第40話 決戦の日

 闇に包まれていた関が原に夜明けが来ようとしていた。関が原、それが、古より東国より京への関であり、重要な地点としての天然の盆地であった。北に伊吹山系、西に笹尾山、天満山、西南に松尾山、東南に南宮山と東西一里、南北半里の盆地であり、山に囲まれた土地であった。いま、まさに限られた地形の中で、特に三成は当初予定していた矢作川から木曽川にかけての決戦ラインを大幅に後退した地勢で雌雄を決する一大決戦が行われようとしていた。ここが最後の防衛ラインであったわけだ。


 石田三成の軍の兵力は六千であり今でもいう午前1時頃関ヶ原に達し、それを二隊にわけ、一隊を小関村に置き北国街道を掌握し、他の一隊を三成自身が率いて北方の笹尾村に布陣し、堀を巡らして、青竹で二重の矢来を結び、島左近と蒲生郷舎が前衛を固めた。石田三成の陣旗は「大一大万大吉」馬印は「赤地に赤地に藤紋と三星」で、島左近の陣旗は「白地裾黒斜め分けに神号と柏紋」馬印は「白地の四半に丸に渡辺星紋」であった。


 石田隊の右隣には、織田信高、伊藤盛正、岸田忠氏、秀頼麾下の黄母衣衆二千が布陣し、北国街道をはさんだその右手の小池村には、島津隊千五百は午前4時頃に到着した。笹尾山より一町半ほどの所である。義弘と豊久がそれぞれ二段構え、四段の鋒矢の陣形で布陣していた。島津義弘の陣旗は「黒地に白の筆文字の十」で、馬印は「白地に黒の筆文字の十」。


 小西隊の四千は島津に続いて到着し、島津の右手、北天満山を背にして二段に構え、最多の兵力を誇る宇喜多隊一万七千は、初め石原峠にとしたが、改めて南天満山を背にして五段の陣構えで備えていた。小西行長の陣旗は「白地に紺の山道」馬印は「白地に朱の丸の紙袋」。宇喜多秀家の陣旗は「紺地に白の児文字」馬印は「金の傘に朱の暖簾」である。


 関が原の西南、山中村の藤川の台には、大谷吉継本隊六百、戸田重政、平塚為広ら千五百、その藤川の対岸には吉継の子吉勝二千五百と木下頼継一千が布陣して、中仙道を封鎖していた。大谷吉継の陣旗は「紺地に白の丸」で馬印は「総赤の吹貫」、その南松尾山の山麓には、脇坂安治、小川裕忠、朽木元綱、赤座直保ら四千二百が陣を構え、東軍というより、松尾山に陣を置く小早川秀秋の動向に備えていた。特に大谷吉継は主力を小早川隊の襲撃を防ぐような場所に移動し、異心の畏れの噂される秀秋に対して、備えるよう陣構えを行い、柵も設置させた。小早川隊は一万五千という大軍で松尾山に布陣していた。小早川秀秋の陣旗は「白地に黒の違い鎌」で馬印は「赤白二段の吹貫、赤熊の出し」である。


 南東の南宮山には、毛利秀元、吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親ら二万八千が陣をしき、いわば鉄壁の構えで、東軍を迎え討とうとしていた。吉川広家の陣旗は「赤地胴赤の旗に白の五七桐」で馬印は「婆々羅ばばら印」で、長宗我部盛親の陣旗は「地黄に石餅赤熊の招き」で馬印は「朱の三つ提灯」であった。


 しかし、南宮山の諸隊は東軍が赤坂より関ヶ原に移動していても、全く動く気配がなかったのが三成としては不可思議であった。大垣から移動中、馬を飛ばして陣中に赴き、広家、恵瓊らと少し軍議を交わして、とく至りて狼煙をあげた際には、背後側面より東軍を邀撃するとの約束をしていたのだが、陣も移動させず、其の準備を整えている報せは、全くなかったのである。三成は疑心にならざるを得なかった。


 対する東軍、徳川勢は福島正則隊を左翼に、黒田長政隊を右翼に配して進撃、霧に覆われた関が原の中で、福島隊の先頭が宇喜多隊の小荷駄隊と接触して、前進を中止して戦闘態勢の陣形に移行をはじめた。福島正則の陣旗は「黒地に山道赤の招き」で馬印が「銀の捻り芭蕉」、黒田長政の陣旗は「紺地に白の黒田藤巴」馬印は「総白大吹貫」。黒田隊と福島隊の間に、北から細川忠興率いる五千(陣旗「白地に九曜」馬印「白地大四半に有文字」)、加藤嘉明率いる三千(陣旗「白地に黒の十文字」馬印「黒の二段鳥毛丸」)、筒井定次二千八百五十、田中吉政三千、松平忠吉三千、井伊直政三千六百(陣旗「総赤八幡大菩薩の招き」馬印「金の蝿取」)が横一列に並んで、石田、島津、小西隊に臨んだ。


 福島隊の背後には、藤堂高虎二千五百(陣旗「紺地に白餅」馬印「総赤の吹貫鳥毛の出し」)、京極高知三千がおり、その後方には軍監本多忠勝隊(陣旗「白地胴黒に本文字」馬印「黒の二段鳥毛丸」)、織田有楽隊、古田隊が十九女ケ池周辺に布陣し、総大将家康(陣旗は「厭離穢土欣求浄土おんりえどごんぐじょうど」馬印は「金の開扇」)は南宮山の北麓に連なる桃配山に本陣を置き、三万の直参旗本が在陣していた。ほかに、南宮山に布陣している西軍の毛利勢に対する備えとして、山内一豊(陣旗「黒地胴白に土佐柏」馬印「黒地の四方旗に地抜き石餅に無文字」)、有馬豊氏、浅野幸長(陣旗「白地に黒の三引両」馬印「総金の突き出し」)、池田輝政(陣旗「裾白の旗に白黒段々」馬印「総白の吹貫」)らの一万五千を配していた。


 夜来からの雨で夜明けごろは霧が濃く、西軍をおう福島隊は一時宇喜多隊の後備と入り乱れる混乱が起きたが、何も見えない状況ではと、福島隊は一旦進軍を止めて戦列をまとめ、陣構えに入ったほどの、最前線の戦線はわからぬ状況だった。


 両軍は、霧に包まれた関が原で動けぬまましばらく対峙する格好となった。へたに動いても、前後左右敵か味方は分らない状況では、混乱するばかりであり、ここは霧が晴れてくるのを待つしかなかった。当時、家康の陣所にいた侍医板坂ト斎は、日記に十五間先(27メートル程)が見えない程の濃い霧で、たまに霧がうすくなり五十間、百間先が見えることもあり敵の旗が見え隠れするが、また霧がこくなり見えなくなる、状況だった。


 東軍の福島隊は、家康から先陣の仰せを賜り、最後の決戦の時もその時を待ち望んでいた。しかし、家康の直臣の中には、それをよく思わない武将たちもいた。


「のう、平八郎。このまま豊臣恩顧の大名らが手柄をたてて勝鬨をあげたらな、われら徳川の直臣は末代まで腰抜けといわれかれぬわ。ここは一つ抜け駆けいたし、功名を立てようではないか」

と井伊直政は、本多忠勝に言った。


「万千代よ。よう言うた。徳川の戦は、われら譜代が先陣を勤めねば話にならぬ。豊臣恩顧の大名などの手柄をとられたとあっては、我らの天下への示しがつき申さん」

「しかし、血気さかんな正則を差し置いて先陣をきらば、奴は何をしでかすかわからぬぞ」

「それでじゃ。ここは松平忠吉殿の後見人ということで、わしがお供をして先陣の時に側におり、いざというときに、抜け駆けいたそうと思うておる」

「さもあらば、正則とて口も出せまい」


 日が上り始め、霧も徐々に薄れ掛けてきた。現在の時で午前八時ごろである。井伊直政は松平忠吉を先頭にして、数十騎の少数で、福島隊の横を通り、最前線へ出ようとしていた。井伊隊といえば、徳川の赤備えの軍装で天下に知られ、薄れゆく霧の中でもはっきりとその存在ははっきりと判別がついた。それが、一番槍を狙う福島隊が気づかぬはずはなかった。特に血気にはやる可児才蔵は、追い越そうとしている隊列の前方に躍り出て行進を阻止した。


「いやいや、今日の先鋒は左衛門大夫が受けたまわってござる!誰とあれ、この先へは通すわけにはまいらぬ。抜け駆けは不承知!」


「何を小癪な。このお方はな」

直政は、部下が言うを制して自ら才蔵に向けて言った。


「井伊直政でござる。下野公とともに物見中である。下野公は御初陣ゆえ、先隊へ行き敵合わせの激しき形勢、戦の始まりの見物であり、全て後学のために望むものにて、決して合戦をしようとして前へ出ようとしたのではござらぬ。許されよ」


 直政は堂々と虚言を吐いて、通りぬけようとした。徳川四天王にこう言われては、才蔵としても、それ以上追及せず、そのまま通してしまった。直政はしてやったりと、馬上で微笑していた。


(正則めの地団駄踏む姿が見えるわ)


 井伊隊は最前線に躍り出た格好となった。霧も徐々に薄れ、前方の宇喜多隊の旗印である黒地に餅三つが翻っている。


「鉄砲隊前へ!」

直政は隊列を整え、鉄砲隊を前面に出して、射撃体勢をとるよう命じた。

「放てッ!」

ダ、ダーン!

「今の音はなんじゃ!鉄砲の音ではないか?」

陣中で今戦いの火蓋を切ろうとしていた矢先に聞いた鉄砲を放つ音に苛立ちを感じた福島正則は、側にいる小姓に聞いた。


「宇喜多が攻めてまいったか」

「申し上げます!」

「うん、攻めてきたか」

「只今の鉄砲は、井伊直政殿が先鋒に出て、放ったものでございます」

「何と!直政が放ったと。抜け駆けとは。・・直ちに出陣じゃ。鉄砲隊を繰り出せ」

「はっ」


出陣の合図が陣中に鳴り響いた。

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