第48話 三成、行長の捕縛、秀家逃亡

 家康は大坂に向けて出発し、18日近江八幡、19日草津、20日大津へと足を運んでいた。この20日、中山道を急行していた秀忠軍はようやく草津に達したが、家康が秀忠に謁見したのは23日になってからであった。家康にとって関ヶ原の戦いに間に合わない事態は子ゆえに不快な出来事であった。


 19日には家康にとってよい知らせが届いた。残党狩の成果か、ついに小西行長を捕え、20日大津の家康の陣所まで送られてきたのである。


 その消息は「慶長年中卜斎記」に詳しい。

「際限もなき落人にて候。某は在所の年寄にて候へば、落人を剥取、侍を軽しめ申事あるべからず、大形にいたし候へと、在所の百姓共に下知仕り候、子細は本多上野介殿御舎弟備前中納言殿に御奉公、若し此人抔むざと賤しめ候はゞ、後日に在所の煩に罷りなるべきやと内存にて、落人強つれなくいたし候事、無用と申し候。近所の山にて、そこなる人来り候へと御申し候御方御座候、入らざる拙者へ御用と仰せられ候はんよりは、何方へなりとも、忍び御落ち候へと申しければ、是非共近く来り候へと、御申し候。逹ていらざる御事と申し候へども、必ず近く来り候へと頼み候はんと御申し候。近く参り何の御用と申しければ、吾は小西摂津守なり、内府へ連れて行き、褒美を取れと御申し候、沙汰の限り勿体なき御事、少しなりとも、早く落ちさせられ候へと申しければ、我等は自害するも易けれ共、根本吉利支丹なり、吉利支丹の法に自害はせずと様々仰せられ候。在所の百姓も聞き候まま、さらば御供申すべしとて、我宿へ御供申し、家康公様御本陣へ、小西殿を御供申すに、自然道にて、人に奪われ候ては如何あるべきと存じ、竹中丹後守殿家老を呼び、右の段々小西殿御前にて語り、丹後守家老と申し談じ、小西殿を地下の馬に乗せ申し、丹後守家老と某御供申し、草津へ参り、村越茂助殿御宿へ、小西殿御供申し、角と申し入れければ、此方へ通し候へと、人を御出し、小西殿を茂助殿旅宿へ入れ申し候。茂助殿似ても、さのみ騒ぎたる体もなく、いづれも用ケ間敷見え申し候、茂助殿旅亭にて、小西殿へ縄を掛け申し候。某と丹後守家老は、道中心易く御供申し候、縄抔御掛り候はんとは一円存ぜられず候。御褒美に黄金十枚下され候」


 つまり、林蔵主なる庄屋が小西を発見して小西が話があると言ったが、庄屋は落ちのびよと言ったが、さらに頼みごとがあるからと呼び、自分は小西行長であるから、家康の元へ連れて行けという。自分は吉利支丹であるがゆえに、自害できぬから、捕縛して差し出すようにというので、一旦自分の家に連れ帰り、まず竹中重門の家老に小西の件を伝え、家老は庄屋の家で、小西行長を確認し護送して草津の陣営まで送り届けたのである。


 21日ついに首謀者の三成が伊吹山中で捕まった。三成は6日間も伊吹山中をにげまどい、農民らによりかくまわれていたが、田中吉政の家中に三成に顔を見知っている者がいて、判明した。


 古橋村の与次郎太夫が山中にかくまっていたが、他の村人の知れることとなり、与次郎も隠し通せなくなった。三成は自分の運命が尽きたことを悟り、与次郎はここから逃げるように言ったが、三成はもう逃げ通せるほどの体力もないことを理由に、田中吉政に告げるよう注進した。与次郎からの訴えを聞いた義政は、野村伝左衛門を捕縛に向かわせた。三成の身なりは、衣服もボロボロであり、食糧もきらしており、樵の姿になって身を潜めていた。三成は伝左衛門の佐和山の消息を尋ねた。三成は父、兄、そして妻が死んだことを聞いて、「終わり申した」と一言だけポツリと言った。


 田中吉政に対面した際、「後悔はない」と言い、秀吉公より拝領した脇差切刃貞宗の名刀を進上した。


 23日には、京都六条に潜伏していた安国寺恵瓊が奥平信昌の手に捕まり、大津に護送されてきた。これで、三人が次々と捕えられて、家康のもとに届けられた。残るは、宇喜多秀家と長束正家だけとなった。


 家康としては、三人の首謀者が捕まれば十分であった。長束はその後切腹したが、宇喜多秀家は逃げおおせた。

 秀家は、進藤正次、黒田勘十郎に守られ、鎧を脱ぎ捨て身軽になり、馬をひろい乗りし、美濃の粕川の谷を越したところで日が暮れ、心労のあまり寝入ってしまった。朝になりさらに道を急いだが、やはり途中で、落人狩りの百姓らに取り囲まれた。その中に矢野五左衛門なる浪人がいたが、秀家をみて、尋常の落人ではないと見通して、他の落人狩りのために、秀家らの刀、脇差を差し出して、退散させた。五左衛門は、家の裏にある岩窟の中に秀家らを潜伏させた。

 秀家はそこで数日を過ごしたが、どうかしなければならない。秀家は正次に島津殿を追いかけて薩摩へいき、そこで旗を掲げようではないかと言った。そこで正次は一計を案じて、秀家に話した。そして話が終わると秀家から名刀国次を譲り受けた。


 正次はもう一人の勘十郎に言った。

「お主は、殿の行く末を水火の中まで見届けよ」

 そして、正次は立ち上がると、一路大阪に向かった。大阪に着くや本多正純に会い、主人秀家の消息を告げ、宇喜多伝来の名刀国次を差し出した。これにより、秀家は自害したことになったが、秀家はその後無事薩摩に渡り、数年後島津忠恒が秀家が存命であることを告げた。だが、死罪より罪は減じられ、八丈島に流罪となった。

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