第25話 会津上杉の動き

 景勝は、家康が伏見を出発する前の6月10日、各城主に対して、家康との開戦を決意して御触れを出した。京阪の上杉屋敷の家臣より、家康が上杉征伐の準備をしているとの緊急の報告を受けていたのだ。まだ、三成が決起に及ぶ前であり、三成からの密書も届いていなかったが、景勝は武門上杉の義の名に恥じぬよう家康との決着をつけるのだと銘じてした。


今度このたび上洛致さず様子、第一家中無力、第二領分仕置の為、秋中あきなか迄延引の趣、奉行衆へ返答せしめ候処、重て逆心の讒言を以て、是非上洛これなくば、当郡に向いてだてに及ばるべきの旨に候、それにつき存分これありと雖も、元来逆心の筋目なく候條、万事をなげうち、上洛せしむべき覚悟に落著らくちゃく候、しかし讒人ざんにん糾明の一個條申し入れ候処、是非なく只相替らず上洛とはかりこれありて、あまつさえ此の日限催促此の如く押し詰められ、上洛の儀は如何にしても成らず候、数通の起請文反古ほごとなり、堅約もよしみも入らず、讒人の糾明もこれなきてい、時刻到来無二むに思い詰め候條、譜代旧功浪人上下に依らず、右の趣きよんどころなく分別仕り候者は、供の用意申付くべく候、自然無分別理不尽の滅亡述懐に存ずる者は、何者なりとも、相違なく、いとまを出だすべく候、然ば上方勢下り候、日限聞き届け次第、半途はんとへ打ち出すべく候、諸口の儀に候條、領分端々はしばし押し破られ、地下人等心替り仕るべき儀眼前に候、其の節或は在所心もとなく存じ、或は妻子捨て難き心中に候はゞ、当座の不覚、末代の名をけがすべく候條、兼日切角せっかく疑心なく奉行存じ詰むる者、糾明直々きゅうめいじきじき申し出で候はゞ、人に依り遠慮もこれあるべく候條、各々分別を以て、急々相極めらるべき者なり、依て件の如し。

   六月十日

                                景 勝

    安田上総介殿

    甘糟備後守殿

    岩井備中守殿

    大石播磨守殿

    本荘越前守殿


 会津上杉景勝は家康以下の大軍が東下ことを、京都大阪の在番家臣よりの書状を見、また家臣らも会津本領が一大事と続々と駆けつけてきたことで、会津は緊迫を増してきた。

また、三成からの家康が東下という書状も兼続宛てに届いた。


内府方一昨十八日、伏見出馬にて、兼々調略存分に任せ、天の与えと祝著せしめ候、我等も油断なく支度仕り候間、来月初め、佐和山罷り立ち、大阪に越境せしむべく候、輝元、秀家、其の外無二の味方に候、いよいよ御心安かるべく候

(注、この書状は偽書である可能性が高いといわれる。まだ、この時点では、三成はまだ決起に及ばず、自分だけの思いをつのらせていただけで、誰も味方にはなっていないから)


 景勝は、兼続に命じて兵1万を率いさせ、南山口より下野まで出て、高原に駐屯させ、本荘繁長、子義勝に兵八千を率いさせ、鶴生つりう、鷹助に陣をとり、安田能元よしもと、島津昔忠つねただをして白河に、市川房綱、山浦景綱に関山に陣と取らせた。そして、景勝は、家康本隊が江戸を出発したとの間者からの知らせを受け、八千の旗本衆を引き連れ、長沼に陣を構えた。あとは、家康の来攻を待つのみである。家康は外様である豊臣恩顧の将兵で守られている。こちらを破らなければ、家康本隊は出てこないのだ。その策は兼続とともに、入念に練ってあった。


 しかし、臨戦態勢にあったが、物見の報告で秀忠本隊以外は続々として大軍が陣を払い、江戸に逆戻りしているとあった。よもや三成が挙兵したのではと推測していると、案の定三成からの家康弾劾状からなる密書が届いたのである。上方から会津までは、当時とてつもなく遠い所であった。古はみちのくといわれ、京を中心とする意識からすると、離れた未知なる土地だった。戦国時代になっても、支配の地域には入ったものの、いまだ遠い土地だったのだ。


 三成からの密書を持った使者が直江兼続の元を訪ねていた。

「三成よりの山城守殿への密書にございます」


兼続は密書を手に取り内容を読んだ。


「遠路大儀であった。返書は殿に閲読したうえ認めるゆえ、それまでゆっくり休まれるがよい」

「はっ、ありがたきお言葉かたじけなく存じます」


 兼続は、書状を持って景勝の陣に行き、密書を手渡した。景勝はその書を読み終りしばし考えた後、人払いをして二人だけとなり、話し合った。


「兼続、やはり三成は挙兵したようだな」

「御意」

「これはわが上杉が徳川との争いを見据えての所業と思うが、少しはやまったようだ」

「殿もそう思われますか」

「この景勝は、内府のやり方がどうも気に入らぬ。太閤殿下が築かれた礎をおろそかにしており、秀頼公の後見人という立場もありながら、ときあらば実権を握り、天下を欲しいままにしようとするのが、あからさまじゃ。豊臣恩顧の大名を、三成との確執をよいことに自らの陣営に取り込み、三成を排除しようと画策しておる。三成を排除せば、邪魔者はおらぬに等しい。三成は政にたけてはおるが、戦は不得手じゃ。そこで、わが上杉軍が徳川軍を撃破すれば、三成にも勝機が訪れる確立は高くなる。だが、戦う前に、三成が兵を掲げてはどうにもならぬ。佐竹もいざとなれば、我と協力して徳川軍を挟撃したであろうに、これで日和見に徹するであろう」

「殿、伊達軍が白石城を攻め、白石は一両日の内に落城したと報せがありました。この上は、今危険なのは伊達かと思われますが」

「その伊達も、徳川軍が陣を払い撤退した報せを受けているであろう。白石は元々は伊達の領地だった所。この先は自重するであろう。さもなくば、わが上杉の攻撃をまともに受けることとなり、今度は自らが危うくなる。そんな危険を冒してまで、正宗は動かぬ。和睦の使者をすぐ遣わすがよい」

「佐竹、伊達に使者を遣わします。伊達が和睦に応ずれば、江戸まで南下して徳川と一戦を交えるのも可能かと。いや、一泡吹かせることが肝要かと存じますが。我らが江戸に向かえば、佐竹も動きましょう」

「しかし、最上義光がおる。我らが大挙江戸に向かえば、一気に会津に攻め入るであろう。それを考えれば、五千の兵は備えとして置かねばならぬ。佐竹だけでは、一気に徳川を叩くのは無理じゃ。伊達が加わればわが勝利間違いないが、正宗の胸の内、計り知れぬものがある」

「御意にございます。正宗はかの小田原参陣の時、死に装束を身にまとい、秀吉公の前に伺候した曲者でござれば、今もこの時とばかり、旧領白石を取り返さんとしたところは、謀事多き武将でござる」

「こちらも事を慎重に図らねば、事を仕損じるというものだ」

「まことに御意にございます。しばし、時を下され。徳川迎え撃つ作戦は無に帰しましたが、これよりの事を図りたく存知ます」

「三成の役には立たなかったが、あとは祈るしかあるまい。使者にはよしなに計らっておくがよい」

「はっ、三成殿への返書には、火急には動けぬとでも認めておきます」


 景勝との面談を終えた、兼続は返書をしたためて、三成の使者にそれを渡すよう小姓に命じた。それを終えると、兼続はこれからの戦略をどう立て直したらよいかしばし考えていた。そして正宗への和睦状を書きあげ、佐竹義宣への合力の要請状を書き上げていた。佐竹は反徳川勢力と見られて、景勝に味方する意向は表明していたものの、家康が小山に出陣しても、家康の元には参陣せず決して動かずにいた。逆に景勝退治と称して帰国し、戦備を整えると、家康本隊が鬼怒川を渡るのを見届けたらのち、背後を襲い、上杉軍と挟撃しようと策を決めていて、そのように陣を進めたが、多賀谷重綱の子頼資は父に逆らい結城秀康の陣営に走り、ことの次第を打ち明けていた。佐竹義宣はそのまま動けない状態となってしまった。


 伊達政宗の元にも家康からの書状が届いていた。間者からの報告で、徳川軍が陣を払い江戸に逆戻りをしていることは聞いていたし、上方で三成が挙兵したらしいとも聞いた。それが、使者が到着したことにより、確実な情報として届けられたのである。やはり、三成が挙兵し、毛利輝元を総大将として反徳川の旗印を掲げるという一大決戦になるかもしれないということだった。遠い都の戦いとはいえ、正宗の戦略はこのために大きく影響し、揺らぐことになった。


 伊達政宗は、永禄十年(1567)米沢城において、父十六代輝宗、母は最上義守の息女義姫の長子として誕生し、幼名は梵天丸と名付けられた。伊達家は文治五年の頼朝の奥州征伐において、当時常陸念西父子が従軍し合戦に及んだ際、抜群の功をたてたの対して、伊達郡の地を拝領し、姓を改めたことに始まる歴史ある家筋だった。


 正宗は15歳で初陣に及び、傅役片倉小十郎らに守られ、無事大任を果たした。隣国相馬氏との争いの中、弱冠18歳で家督を継ぎ、戦乱の渦中に身を投ずることとなるが、巧みな戦術で、隣国の諸大名を撃破攻略していった。


 奥州の地にも、天下統一をめざす豊臣秀吉の存在が脅威を示すようになり、危機を迎えるが、正宗のパフォーマンスにより窮地を脱し、豊臣政権の奥州の覇者としての地位を確保する。秀吉死後、正宗は次期天下を掌握するのは家康と読んでいた。家康に急接近した正宗は、長女五郎八姫と家康の六男忠輝との婚約を取り交わしている。


 上杉討伐の号令がかかるや、当然正宗は好機いたれりと感じたに違いない。旧領回復の戦いとなると踏んだのである。南から徳川の大軍が北上すれば、たとえ天下無敵の上杉七万であっても、勝利する可能性は低く、その隙間に悠々と上杉領を頂戴すればよかったのである。しかし、情勢は大きく変化した。戦わずして、十万の大軍が退去してしまったのだ。


 正宗は直ちに、家康側近井伊直政に直ちに上杉討伐を急いで片付けるのが先決であり、三成成敗はそれが終った後ゆるりと処置できると注進したが、聞き入れられることはなかったのである。正宗の戦略は大いに方向転換せざるを得ない状況となった。このまま駒を進めれば、上杉の大軍と真正面から衝突せざるを得ないからである。伊達軍3万の勢力ではどう見ても勝ち目のない戦になることは明らかだった。白石城は占領したものの、そこから全く動くことのできない状況となってしまった。


 奥州の戦線はしばらく静かな時を時を迎える事態となった。

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