Down, down, down. Would the fall never come to an end?

 ……落ちる、落ちる、落ちていく。ゆうらりゆうらりとクラゲみたいに揺れ動きながらゆっくりと下に向かって落ちていく私の影を、真珠のような白い壁に貼りつけられた窓の絵画からとめどなくさらさらと溢れる茜色の夕陽の灯りがぼんやりと眺めていた。どこまでも続く廊下の小道はまるで終わりのない迷宮のよう。ウミヘビのお腹の中みたいな一本道のその奥を見上げてみれば、オレンジ色の靄のベールがかかっていて深海のような暗闇に包まれている。ちかちかと明滅する蛍光灯が地上の星みたいにきらきらと輝いて、それはまるで夜空を流れる大きな天の川みたい。真っ白な廊下の壁には無数の絵画やどこのものともしれない地図が何枚も額に入れられていて、描かれている人物たちが紙の上で生き生きと動き回っている。こぽこぽと唇の端から零れ落ちる小さな泡のタマゴたちはふうわりと流される金糸を伝って上へ上へと流されていった。ぷよぷよしたその球体はさながら色とりどりのゼリービーンズのよう。私が落ちながらじいっとその行方を見つめていると、ゼラチンの球体の表面にぴしぴしと小さな亀裂が入り、それは木の枝にひっそりと蜘蛛の巣が伸びていくように次第にするすると広がっていく。やがて透き通った殻が内からぱちんと風船のように膨らみ弾けて、中から小さな魚がぴょこんと勢いよく飛び出した。その色はブラン・マンジェみたいに白く透けている。高級なシルクのようなヒレのドレスをふわりふわりと翻して優美なダンスを踊る姿は、おとぎ話のお姫様みたいでとってもきれい。彼女たちは私の周りをからかうようにくるくる回りながら年若い乙女みたいにクスクスと笑った。


 ”un deux trois. un deux trois. un deux trois.……”


 ちかちかと明滅するホタルイカのシャンデリアの下、魚によく似たお顔の紳士が水かきのついた指でヴァイオリンをかき鳴らし、タコ頭の醜い令嬢が首の下に伸びる無数の触手で鍵盤を叩く。タキシードスーツを整えたタツノオトシゴのフルートの紡ぐメフィスト・ワルツの旋律が水の中をトビウオのように響き渡っていった。次々と生まれてくる音色のオタマジャクシがソプラノの美しい声で歌いながらぴょんぴょんと跳ねて踊り狂っている。子供みたいにはしゃぐそれらを目で追いかけていると、三つ指の前足が生え、がに股の足ができあがって、身体が大きくなっていった。オオカミみたいに大きな口を左右に広げてぎょろぎょろと目玉をころがすのは、でっぷり太った大きな大きなヒキガエル。カエルたちはぷくうっと風船みたいに膨れ上がって、ぴかぴかと煌めきながら廊下をふかふかと落ちていった。濁ったガラス球を通しているかのようにぐにゃりと歪んだ音楽に、どこからか響くおぞましくも可憐な歌声がぐるりぐるりと混ざり合い、薄気味の悪いマーブル模様に染まっていく。歌声は廊下の壁に銀製の留め金でひっかけられたエッティの『セイレーンたちとユリシーズ』から奏でられていた。きれいな裸のセイレーンの女の子がユリシーズたちを差し置いて、私の顔の方を向いて蠱惑的に手招きしている。思わずふらふらと彼女らのところへと近づくと、頭がとろとろするような花の甘い香りとフルーツにも似た死体の腐臭がふわりと鼻孔に漂った。その絵の正面ではミレーの『オフィーリア』が波間に揺られてゆらゆらと遊ばれている。彼女の蝋のように青白い肌が夕焼けのランプに照らされて鮮やかなオレンジ色に揺らめいた。水面に浮かぶ編まれた花輪の赤いケシの花びらが私の下まで流れてくる。きれいな赤だなあ。私は漠然とそう思って、ケシの花を手に取ろうと右手を伸ばした。けれど、それは指と指の隙間からするりとすり抜けて小魚みたいに水の中を逃げていく。花びらから散らばった鮮烈な赤色が水にインクをぽとりと垂らしたかのようにぶわあっと広がって、夕焼けの茜色を赤く、より赤く塗りつぶしていった。さっきまでは優しくふうわりと包み込んでくれていた水の柔らかな手のひらが、今ははっきりとした悪意を持って私の身体をイソギンチャクみたいに締め付ける。深い皴の刻まれた触腕はペンキのようにどろりとしていて、深く沈みこむ錨みたいにずっしりと重たい。私の喉の奥底からごぼごぼとまんまるの赤い泡が溢れ出る。首を縄でぎゅうぎゅう絞めつけられているかのように息苦しい、けれどそれがどうしてだかぞくぞくするほど心地よかった。肌にとろける強烈な鉄臭い香りに、頭の奥の小さな部屋が地震みたいにくらくらと揺れる。私はのしかかってくる赤色の重みに逆らって手を伸ばした。あとちょっと、あとちょっと。あとちょっとで扉の取っ手に手が届くのに。あと少し、あとほんの少し。指先が触れて、触れて、けれど、重みに堪えきれず私の意識が圧し潰すような暴力的な赤色に溶けていく。カチ、カチ、カチ、カチ。電気のスイッチを消したみたいに暗く閉じていく瞼の裏側には、壊れかけた古いレコードのような途切れ途切れの文字がゆっくりと刻まれていく。


 ”Down, down, down. Would the fall never come to an end?”

 (下へ、下へ、もっと下へ。いつになったら終わりが訪れるのでしょう)


 あれ? 私は首をふくろうみたいにくるりと回した。あれあれ? 小難しい数学の式の書かれた大きな黒板を人差し指で指しながら話す先生の声が薄氷の壁の向こう側から響くかのように遠く聞こえる。その顔には目も、鼻も、口も見えない。ただ、ぼんやりとしたのっぺらぼうがネズミのような灰色のスーツを身にまとってそこに立っている。教室の席を埋めている学友たちはみんな彼の方を向いて、魔女の呟く呪文みたいに難解な言葉の羅列に向けて耳を傾けていた。砂浜みたいに白い日の光の差し込む窓際の、前から三番目の席から教室中を見渡すと、たったひとりだけ、教卓のふたつ前の席に座る女の子が目に留まる。カラスのように黒く、長くて艶のない髪の毛をだらりと垂らした気味の悪い女の子。ひっそりと俯いて猫みたいに丸まった背中はまるでハンプティダンプティの座るみすぼらしい腰掛けのよう。彼女が制服みたいに身体に纏う陰鬱の中にひとつだけ、黒髪の茂みを住処としている白いうさぎのヘアピンだけが私の目に眩く映りこんでいた。私はぽとりと自分のノートに目を落としてシャーペンの爪先を躍らせる。カリカリカリカリ。耳に届く静かなタップダンスの音が心地いい。ちっとも意味のわからない数学の公式なんて少しも目に入らなかった。私はただ、ひたすらに、ひたむきに0と1の間にある小さな自分だけの物語をつらつらと書き連ねていく。ふと、私はノートから顔を上げて、窓の外にふっと視線を投げかけた。桃色の鮮やかな縞模様の猫が一匹、窓の外にじいっと佇んでいる。全ての音が少しずつ遠のいていく中で、その猫の不気味な笑顔だけがまるで最後にちょっとだけ残ったバターのようにいつまでも、いつまでも、私の頭の奥底にガリガリとこびりついていた。

 ああ、そっか。白うさぎ。あのマシュマロみたいに小さくて、ふくふくかわいい白うさぎ。どこに行ったのかなあ。私はドーナツのような穴が開くほどじいっと見つめていたからっぽの小さなガラスの小瓶から目を離した。ウミウシみたいにすうっと透き通ったなだらかな曲面には『マーマレード』と書き殴られた古びたラベルが貼られている。まあ、中にはマーマレードどころかなんにも入っていなかったのだけれど。私が手に持った小瓶をぽいっと捨てると、それはぷくっと膨らんだりちょんと縮んだりしながらぷかぷかと水の中を漂い始めた。ふよふよと柔らかいガラスの身体に夕日の絵の具が窓の外から差し込んで玉虫色に染められていく。小瓶の海から飛び出してあちらこちらにぴょんぴょんと飛び跳ねる色鮮やかな光のイルカは一筋のきれいな直線を描きながら廊下の奥へと消えていった。そこはまるで夜がやってきたみたいにまっくらけ。こんばんは、素敵な黒いマントだね。私がにこにこと微笑みながら挨拶すると、こんばんは、かわいらしいお嬢さん、夜は黒いカンカン帽を軽くすっと上げて鷹揚に応えた。おお、かっこいいなあ。こういうのをナイスミドルっていうのかな。彼はそのまま大きなマントをばさっと開いて私をその広い胸の内へと招き寄せた。シロツメクサみたいに清廉な恥じらいの残る年頃の乙女としては男の誘いにほいほい乗っかるのには抵抗がないわけではないのだけれど、ああ、でもなあ、でもなあ、私、好きなんだよねえ、こういうかっこいいおじさん。ミルクみたいな乳臭さよりもコーヒーのような渋い魅力に弱いんだよねえ、私。ほうっと吐く私のため息が桜色の小さな泡となってぱちんと儚く消えていく。私はそのまま彼の冷たいマントの陰へと抗うことなく堕ちていった。どこまでも、どこまでも。くねくねと繰り返される胃袋の蠕動に、私の身体がロウソクの炎のようにゆらゆらと揺られる。視界が夜色に染まっていく中で、壁に生えた色とりどりの珊瑚の森だけがぼんやりと淡く光っていた。上下に生えた大きな珊瑚はまるでヘビの牙のよう。頬を優しく撫ぜる二股の舌のぬめっとした粘りけのある感触をくすぐったく思いながら、私はゆっくりと沈みを進めていく。いったいどこまで続いているのかな、この廊下。私は胸中でドキドキと暴れまわる衝動の鼓動に思わずにっこりと口角を上げる。私の青い瞳には廊下の奥に広がる重たい闇の帳ですらも清純なアクアマリンの輝きのようにも見えた。それはまるで宝物の眠る古代遺跡の洞窟を前にして冒険心を奮い立たせるインディアナ・ジョーンズ博士のような、あるいは胸を躍らせる物語の続きが気になって先へ先へと次のページをめくろうとする少女のような。私はわくわくしながら無数の文字と一緒に広大な物語のベッドの上にその身を横たえた。下へ、下へ、もっと下へ。いつになったら終わりが訪れるのでしょう。私は小さく口ずさみながらガラス瓶の底へと堕ちていく。ふと、自分の手を見ると、白い肌が風に曝された大理石みたいにぱらぱらと罅割れていた。手。髪。足。私の身体がほろほろと崩れ、バラバラの小さな小さな言葉となって胃液の海に溶けていく。そんな私を、大きな青い瞳がガラス瓶の外からじいっと見つめているのが見えた。

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ALICE 甘楽 @cliche

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