行に移してみたい、ただそれだけだったのである。もし失敗したとしても、ネットショックが起こるのを防ぐことはできないが本田たちに損はない。ほぼノーリスクで、ネットショックの阻止を大義名分にやりたい放題だ。
そんなチャンス、逃したら絶対に後悔する。
国崎の秘密に気づいた時、本田はそう思った。
本田の計画は面白いようにハマった。商談に弱いスヴェンソンに、「香港ADLER」の人間が近づけば、信じる可能性が高いのはわかっていた。本田が取った手段は、スヴェンソンを嵌めるために考え抜いた、最も合理的なやり方であると本田は確信している。だが、この計画を知った国崎は、成功する確率は50%を下回ると予想した。国崎の予想はおそらく正しかったと本田も思う。それでも、国崎は裏切ることなくこの計画に乗ってくれた。本田がかなり圧力をかけたとはいえ、国崎の良心の賜物である。
さらに、この作戦を成功に持って行った最大の功労者は本田ではなく、本田についてきた3人だろう。いくら脚本が良くても、大根役者にさせた芝居は大根芝居にしかならない。本田の書いた脚本は成功率50%の脚本だから、役者がいかに重要だったかがわかる。
千弘は機密情報をあやまってスヴェンソンに与える、馬鹿な日本人社員を完全に演じあげた。溝口に至っては、大学では学習していないはずのビジネス英語を操り、中国人若手社員を演じきりメモリを奪った。トラブルで向こうに大芝居が発覚してしまったものの、鹿島の機転でメモリはこちらの手の中だ。
それが勝利の秘訣だった。
どのように礼をするべきか考えていると、飛行機の中で全く寝られないらしい千弘が、こっそり本田に耳打ちしてきた。
「あのおじさん、今どうしてるかな」
本田はうとうとしていたが、話しかけられたのだからと頭を起動させる。
「どういうこと?」
「スヴェンソンだよ。おじさんというより、おじいちゃんという方が近いのかもしれないけど。メモリがなくなってどんな気持ちなんだろう」
千弘はむしろわくわくしている。だから寝られないのだ。
「ねえ、多分絶望だよね」
「文系なんだし、考えてみたら? あのメモリの作者の気持ち」
本田は自分で自分の冗談に笑っている。
「無茶言わないでよ。答えだって確かめられないのに」
「そりゃね。もうメモリはこっちのものなのに、今更スヴェンソンに関わる必要性はゼロだし」
冷たいねと千弘は笑うが、それが最善であることはもちろんわかっていた。
「僕の方も、本物じゃないってバレたりするかな」
「さあ……。でも、日本語もわからないスヴェンソンが『大野渉』なんて社員がいないことを証明するのは難しいと思うよ。たとえ社員名簿を手に入れたとしてもね」
「そうなんだ」
本来、気休めだったはずの偽名に頼りきってしまっているが、たとえ問い合わせられても日本支社はそんな社員など知らないというだろう。
そもそも、日本支社でさえ『大野渉』の裏事情を知る人間は数人しかいない。
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