天使の嘔吐

阿井上夫

第一話

 その日は休日で、早朝からよく晴れていたらしい。


 らしい――という曖昧な言い方しかできないのは、前日のハードワークの影響でいつもより遅く目を覚ましたためである。

 そして「早朝から」という点は、部屋の中に僅かな熱が籠もっていたからだ。

 時計を見ると時刻は午前八時を回っていた。いつもよりも二時間遅い。

 しかしながら、お陰で肩の辺りが随分と楽になったような気がする。

 それとも昨日の夜、アリエスが肩を揉んでくれたからだろうか。

 そういえば、いつもならばアリエスが時間になると起こしてくれるはずなのに、今日はそれがなかった。

 昨日、私が疲れていることを察してくれたのだろうか。そうだとしたらかなり珍しいことである。

 本人に早速その点を確認したいところだが、私は逆にベッドから音を立てないように降りた。

 部屋の中を静かに横切り、寝室の扉をゆっくりと開く。

 廊下を忍び足で歩いてリビングに向かい、部屋の入口のところからこっそりと中を伺った。


 案の定、アリエスはベランダに出て、椅子に座っていた。


 私が見ている前では決してやらない姿である。

 私はそうしている時のアリエスが一番好きだったので、「いつでも自由にやってくれて構わない」と言っているのだが、彼女は微かに笑うだけで私の前で積極的にやろうとはしなかった。

 今日のようなイレギュラーな状況でしか見ることの出来ない、彼女の素の一面。

 私は息を殺してアリエスを見つめた。

 彼女は普段着である白いTシャツにベージュのスカートを着ている。

 エプロンだけが鮮やかな赤で、逆にそれが色白の素肌を引き立てていた。

 両の素足を大きめのたらいに入れて、いつもは頭の後ろでまとめている緑色の髪を解いて風に流されるままにしている。

 このマンションは南向きなので、この時間アリエスが太陽の登るほうを向いて座ると、私からは彼女の左の横顔が見えるようになる。

 彼女はまるで歌っているかのように口を開いており、しかしながらその歌声は聞こえなかった。

 驚くほど黒目の大きい瞳が、陽光を反射して輝いているように見える。

 なるほど『天使』という呼び名が相応しい姿だ。


 私はそのまましばらく、放心したように彼女を見つめていたらしい。


 息遣いで察したアリエスは、ゆっくりと口を閉じると、その大きな瞳を私に向けて言った。

「お早うございます、御主人様。急いでお食事の準備を致します」

 椅子から立ち上がろうとする彼女を、私は慌てて止めようとした。

「待って、アリエス。君のほうの食事は終わったのかい? それで充分なのかい?」

「はい、何も問題はございません。御主人様」

 アリエスは小さく笑うと、たらいから足を出して、椅子にかけてあった手ぬぐいで拭きだした。

 足先を拭くためにかがむと、今までベージュのスカートと赤いエプロンで隠されていた太ももまで露わになる。

 その肌の目が痛くなるような白さと、さらにその奥にある吸い込まれそうな暗がりに、私はどきりとした。


「我慢なさらないで下さい、御主人様」


 アリエスの声が、私の心を見透かしたように響く。

「いや、その……」

 私がどうやって言い訳しようかと慌てふためいていると、

「お腹が空いている時は正直に仰ってくださいね」

 と言いながら、アリエスは手ぬぐいを左手に下げた恰好で、キッチンに向かって歩き始めた。

 フロアの上を進む素足は殆ど音を立てない。

 それもそのはずで、彼女は私の肩までの身長だったが、体重は見た目よりも遥かに軽かった。

「先にコーヒーをお飲みになりますか?」

「あ、ああ、お願いするよ」

「畏まりました」

 私はコーヒーというアンティークな飲み物が好きで、辺境惑星の小さな農園で細々と受け継がれてきたそれを、ちょっとだけ無理をして購入していた。

 カフェインは健康に悪いから野蛮だ――そんな風に過去の恋人達からは眉を潜められたが、アリエスは決してそんな顔を見せたことがない。

「今朝は少し濃い目のほうが宜しいですか?」

 と、長い髪を頭の後ろでまとめながら、その日の気分を聞いてくれる。

 そこで私は先程の疑問を思い出した。

「コーヒーは濃い目でお願いするよ。それで、あのさアリエス」

「はい、なんでしょうか」

「今朝、どうしていつもの時間に起こしてくれなかったんだい?」


 それを聞いたアリエスの手が、一瞬止まった。


「何か問題でもありましたでしょうか?」

 そう言って表情を曇らせたアリエスに、私は笑って言った。

「違うんだよ。いつもならば必ず起こしてくれるアリエスが、今日に限って起こしてくれなかったのが不思議なんだ」

「ああ、そうでございますか。それでしたら御主人様が昨晩、『長く眠りたいな』と仰ったので、その通りにさせて頂いたのですが」

 そう言って、アリエスは小首を傾げる。

「ああ、そうか、私がそう頼んだのか。それならばいいんだ」

 私は右手を振って話をそこで切る。

 アリエスはまた微笑むと、コーヒーの準備を始めた。

 私はその姿を見つめながら、別なことを考える。

 ――昨日、そんなことをアリエスに頼んだ覚えはないんだが。

 かなり疲れていたので、絶対に言わなかったという確信はないものの、明らかにそう言ったという確信もない。

 しかし、アリエスが私に嘘をつくはずもなかった。


 何故なら彼女は『天使』なのだから。

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