第29話 岐阜城陥落

 岐阜城は天嶮の要害であり、山城として濃尾平野を南に見下ろし、斎藤道三、織田信長の居城としての天下の名城として、天下に知られており、三成も東軍の大軍といえども、ある程度釘付けできると考えており、その間に攻撃に有利な態勢をつくればよいと考えていた。南側に稲羽山砦、瑞竜山砦があって、直接の侵入を防ぎ、北は長良川、東は山谷で囲まれた山城である。瑞龍寺砦から北側が城へ通じる七曲口であり、西から登る百曲と呼ばれる険しい登り口がある。


 城主は織田秀信であり、この天然の要害を活用して、東軍を苦しめてくれようと期待すること大であった。兵は、三成が増派して六千五百の兵が守っていた。そして、東軍がとまどっている間に、伊勢攻略の西軍主力と連携して、西軍を挟撃する作戦を構想していた。 


 もともと、秀信は家康の東下に従い、会津征伐に参与するつもりで準備をしていたが、準備に戸惑っている間に、三成の使者河瀬左馬助が大阪方への参陣と説くために来たのだった。河瀬は秀頼公のため、大阪方につくよう備前中納言、安芸中納言からの下知である。 


 勝利の暁には、尾張三河の2カ国を与える所存であると伝えた。秀信は一旦返事を保留し、家老を集めて合議を行った。


 木造具正はこう言った。

「このたびの治部の申し越しは、余儀なきことではありますが、ご同心されるのはいかがと存じます。なぜなら、殿は信長公のご嫡孫なるゆえ、天下を知ろしめても良いものを、秀吉のため、今は外様となり給うておられます。秀頼に対しなんら与する恩恵などございませぬ。これに対し内府は、信長公との同盟のよしみを忘れず、信雄殿のお味方をなされ、秀吉と合戦に及びました。これこそ当家を思えばこその事、その恩ある内府に敵対する事は道理として成り立ちませぬ」


 他に居た座する者はこの意見に賛同し、内府に付くべしと意見はまとまった。しかし、秀信はまだ擬する心があったので、側近の入江、伊達、高橋らを寝所に呼び寄せて、東西どちらに付くか意見を聞いた。


 入江右近がそれに答えた。

「内府が如何に比少ない名将といえ、東西に敵を受けては、如何ともし難きことでござります。ましてや尾濃2カ国の増封は決して少なからず。利害を考えれば、大阪に味方する事利でございます」

「右近殿の言う通りでございます」

と他の二人も同意した。


「太閤殿下の意志を継ぐ秀頼に対し粗略があっては天下の誹りを受けましょう。太閤殿下の武威はなお天下に続いております。近国の大名のみならず、西国の武将は馳せ参って内府を滅ぼすことになりましょう」

 秀信の心は決まった。翌朝、再び家老を集めて、存念を述べた。


「昨日は面々の申すところに承引したが、太閤殿下薨去後の今日、秀頼君に粗略はなり難い。よって大阪と約をなす。この上は諌は無用。ただ謀の得失を評定せよ」

 と申し渡した。驚いたのは家老である。


「左様であれば、徳善院の思慮を承り、その上にて再度評定仕りたく」

として、木造、百々の両人は早馬にて、京に上り、前田玄以に会った。玄以はもともと秀信の父信忠の家臣であり、信忠が本能寺の変にて戦死した際、信忠が秀信の後見を託したのが玄以だった。故に、玄以に意見を聞くために京に急いだのである。


 玄以に会って、大阪に付く所存を告げると、玄以は驚いてこう言った。

「理非の沙汰論するまでもない。中納言殿に内府殿に味方してご出陣されるよう申されい」この言葉に、二人はわが意を得たりとばかり喜び、岐阜に帰った。


 前田玄以は大阪方に身は置いて居たが、心は親家康派であったのだ。


 しかし、二人は岐阜へ帰る途中で、佐和山にて、三成の家臣に呼び止められ、

「ただ今、中納言殿がわが城へ参っております。お二方も立ち寄り申されよ」

 と城に案内された。これは、秀信が大阪方に与すると三成にとって吉報だった故、その盟約を固めるため、岐阜に使者を派遣して、佐和山へ招聘したからである。二人は落胆した。何のために奔走したのか。すでに遅しであった。


 岐阜に帰ってからも、諦めずにどうしたものか思案に暮れていた。飯沼十左衛門が策を献じてきた。


「ご家老、殿が佐和山にお越しました以上、関東へのご出陣はなり難しと存じます。しからば、大阪方にお味方するを幸い、石田治部を当城へ謀り寄せ申し、その節治部が首を討ち取り、内府にご注進あらば、佐和山へ赴いた事、内府の御不審あるまじくと存じます。されば、その際には治部が首、我輩に討ち取り仰せ付けられますよう、存念仕る」

「その手があったか!十左衛門、その際手柄をとらす」


木造は手を打って喜んだ。が、それを聞いた秀信は、

「治部との盟約は破れぬ。謀をもってころすなど許さぬ!」

 として、全く聞く耳を持たなかった。そんな紆余曲折を経て、徳川の大軍を迎えうつこととなったのである。


 犬山城には三成の婿に当たる石川貞清が、これまた稲葉貞通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らの援を受け、一千七百の兵で東軍に備えた。


 竹鼻城には、杉浦五左衛門、毛利掃部らが数百の兵が入り、岐阜を支える為にあった。


 福島と池田はそれぞれ先鋒の命を受けていたので、どちらが先か激論した。

政則は言った。

「戦の始まりは上流より開始すべからず、我ら下流を渉りて、烽火をあげてのちに、輝政殿の兵、河を渉るべし。ゆめゆめ違うべからず」

「委細承知仕る」

輝政ははっきりと答えていた。


 8月21日、田中吉政、中村一栄の兵が、羽黒付近まで進出し、犬山城への睨みを効かせた。


 清洲から二隊に分かれて、岐阜城へ兵を進めた。

下流より福島政則以下、細川忠興、加藤嘉明、黒田長政、藤堂高虎、京極高知、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀豊雄よとたけ、軍監の井伊直政と本田忠勝らおよそ一万六千、上流に向かうのは、池田輝政以下、浅野幸長、山内一豊、堀尾忠氏、有馬豊氏、一柳直盛、戸川逹安さとやすら、およそ一万八千であった。


 織田秀信は軍議の席で、木造具正きづくりともまさが籠城を主張したが、それを退け城から出ての野戦での決戦をのぞみ、自ら兵を率いて閻魔堂前川手村に陣を張った。佐藤方秀まさひで、木造具正、百々もも綱家、三成配下の河瀬左馬助ら三千二百人を新加納、米野に展開させ、銃隊を木曽川の対岸に派遣して竹鼻城を支援させた。


 木曽川上流に展開した池田輝政の軍は、22日払暁木曽川の対岸より銃砲火を受けた。まだ下流にお互いの攻撃の合図と決めてあった烽火が見えず、敵から銃撃を受けたのであるから、これを無にするわけもなく、戦端を開いた。まず、伊木忠政が兵を率いて川を渉り、一柳直盛、堀尾忠氏が続き、池田輝政、浅野幸長らが渉り、両軍の戦闘が始まったが、衆寡かなわず、秀信家臣の飯沼小勘平、武市善兵衛らが討死にし、織田軍は木曽川で防戦はもうできぬと退却に入った。秀信はこの報告を聞いて、城に戻ることを決意し、全軍退却を命じた。


 東軍はこれの機に乗じて追撃に入ったが、織田方は殿軍に力を注いで、防戦につとめ、東軍が一時退く間に、城に戻った。

 東軍は、夕闇が迫ってきたので、これ以上に攻撃は明日に備え、宿営に入った。


 一方、福島隊は、21日尾越の渡しを越えんと、木曽川の左岸に進んでいた。西軍は、毛利掃部、杉浦五右衛門らが竹鼻城を出て、柵を右岸に設けて、福島隊に発砲して、渡河を防ごうとした。


 福島正則は、近辺の舟を集めて夜陰にまぎれて密かに下流より川を渉った。毛利らはこの事を物見から聞き、後ろを絶たれることを恐れ、竹鼻城に戻った。22日福島勢は竹鼻城を攻めた。二の丸を守る毛利掃部は正則と旧知の間柄だったので、投降を勧告し、それに応じたが、本丸の杉浦五右衛門は投降に応ぜず、夕方まで激しく応戦し、最後は火をつけて自刃して果てた。本丸で残ったものは30人ばかりだったという。


 政則は、池田隊がすでに渡河したことを知らず、明日岐阜城攻めに向かうとしたが、夕闇せまる頃に至り、輝政より、自軍はすでに川を渉り、あとは岐阜城を攻めるばかりと聞き、先鋒争いの虚を突かれたと激怒し、直ちにその夜のうちに進発して、岐阜城近くまで進軍して夜明けを待った。


「東軍岐阜城を取り囲む」


の報せは、大垣城に入っていた三成へもたらされた。三成としては、一刻も早く後詰としての兵を集めて、岐阜城を攻める東軍に攻撃をして先鋒の撃破をやっておきたかった。そうすれば、明らかに有利な戦いを進めることができるからだ。


(秀信殿できるだけこらえてくれ)


 三成の心境はただ願うだけだった。しかし、運は東軍に向いていた。

 秀信は瑞竜寺山砦に河瀬左馬助、柏原彦右衛門を配し、稲葉山・権現山砦には松田重太夫を配し、惣門大手口には津田藤三郎を配し,水の手口には武藤助十郎を配して守りを固めていた。


 瑞竜寺山砦には浅野幸長隊、一柳直盛隊が攻め、稲葉山には井伊直政隊が攻め、大手口には福島正則隊、細川忠興隊、京極高知隊、加藤嘉明隊が攻め、水の手口には池田輝政隊が攻めたてた。惣門大手口は戦闘が始まるや瞬く間に攻め破られ、木造具正らの守る七曲口に向った。水の手口を攻めた池田隊も簡単に突破して二の丸へと進み、本丸へと戦闘は狭まっていった。


「殿、七曲口は敵の手に落ちましてございます。二の丸も持ちこたえますまい。まもなく本丸へと攻めましょう」


 秀信はあっけない落城を情けないと思ったが、戦う士気の東軍との差が、簡単に落城したものと憤慨していた。もはや切腹するしか道はないと感じていた。


「攻め登る旗印は誰ぞ」

「七曲口からは福島隊、二の丸からは池田隊とお見受けします」

「介錯いたせ」

「殿、なりませぬ。殿は十分お働き遊ばしました。三成へのこれ以上の忠義立ては必要ないと存じます。なにとぞ、ご開城遊ばされ、ご出家されてはいかがかと」

 その時、二の丸で奮戦していた斎藤吉三郎が報告にやってきた。

「殿、二の丸は落ちましてございます。池田公より、降伏の注進を聞き及び、急いで馳せ返りましてございます。半刻の時を与える。もし降伏の意思ないならば、総攻めにいたすと。もし、降伏すれば秀信殿、兵卒の命奪わぬとこと」

「うーん」


 秀信は少し考えたあげく、決断した。これ以上の戦闘は無駄であると。


「吉三郎、降伏いたすと伝えよ」

「はっ」

「皆に伝えよ。開城いたす」


 秀信は、本丸を出て山を降り、円徳寺に入り剃髪して出家し、その後高野山に入った。


 三成は岐阜城陥落の報告を聞き、愕然とした。まさか、天下の名城が一日で陥落するとは思いもよらないことであった。せめて、月末まで持ちこたえてくれれば、伊勢を攻略した主力部隊が到着し、東軍を撃破できたであろうに、全ての戦略が根底から狂ってしまったのである。また、犬山城の石川貞清は、家康に心を寄せており、東軍が西上した今、もはや家康に味方するとして、開城すると公言した。


 しかし、まだ本当の戦いはこれからだった。過ぎの戦略を考えなければならなった。とりあえず、三成は、近江瀬田付近に在陣していた熊谷直盛、垣見一直、相良頼房、秋月種長を大垣城に入城するよう命じた。次に狙うは要となる大垣城であろうし、ここを失うわけにはいかなかった。


 東軍の井伊、本多の両軍監は幸先良しとして、勝利を江戸にある家康に報告した。また、正則と輝政の先鋒先陣争いの一番乗りは、両軍監が調停に入り、両将が同時に岐阜城を陥落させた評定をくだし、功名争いを決着させたが、この功名争いは、結局は関ヶ原の本戦でも、その巧妙さを露見することになる。

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