第39話 大津城攻防
一方、関が原決戦を前に控え、琵琶湖南に位置する大津城では、西軍の猛攻が行われていた。京・大阪に通じる大津は交通の要衝でもあり、西軍としてはどうしても攻略しておかなければならなかった。大津城主京極高次は、佐々木高氏の後胤近江源氏として近江守護を世襲してきた名門であった。高次の夫人は、淀君の姉であり、高次の姉松の丸殿は秀吉の側室であった。まさに豊臣恩顧の大名であり、立場は微妙で最初は西軍に味方を表明していたようで、それが突然東軍に味方するようになり、それが爲にこの時期になって、大津城を攻略しなければならなくなった理由だった。
高次は江戸に人質として山田
ちょうどその頃、前田利家が越前に入るの報が西軍に達し、宇喜多秀家、毛利輝元は高次と朽木元綱とともに越前へ向かった。
高次は黒田伊予守や赤津伊豆守らに大津城を守るよう支持して、自らは兵二千を率いて発した。西軍は東と北との拠点として大津城を占拠しようとしたが、京極勢はそれを拒否した。
前田軍が金沢に帰還し、東軍が岐阜を攻め落としたのを耳にした高次だが、大谷吉継がちょうど美濃に向かうべく南進しており、吉継は高次に美濃に同道するよう支持した。
元綱と高次は互いに連携を取りながら南進したが、高次は急遽塩津に出て、垂水峠をこえ、海津より琵琶湖を渡り大津城に入ったのである。それが9月3日のことである。入るや、密使を井伊直政に派遣して、籠城の意志を固めた。
何故、突然西軍から東軍に鞍替えしたのか、真意は分らないが、家康との何らかの駆け引きが考えられた。
立花宗茂は大津城を監視していたが、大津城に高次が帰城し、反旗を翻したことを知り、大坂城の輝元に報告した。西軍も直ちに、毛利元康を主将とし、立花宗茂ら一万五千の兵で包囲し、とりあえず懐柔策に出たが、高次は抗戦を唱えた。
「高次殿、此度の戦いは秀頼公のもと、西軍が有利に進めており、家康が首はまもなくわが手中のものとなるのは必定。ましてや高次殿は豊臣家とは親戚筋にあたるお方。これでは主に弓を引くのと同様でござる。是非に心改めて、お味方をなされ」
「今は何も申しあげることはない。こころおきなく攻められよ」
「ならば致し方なし。遠慮なく攻めつかわそう」
元康は本陣を園城寺に定め、12日大津城を包囲した。城中に兵糧米の蓄えが多いのがわかり、力攻めにしたのである。外堀を埋め、園城寺背後の松を伐採して弓鉄砲の盾を作り、13日早暁を期して攻めた。しかし、そう簡単には落城しない。琵琶湖側からも船を以て城壁に迫った。三の丸は落ち、二の丸は陥落寸前となった。城兵は討って出て一時は退けたが、大軍をもっている西軍は新手を投入し、夕暮れには二の丸も落ちた。次に、西軍がうった手は、大砲の登場であった。三井寺の観音堂前に据えつけられた大砲は、大津城へ大音響とともに放たれた。その音は周辺に殷々と響き渡った。
そして、何発かは天守に命中し、その一発は松の丸殿のいる部屋を直撃し、侍女二人が死亡するという騒ぎになった。淀君からもすぐに開城するよう督促があったが、まだ高次は踏ん張っていた。しかし、激しさを増す攻撃に神経をすり減らし、自刃をして責任を果たそうとしたが、高野山の木食上人の勧めにより、ついに開城を決意し、高野山へ入ることで大津城は西軍に手に落ちた。14日のことであり、まさに関が原の決戦を迎えようとした時だった。15日高次は園城寺に入り、髪を削って高野山へ向かった。
この15日は関ヶ原の決戦を迎えた日だった。西軍一万五千の兵が、関が原に布陣できなかったことは、後に大きな痛手だったことになる。特に勇猛果敢な猛将立花宗茂が関が原にいなかったことは、東軍にとって幸いとなったのである。宗茂は、秀吉をして「鎮西一の剛勇」と激賞された武将であり、実父高橋紹運、養父立花道雪に育てられ、宝のような武将となっていた。生涯一度も負けたことがないと言われた宗茂は、その力量から家康に「五〇万石を進呈する」と誘われたが、秀吉への恩義から西軍についたのである。
西軍が大垣城内で軍議にあたっている頃、南宮山麓に布陣していた吉川広家は密使を赤坂に陣を置いていた黒田長政のところに送っていた。
「殿、吉川広家殿からの火急の使者が参っておりますが、何やら是非に内府殿に広家殿からの密書をお渡し願いたいと申しておりますが」
「吉川殿からと、じきじきにその者と話そう。通せ」
吉川からの使者は、長政の元へ連れられ、広家の苦衷を述べた。そして、毛利一族は決して徳川軍との戦闘には日和見して参加しない旨を伝えた。それを聞いた長政は一存ではどうにもならず、福島正則と相談し、結果、吉川の使者を伴い、本陣の井伊直政と本多忠勝のもとへと参じた。井伊直政は内府に吉川広家が徳川家と刃を交わさない誓詞を差し出したことを報告し、内府もそれを条件に毛利家に対する誓書を吉川に渡すよう命じた。
「ようよう、この戦も先が見えてきたの」
家康は、吉川が戦闘に参加しないことを確認し安堵した。吉川が日和見を決めれば、長束正家、長宗我部盛親の軍も戦闘に参加できない公算が大きいからだ。
直政、忠勝二名連署の起請文をしたため、吉川広家宛てに送った。
起請文前書事
一、輝元に対し
一、御両人別して内府に対せられ、御忠節の上は、以来内府御如在存ぜられまじき事
一、御忠節
右の三ケ条両人請取り申し候事、若し偽り申すに於ては、忝くも
梵天帝釈、四大天王、惣じて日本国中大小神祇、
慶長五年九月十四日
本多中務大輔忠勝
井伊兵部少輔直政
吉川侍従殿
吉川広家はこのお墨付を頂戴して安堵の気持だった。これで、日和見を決めてもどちらからも咎められることはないからだ。もし万一家康が敗れることがあったら、その時は三成とともに東軍を蹴散らすだけだ。しかし、広家としては、自分が不戦を決め、小早川が裏切れば、西軍に勝ち目は絶対ありえないと信じていた。
合戦前の謀略の所業はお互いに手を尽していた。あとは、お互いその結果がどうなるか、それは当日になってみないことにはわからなかった。結果から言えば、家康に分があったといえるであろうが、それは後の結果で在り、其の時はお互いにハラハラドキドキであったに違いない。
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