第37話 上杉対伊達・最上

 いよいよ関が原決戦の時を迎えようとしていたが、遠国の地会津の上杉の動きはどうだったのだろうか。上杉景勝、直江兼続と伊達、最上はどのような戦いを展開していたのであろうか。


 上杉景勝は120万石の領地を有し、動員兵力は七万にも達すると見られていた。だが、北の領界は伊達政宗と最上義光の親徳川派と接しており、反徳川派の常陸の佐竹義宣との同盟を結んで、南面での結束を固め、伊達・最上連合軍との戦闘をも考えねばならなかった。これは、上杉といえども苦しい戦いが考えられた。


 しかし、徳川勢が三成挙兵により、大挙西上してしまった今、その戦略の見直しを図らねばならなかった。当初、伊達正宗は旧領回復を図るために、白石城を攻略してしまった。


 徳川派も要請により山形に南部勢、秋田勢、所沢勢など一万を越える軍勢が集結していた。


 西軍とても、攻撃を控えて戦略の見直しを考えねばならない状況となった。お互い、作戦が狂ってしまったのである。景勝とて三成が呼応して挙兵するとは聞いていたものの、これほど早急に挙兵するとは考えもしなかった。あと、もう一週間ほど待ってくれれば、徳川軍も陣中にて混乱をきたし、撃破することも可能だったろうに、無傷で西上することは、大きな誤算であった。それは、伊達政宗の思いも同じだった。徳川が攻めれば、それをこちらも呼応して、旧領地奪還に向けて攻め込むだけで、手筈は整っていた。番狂わせであった。正宗は、井伊直政に書状をお送り、上杉討伐を続行するよう嘆願したが、その思いはならなかった。


 正宗とて単独では、上杉とは戦うことは自滅するようなことで、当然講和を考えた。上杉景勝も当初は白石城を奪取され、敵愾心に燃えていたが、兼続の説得により、講和を結ぶ考えを受け入れた。


「殿、正宗は許しがたい者なれど、決してあなどれない武将でござる。ここは、正宗と和を結んで後顧の憂いを断ち、最上攻略に全力を尽すべしと存ずる」

「兼続、余は正宗が許せぬ。だが、ここは言うとおりに最上攻略にあたろうと思う。正宗との一戦はそれからでも遅くはない。最上は内府と手を結んでわが領地を奪い取ろうと画策するも、徳川勢が一転西上に及ぶと、心を返すように和を結びたいと請うてきた。義光殿に会津に参られるよう催促しても、何も言うてはこない」

「御意。書状にては、人質は差し出し、どこなりとも出陣いたすとありますが、義光殿は一向に動く気配はなし。もってこの会津に挨拶にまかりこすことはありますまい」

「兼続、最上攻略の段しかと頼むぞ。迅速こそが肝心ぞ」

「はっ、必ずや成し遂げてみせまする」

「それはと、佐竹からは何も連絡はないか?」

「はっ、いまだに。おそらくは、佐竹殿も三成挙兵を聞き、動静を伺う覚悟でございましょう。その上で動きを決めるでありましょう」

「義宣殿ならさもあろう。今一度、上杉は最上へ侵攻するゆえ、いざというときは、お力添えを頼みますと使者を遣わせよ」

「はっ」


 兼続は義光が米沢城へ来る期限を7日と通告し、これを過ぎれば自動的に最上攻略の開始であった。当然義光は来るはずもなく、山形城に至る支城の城主に対して、防備を固め死守を命ずると共に、上山城主里見越後守に対しては、援軍を派遣した。上山城を失えば、山形城はもう目前だったからだ。


 8日払暁、兼続は諸将を集め軍議を開き、攻め口の確認をとった。

「水原殿、色部殿、春日殿、上泉殿は、主力として米沢より北上し、小滝口より畑谷城、長谷堂城を攻め落とし、山形城へと進みまする。当然、ここは義光にとって重要な城ゆえ必死に守りましょう。激戦となることを心得ていただきたい。横田殿は、中山口より月岡城に向かい、長谷堂との交通を遮断していただきたい。あえて、攻めおとさなくとも、長谷堂が落ちれば、降伏するでありましょう。庄内よりは、志駄殿が遠路寒河江川沿いに進み、白岩城を攻めまする。これは敵の兵力を分散するが狙い。ただ、わが目標は山形城奪うことである」

「分り申した。いざ、わが上杉の強さ、とくとご覧入れようではないか。われら、一戦たりと負けたことはない。だが、家康でないのが、残念じゃが」

 上杉歴代の武将色部光長が豪快に答えた。

「いざ、出陣!」

「おう」


 9日早朝、会津を出発した直江軍は、約二万数千の兵が参加していた。一番隊は春日右衛門宗貞がで金銀の短冊をかけ、三千の兵を率いていた。二番手は五百川いおがわ縫殿弘春は銀の甲冑に鷺の蓑毛の母衣懸け、銀の中くりをさし、兵千五百を率いる。三番手は上泉主水憲村は朱の甲冑に金粉にて固めたる阿弥陀の後光の大立物をさし、同じく千五百を率いる。四番手に直江山城守兼続で唐革包の鎧に、馬藺ばりんかぶとを着て、山鳥の母衣かけ、黒栗毛馬の太く逞しきに梨地の鞍置きて乗り、八千の兵を率いていた。五番手色部長門以下兵二千、更に一万千五百が続く。前田慶次郎の姿は派手で、黒具足に猿の皮の投頭巾を被り、猩々緋しょうじょうひ(深紅色)の広袖の羽織、背中に金の切裂にて曳両筋は縫付け、金のいらたかの大数珠を頭にあげ、数珠の緒留には金のひょうたんを付けたり、河原毛の馬の七寸計りなるを野髪にして、銀の頭巾をかぶせ、朝鮮鞍をかけていた。


 また、横田隊は四千の兵を率いて中山口へと進み、庄内からは、志駄義秀と下治吉忠らの兵三千が六十里の道のりを越えて進んでいた。一方最上義光は全兵力をあわせても一万二千足らずであり、山形本城の守備兵も三千であった。頼むは、要害の地に築かれた城であり、その城兵が天然の要害を利して、できるだけ長く戦ってくれることを願うだけであった。であれば、援兵を乞うている伊達殿からの援軍があるかも知れぬし、ひいては徳川軍が再び北上してくるかもしれないのだ。


 兼続は、主力部隊を率いて米沢城を出発した。米沢から山形へは羽州街道が通じているが、兼続はこの道は使わず、山地を縫って進む狐越街道を選んで進んだ。この道はけもの道程度の道であり、通行は難渋するが、距離的には最短経路の道筋であり、短期決戦を望む兼続にとっては、重要な進撃路だった。


 上杉軍の目指す最初の城は楯山という山を利して築造された標高519mにある畑谷城であった。楯山は鵜川をせき止めて造ったという湖沼に囲まれており、天然の要害であった。守る城兵は江口五兵衛以下三百名であった。天然の要害といえども、その価値は攻め側が攻めあぐねている間に後詰が側面より攻撃撃破することであり、籠城するには、それなりの兵と食糧と長期戦略がなくては、全滅落城するしかない。ましてや、上杉軍は六十数倍の圧倒的戦力差である。これでは勝ち目は到底ない。数日持ちこたえてくれればよいという見殺し的な楯でしかない。


 兼続は最初、畑谷城に構わず、長谷堂に直接向かうつもりであったが、先を行く春日右衛門が畑谷城より内通する者ありとの知らせがあり、畑谷城を攻めることに決し、城を取り囲んだ。兼続も畑谷城は山城としては要害の地にあるので、見逃すことが最善と考えていたが、内応する者があれば、行きがけの駄賃よろしく攻略すれば、味方の士気も上がることと考えたのである。


 しかし、内応はなく激戦となった。

 最上義光は、江口に対し城を捨てて、山形に来たれと使者を遣わしたが、江口は従わず、言うには、敵が旗を見ずして退くは、味方の士気に関わり申すので、断じて退かぬ、一手の後、山形に参るとしたが、結局は潔い最期を遂げたのである。


 兼続は、南に位置する片倉山に本陣を置いて、色部光長を先鋒として攻撃をかけて、城の防備を見据えた。江口は数カ所に伏兵を潜ませ、弓矢をもって先鋒を射った。兼続は城兵の数を多くて五百と踏んでいた。敵も最初が肝心と思うたか、必死の防戦で、軽く見ていた色部隊は予想以上の損害を受けた。


「引けぃー」

 一旦退いた色部隊を待つかのように、兼続が用意していた鉄砲隊は城内目がけて雨霰と注いだ。今回はかなりの鉄砲を用意してきたが、その約半数にあたる三〇〇挺を城の東方黒森山にあげて、城内への一斉射撃を試みた。これでは、城兵はたまらない。

「かかれー」

「ウォー」

 上杉軍全軍の一斉攻撃が始まり、春日右衛門、上泉主水、前田慶次郎も乱戦の中に突撃した。江口はもはや討死にするまでと郎党ともども手槍をさげて上杉軍へ切り込み、一時は押し戻したが、寡兵ではどうすることもできず、全員討死して果てた。わずか半日で畑谷城は落城した。上杉軍は350余の首級をあげた。


 14日、上杉軍は山形盆地に足を踏み入れ、盆地を南北に走る須川の西岸に布陣を完了した。めざす山形城はもう目と鼻の先にあった。

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