第27話 田辺城攻防

 細川忠興の父幽斎は、田辺城にあって、忠興夫人の死、いわゆるガラシャ夫人の死を聞き、西軍が大阪を発して進軍中であるとのことを告げられ、宮津、久美などの城塞より兵士、武器を田辺に集めた。田辺城は、西鶴舞盆地のほぼ中央に位置し、東だけが田畠続きで、南は池内川と丹波川、更に女布川や高野川が合流して沼沢地をなしており、その諸河川が集まって西鶴舞に流入していた。守るに易く攻むるに難い地形に築かれた城であり、城兵は、細川軍の主力は家康に従い東下してしまっているので、わずか侍は50人ほど足軽雑兵を加えても五百人に過ぎなかったが、頼みはその地形であった。


 助けに加わったものの中には、同じ武人であり歌人の三刀谷孝和みとやこうわや桂林寺の僧大溪が僧兵を伴い参加していた。桂林寺は1401年に創建された曹洞宗の名刹である。


 大阪方の西軍は、小野木公郷きみさと以下、石川貞清、谷衛友もりとも、川勝秀氏、藤掛永勝、生駒正敏、前田茂勝、小出吉政、山崎家盛、杉原長房、別所吉治、毛利高政ら一万五千に達していた。


 大軍は7月21日には、城外にまで達していた。

 幽斎は天文3年(1543)に生まれ、元服して藤孝と名乗り、足利幕府13代将軍足利義輝に仕え、その後義昭のとき、義昭と信長の対立後、信長の臣下となる。本能寺の変の時、光秀の勧誘を断り、剃髪して幽斎玄旨として、家督を忠興に譲り、田辺城に隠居した。武門だけでなく、歌人として名を天下に轟かせており、千利休とも親交があった。


 武人でもあった幽斎であったから、西軍の開城降伏に屈服するはずもなかった。であったから、西軍の武将の中には、幽斎を歌人の師と仰ぐものも少なからずいたから、攻めるめるには攻めたが、力を抜いた戦いであった。


 守るはたかが五百、普通なら1日ももたないうちに落城である。しかし、なかなか進まなかった。


「細川家記」には次のように記されている。


「寄せてきびしく攻め候へども、元より御覚悟の上なれば、少も御うれいなく、折に触れて、御詠歌など遊ばされ、或は諸子に天理をさとして、義をすすめ、御愛憐ごあいれん深くましまし候間、おのおの一図に思い定め、下卒に至る迄、一人も臆病を振り廻す者なし、さて光寿院様も御具足を召、夜廻りなされ候て、士卒に御心を付けられ候、又寄手の内に、城中へ志を通じ、玉なしの鉄砲を打つなどしたる方の昇の相紋を、城内にて記し置かれ候も、光寿院様なり、相紋の御心遣、女性の御身にて名誉なる事と、諸人感じ候なり、この昇りの印を、家康公へ忠興君より、御目に懸けられ候故、小出、藤掛、谷、川勝等、身体別条なかりし也」


 藤掛永勝、川勝秀氏らは幽斎の門人でもあったから、空砲を撃ってごまかしていたのである。まるで演習の様相である。


 幽斎は、城が囲まれる前に、城内あった「古今相伝箱」以下の重要な書物を万一のことを考えて、朝廷に献上しようと八条宮(智仁親王)の臣中大路長介に連絡し仲介を依頼した。親王は開城するよう幽斎に命じたが、幽斎は武士の本位にあらずとして開城を断り、目録状を添えて、朝廷に献上した。


 古今相伝の箱には証明状を付して、なお一首添えた。


いにしへも今もかわらぬ世の中に 心の種を残すこと


    目録

  禁裏様進上

   一  二十一代集担子 一 (注1)

  八条殿様進上

   一  古今相伝箱   一 (注2)

  同

   一  文箱古今證明状並歌一首

  同

        岷江入楚みんごうにっそ (注3)

   一  源氏物語抄担子

  烏丸弁殿

   一  草紙箱  一  十二帖  (注4)

  徳善院

   一  六家集箱  一  十八帖  (注5)

   以上

    慶長五年七月二十九日

                            幽斎玄旨

     中 長

     松 民

        参


(注1 二十一代集とは古今和歌集から新続古今和歌集までの21集に及ぶ和歌集をさす。この時に散逸していれば、現今残っていなかったかもしれない貴重なる和歌集である)

(注2 古今相伝とは、古今和歌集の解釈本をさす)

(注3 岷江入楚とは源氏物語の注釈書をさす)

(注4 草紙とは 御伽草紙などの物語、歌などの書物をさす)

(注5 六家集とは 古今和歌集の主要6歌人の私家集をさす)


 朝廷にとってみれば、幽斎を失うは何よりも代え難い人物であった。朝廷は使者を大阪に遣わして、秀頼に対し其の失う不幸を論じ、また勅命をもって烏丸光広と大阪より前田茂勝を田辺城に派遣して、幽斎を説得した。幽斎は勅命に従わないわけにはいかず、開城を決意し、前田茂勝に城を明け渡した。自分は9月12日に田辺をさり、19日に亀山城に入った。


 幽斎の所蔵していた多くの和歌集が無事に残ったことは、一番の財産であり、今日からいえば、大変な事件をくぐり抜けてきて伝えられたことは、もっと日本の遺産として知っておいていいだろう。


 田辺城はこうして落城することなく開城したが、もうこの時には関ヶ原の決戦の日は終わっていたのである。一万五千の西軍部隊は、決戦の日を迎えるまでもなく、いうなれば虚しい日々を過ごしてしまったのであった。これだけの部隊を丹後にとどめ於いた幽斎の貢献は大いに評価していいだろう。これがもし8月の中頃に決着していれば、決戦の時の両軍戦闘の状況はさらに混沌としていただろう。

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