第2話 秀吉死す
二年程前にさかのぼる。
慶長3年(1598)3月15日、秀吉は
将来に不安を覚えた秀吉は、7月になると、豊臣政権での代表である五大老に追加して、政権の実務を担当する五奉行を置くことを制定した。
秀吉は、自分が死ねば随一の実力者家康が
五大老には
徳川家康
前田利家
宇喜多秀家
毛利輝元
上杉景勝
の有力大名を選抜
五奉行には
浅野長政
前田玄以
石田三成
長束正家
増田長盛
三中老には
中村一氏
生駒親正
堀尾吉晴
を任命した。
浅野長政は甲斐21万7千石、
三中老は五大老と五奉行の調停役としての存在を果たしていたようである。
秀吉は死期が近づいていること悟り、諸大名を集めて、家康に対し秀頼の後見となるよう依頼している。
イエズス会宣教師フランシスコ・パシオがイエズス会総長宛に送った書簡にはその様子が詳しく記されている。
「国王(太閤様)は伏見城に滞在していた六月の終わりに
病状は一時回復の兆しも見られたが、
秀吉は家康を枕元に呼んだ。家康が秀吉の床の
「頼んだぞ」
と秀吉は小さな声で家康に
「予は死んでゆくが、
「関白殿、拙者は先君が亡くなられた頃には三河の一国しか領しておらなんだ。しかし、関白殿がこの国を治められてからは、三カ国を加えられ、その後の恩賞により、関八州の所領に替えていただきました。さらには多大な贈り物を賜りました。関白殿は今後、拙者が生命を抛ってもご子息に対してあらゆる
(よろしく頼む)という願いの意味を込めて、秀吉は家康の手を力強く握り締めた。秀吉が将来を託したのは、家康なのだ。ここが重要なことだ。利家ではなく、頼りにするのは家康だと信じていたことだ。
7月15日、秀吉から五大老五奉行に充てて遺言ともいうべき覚書が発せられた。
その遺言状は「太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚」として『大日本古文書 浅野家家わけ文書』に収用されている。
この覚書きは11か条からなっている。読み下し文で見てみよう。
一、内府(家康)
一、大納言殿は、おさなともだちより、律儀を御存知なされ
一、江戸中納言殿(秀忠)は、秀頼様
一、羽柴肥前殿(前田利長)事は、大納言殿
一、備前中納言殿(宇喜多秀家)事は、幼少より
一、景勝、輝元
一、
一、
一、何たる儀も、内府、大納言へ
一、伏見には内府
一、大坂は秀頼様
右一書の通、年寄衆、其の外御そばに御座候女房衆達御聞き成され候、以上
病の重くなる秀吉は8月5日五大老宛の遺言状を書いた。
「秀頼事、成りたち候ように、この書付の衆として、たのみ申し候。なに事も、このほかにはおもいのこす事なく候。かしく」
18日、秀吉は息をひきとった。秀吉がなくなった場合は、皆への影響が大きいので、詰めている者だけの心のうちにしまっておいて、しばらく秘密のこととした。当然家康にでもある。だが、三成は密かに家康に太閤殿下の死を知らせている。家康は秀吉を見舞う為伏見城に赴こうとしていた。そこに三成の家臣八十島が家康の輿に近づいて、太閤殿下が
家康は、すぐに自分の館へ引き返した。歯車が違う歯車と入れ替わろうとしていた。
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