小説を書くため準備体操

もじょ

第1話

 最近のぼくを、ぼくという人間を、誰にも言えないぼくを、痛々しいぼくが話す痛々しい青年期の葛藤を、誰か言葉にして教えて欲しい。創作の世界は自由、自由であれば創作を通して人に相談するのも自由。ネットに文章を投稿するサイトの作品を一度も見たことがないし、見ようとも思わないおこがましいやつが、さらにおこがましく、自らの悩みを創作する。自由という言葉は、本当にずるくて便利だ。便利なものを使わないのは、おこがましい。おこがましいの意味は説明できない。

 胸の奥に何かが引っかかって毎日体が重い。倉庫整理のアルバイトをしていた時、重い荷物を持ち上げる仕事をしたけれど、それと同等、あるいはそれ以上の重量がある気がする。ぼくの体重は五十一キロ。重力だの、力の作用だの、ニュートンだの、地球だの、宇宙だの、高校の物理の授業をろくに受けたないぼくは、重さについてはあまり知らない。ぬいぐるみを手に取ったり、食器を運んだり、リュックを背負ったりすれば重さは感じるけれど、それが何キロだとかは想像もしたことがない。人は無意識に重さを感じて、受け入れて、運んでどこかに置く。無意識、無自覚、無関心。重さ、というのは特殊な職業についていなければ考えないのかもしれない。ダイエットとかは除くけど。

 話に一貫性がなくて周りくどい会話しかできないぼくは、今こうしてパソコンのキーボードを叩いて文字を打っていても、何を言おうとしたか忘れている。蝉の鳴き声、じめっとした空気、親のいない家、キーボードを叩く音、カラスの鳴き声、なんだか憂鬱になるものばかりだと感じながら、椅子に座っている。憂鬱と感じてしまうのはどうしてなのだろう。気が重いと感じるのは、、、、そう体重、重いで重い出した、違う。思い出した。体重の話、何が言いたかったかというと、気が重いのと体重は「重」という漢字を使っているのに、意味合いが異なるということだった。体重は体重計にのればすぐにわかるけど、気が重いの重さは機械では測れない。いっそ今のあなたの気の重さは三十キロです、五キロです、五万トンです、とか出してくれれば生きやすい世の中になるのかも。平均の気の重さなんてものが出されれば、生きにくい世の中になる。 

 ここまで自分で独り言を書いていて思うことは、言葉遣いも言い回しも話の内容も、どれもバラバラだということ。綺麗にまとめたり、嚙み砕いて説明したり、誰が見ても面白く泣いて笑って喜んで怒ってまた泣いて、みたいなことは書けないし、書くつもりもない。こんな話さっきも書いた。自分で読み返すのも面倒だし、改行とか誤字とか気にすること自体気が重い。そう、気が重いの話をしたかった。気が重い、気持ちが重い、気持ち、心。

 ぼくは心というものにピンとくるものがない。漫画で言う、頭の電球に光がつくような、、、余計な例えは止めておこう。話を逸らして退屈したくない。何も考えずに文を打つのであれば、無理な話だとも思うけどなるべく回数は減らしたい。なるべくね。そう。気持ちは心にあるのだとしたら、気が重いのではなく、心が重い、という言い方が正しいのかもしれない。心は測定できないので、重いという漢字は使えない。ぼくの中では重い、は数値であって心とは無関係だ。だとすれば重いではなく、想い、心が想い。想いすぎて思い。思ひ。思い、想い、重い、漢字というのは難しい。結局答えはでなかった。個人の見解をお忘れなく。

 体が重い、心が想い。外に出る事が少ないぼくは肉体的に疲れるということはないので、おそらく精神的に重くならざる負えない想いがあるのだと思う。じゃあそれは何? 自分でも分からないが、分かる気もする。曖昧なぼくを許して欲しい。そんな事を打っていたら面白い事を思いついたので、冒頭に付け加えておこう。気まぐれだ。心まぐれだ。どうせすぐに消える。そしてたった今、スマホの通知音がなったのでパソコン画面から少しの間目を逸らしてしまった。おはよう、今日はお昼にラーメンを食べたので元気もりもりです、頑張れそう、可愛い絵文字とセットで書かれている。書かれていた。その文を読んだだけで気が、心が軽くなる。相手は女性、女の子、ぼくは男の子。やっと本題に入れる。男女、恋についてみんなで話したい。最近の小学生でも話せるであろう議題を、ニ十歳のぼくにわかりやすく教えるという任務を与えたい。ロマンあふれる任務だと思わない? 思わないのであればぼくと間反対の人間だ。ちなみに、昨日はスパイダーマンを見てきた。

 恋について教えて欲しい。恋だ。来いと呼べるものでもないし、濃いわけでもない、鯉に恋は関係ない。同じ発音なのに無関係、心の恋。恋煩い。煩わしい気持ち。

 ニ十歳にして恋がわからない。痛いやつだ、悲しいやつだ、つまらないやつだ。五人の女性とお付き合いをしたのにも関らず、贅沢にもほどがある。けれど本当だ。本当に分からない。わからないという言葉を何度も使ってしまうほどわからない。

 恋とはなんなのだろう。特定の人と一緒に居る事? 手を繋ぎたいと思うこと? キスしたいとかセックスしたいとか、そんな気持ち? だとすればぼくは誰にもその気持ちを抱いたことがない。人並みに体験はしたけれど、相手がしたいと言ってきたからしただけ。受け身ってやつだと思う。やってもいいけど、やろうとも思わない、みたいな感覚だ。恋はゲームを起動するのと同等な感覚なのだろうか?

 恋とはなんなのだろう。その人の声が聞きたい? ふとした時に会いたい? 小さな話をしたくなるとか、そんな気持ち? だとすればぼくは親友にも同じ気持ちを抱く。六年の付き合いの彼に、些細なことでも話したい感情が湧く。同性だ、仲間だ、友だ。ぼくはそっちではない。それに人に会いたいという気持ちを余り持たない。疲れてしまう、外の世界は学校だけで十分だと思ってしまう。小さな話は家族にでもできる。だとすれば、恋は友達や家族と同等の存在なのだろうか?

 恋とはなんなのだろう。一目惚れ? 性格惚れ? お金惚れだとか、そんな気持ち? これは気持ちとは言わないか。惚れるってそもそも何。好きになるってそもそも何。可愛い人を見たら可愛いと思うし、綺麗な人を見たら綺麗だとも思う。性格が素敵な人がいたら素敵だと思うし、お金をたくさん持っていたらお金持ちだなと思う。普通だ、当然だ。そこから別の感情を抱くことはない。だとすれば、恋は肩書きで汚い。だろうか? を使いたくもないほど、醜くて輝かしい。

 わからない。好きと言われてから好きになることしかなかったぼくは、恋が理解できなくて今も苦しい。返信を見て落ち着くのは、自分の送ったメッセージの反応が気になるから。電話したいなって思うのは、その子が嬉しそうに何かを話していて、聞いていると気分がよくなるから。友達にも同じことを思うはずだ。なのに、重い。その子のことを考えると想いが重くなる。

 恋、について考えてもらう間に自分の嫌いなことを話そう。こんな閑話休題は聞いたことがない。ぼくも初めてだ。だからこそ、やってみる。何事もチャレンジが大事らしい。なら、自己嫌悪アピールもその一つ。成功すれば、嫌悪を越えた何かが得られるかも。恐ろしい。  

 自己嫌悪、漢字だけでよくないものとわかる。自分が嫌いで悪いのだ。自己嫌悪という漢字をみただけで自己嫌悪になりそうなほど暗い。自分で嫌悪している部分、人と趣味を共有しない、自分の世界だけで楽しむ、共感とかくそくらえ。同じ気持ちの人はいるはずがないのに、どうして共に感じ、共に有することができるのだろう。十人いたら十人違う考えを聞きたい。自己嫌悪について話そうとしたら共感嫌悪の話にすり替わりそうになったので、戻すとしよう。自分の悪いところ、恋がわからないところ。

 正直、思い付きで書き始めたこの痛々しい自分語りの創作は、もう飽きてきた。ぼくのピークは、創作は自由、だとか書いていたあたりだ。序盤だ。離陸できない飛行機状態でも、エンジンは切れるので安心してほしい。恋と一緒だ。ぼくの恋は着地地点を探している。

 また気が向いたら書こうと思う。それまでみんなの恋を教えて欲しい。共感嫌悪も直したい。

 最後に言いたいこと。これは創作で、創作は自由で、恋も自由だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小説を書くため準備体操 もじょ @MoJoJoJo0917

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ