第4章:インターネットの暴発

18話:辞書

「辞書貸してくれない?」

 薄い長袖を出し終えた溝口が部屋で一服していると、急に部屋のドアが開いた。ノックの返事をする前に本田が顔を出していた。溝口の、部屋に鍵をかけ忘れるという癖は、相変わらずちっとも治らない。本田もそれを知っているから、最近はノックのあとに平気でドアノブをがちゃがちゃやるようになった。


「何の辞書?」

 床に散らばったモノというモノを片付けながら、溝口は慌ててその中から辞書を拾い上げていく。

「英語」

「持ってないの?」

「そんなもん、1年の時に単位を取ったら捨てた」

 だから英語がダメなのだ。溝口は喉まで出かかった言葉を飲み込む。


「和英? 英和?」

 有名なものを、ずらりと並べて見せると、同じ和英でも数種類あるということを知らない本田は目を白黒させている。その程度の認識だったか、と溝口は苦い顔だ。

「……英和だと思う」

「だと思うって何だよ、何を調べたいの」

 多少のことなら、溝口が辞書を貸すよりも圧倒的に早い。


「姉ちゃんに、これが送られてきたんだって」

 本田は分厚い封筒を溝口に差し出す。

「なにこれ」

「誰から送られてきたかもよくわかんないし、そんなもの真に受けるなよって俺は言ったんだけど、内容が気になるっていうから、コピーを送ってもらった」

 気遣いの出来る優しい姉のようだし、和訳も頼んでつけて貰えばよかったのに。


「じゃあ本腰入れなくて読まなくても……」

 背後に気配を感じて振り返る。誰かいる。

「千弘?」

「鍵どころかドアが開けっ放しなの、やめたほうがいいよ」

 鍵は溝口だが、ドアの方については悪いのは本田だ。だが、そう言っても千弘は生返事をするだけだった。絶対に理解していないだろう。


 千弘は話を聞いて、暇だし面白そうだから眺めると言いだした。

「もしヤバい内容の文だったら、法学部として協力するよ」

 なるほど、単に心配で見守っていると言うのが恥ずかしいだけか。


「どう?」

 不安そうにチラチラと溝口の作業風景を眺めながら、本田が尋ねてきた。溝口は、基本的にパソコンに向かって訳を打ち込み、時折、何種類かの辞書を用いて意味を確認している。途中ではあるが、まだ不穏なワードはない。


「今のところは、ただのスパムだと思うけどね。内容はやっぱりネットショックだけど、本田の姉ちゃんに何か知らせるというためのものではなさそう。みんな知ってる内容も多いし、意味も浅く見える。一部、気になるような部分はあるけど」

「例えば?」

「ネットショックがもう一度起こるかのように書いてあるんだよな。まあ、解釈にもよるから、断言はできないけど」

「それはないんじゃない? もう一度ネットショックが起こったら大変でしょ」

 千弘がばっさり切る。それは、訳を作る張本人である溝口も同様に思っている。本田は難しい顔だが、誤りであってほしいと思っているのは同じだ。


 しばらくして、おおよその和訳というものができた。本田に確認してもらい、細部はさらに丁寧な訳になるように修正していく。はじめ、大まかに読んだ時には気にならなかった、新たなる意味が生まれていることに溝口は気がついた。


「ごめん、もう一回見せて」

 溝口は、原文の方を本田から受け取り、もう一度じっくり読み直す。やはり、違和感はあった。偶然にも、はじめは訳が難しい箇所で丁寧に訳していたからこそ気づかなかったのだ。溝口は下唇を噛む。英語文学を学んでいる者としてはレベルが低かった。


「やっぱり変だ、この文章」

「そんなに変?」

 食いついてきた本田に溝口は気圧されたが、首をかしげながらも言葉を繋ぐ。


「文法上のミスじゃないんだけどさ。なんていうか、文脈が怪しいんだよね。文体があまり揃っていないというか。訳を作る時もそこらへんはちょっと苦労したんだよね。たとえば、省略を使ったと思えば別の文では使っていなかったり。なんか不思議な感じがする」

「どういうこと? 子供が書いているみたいってこと?」

 間違っているわけではない、だが、それとも少し違う。溝口は首を振った。本田はあまり英語が得意ではないと言っていたし、かといって日本語に例えるのも難しい。

「英語が母語の人間が書いてるというにはぎこちない文章……って感じかな」


HudsonハドソンってオーストラリアでIPアドレスを割振ってる団体だよね? もちろん、英語圏の出身じゃない社員もいるかもしれないけど、それでも数年英語圏に住んでたら、ここまでぎこちない文章は書かないよ」

「Hudsonの社員が書いた文じゃないってこと?」

「あまり自信はないけど、変だとは思うよ。何か、無理やり作っているかのような」

 言っているうちに自信がなくなってきたが、ここまで食いつかれている以上撤回もできず、虚勢なのではないかと思いつつも論を展開する。


「暗号……」

 ふと、溝口の脳裏に浮かび上がってきた。

「暗号って、これが?」

 やはり、食いついてきたのは軍オタの千弘である。


「ネットショックに関わる暗号なんて1つしかないだろ」

 本田は愛用のパソコンを立ち上げ、あるファイルを開く。ちゃちな起動音がして、白い背景に、黒い文字が浮かび上がった。

「『ENIGMA in the 21st Century』? 『ENIGMA』じゃないんだね」

 千弘が画面を覗き込む。本田はそれを聞いて得意げに微笑んだ。

「あれは、ネットショックを解決するために作り変えたソフトだもん」


「これは『ENIGMA』の原型、俺が作った21世紀のエニグマだよ」


 本田の作ったところの「21世紀のエニグマ」は、ファイルを暗号化するための変換と、暗号を解くための変換を行うソフトである。このうち、ネットショックに使われたのは、処理の非常に早い「暗号を解く」方の変換である。警告文を両方の方式で変換したが、当然無意味な文章になるだけだ。英文どころか記号や数字だらけの文字の羅列を見て、溝口はぞっとした。まるで文章になっていない。


「……全然読めない」

 全員が黙ってしまった中で、鹿島がぽつりと呟く。だめか、と溝口も思った。

「いや、暗号ってのはこれで終わりじゃない。他に工夫が入ってたりするものだよ」

 本田でさえ落胆の表情を見せるなか、諦めないのは千弘だった。


「後ろから読んだり、アクロスティックの時もある」

「なに、そのアクロスティックって」

「頭文字をつなげていって文にするんだよ。あいうえお作文の逆だね」

 千弘は、変換された文章の、文頭を1文字ずつ指す。溝口はあっと声を上げた。


「文章になってる……」

 3人が同時に溝口の方を見た。

「ごめん、俺、英語だめなんだけど」

 恥ずかしそうに言う本田に、溝口は流暢にその文を読み上げた後、和訳してみせる。本田の顔色が面白いように変わった。


「……俺、ちょっと電話してくる」

 本田は、溝口たちが止める間も無く部屋を飛び出した。

「お姉ちゃんに電話するのかな。なにか大変なことが起こったみたいだね。僕には、詳細はよくわからないけど」

 片がついたと察した千弘は、真っ先に立ち上がって部屋を出て行った。興味を失ったような顔をしているが、どうせ後で本田に根掘り葉掘り聞くのだろう。


 和訳の内容から、薄々ではあるが、誰もが大変なことがあるということには気づいていた。だが、その本当の恐ろしさの片鱗を知っていたのは、本田だけだった。

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