第2話 秀吉死す

 二年程前にさかのぼる。


 慶長3年(1598)3月15日、秀吉は醍醐寺だいごじ三宝院を中心とする膨大な敷地の中で、盛大な花見の宴を催した。その宴の招待客は千人以上に及び、今日醍醐寺の春を彩る桜700本を植樹したのもこの時だ。これが秀吉最後の最大の宴となった。5月にはいり、秀吉は病気になり、結局醍醐の花見が最後の豪遊となった。最初は軽い病気と見られていたが、その症状は段々と重くなり始めていた。


 将来に不安を覚えた秀吉は、7月になると、豊臣政権での代表である五大老に追加して、政権の実務を担当する五奉行を置くことを制定した。


 秀吉は、自分が死ねば随一の実力者家康が覇権はけんを奪い取る可能性もあったからだ。当然考えうることだった。だが、自分が亡きあとは家康が政権を掌中にすることは予測できた。大名の多くは家康に心を寄せているし、天下を統制する力量もあることは認めざるをえなかった。故に、秀頼が成長するまでは、家康に天下の政事まつりごとは一任し、秀頼は成長した暁には、家康から秀頼に政権を返却させねばならない。故に、新しい体制を整えねばと、床に伏していた秀吉は死を迎える短期間の間に体制を整えることに専念する。五大老五奉行を合議制を決めた。さらに三中老を置いた。全ては後継者秀頼を心配しての体制作りであったのだ。


 五大老には

   徳川家康

   前田利家

   宇喜多秀家

   毛利輝元

   上杉景勝


 の有力大名を選抜補任ぶにんし、


 五奉行には

   浅野長政

   前田玄以

   石田三成

   長束正家

   増田長盛

 三中老には

   中村一氏

   生駒親正

   堀尾吉晴


を任命した。


 浅野長政は甲斐21万7千石、増田ました長盛は大和郡山やまとこおりやま20万石、石田三成は近江佐和山にて19万4千石、前田玄以げんいは丹波亀山5万石、長束なつか正家は近江水口おうみみなくち5万石の領主である。


 三中老は五大老と五奉行の調停役としての存在を果たしていたようである。


秀吉は死期が近づいていること悟り、諸大名を集めて、家康に対し秀頼の後見となるよう依頼している。


 イエズス会宣教師フランシスコ・パシオがイエズス会総長宛に送った書簡にはその様子が詳しく記されている。


「国王(太閤様)は伏見城に滞在していた六月の終わりに赤痢せきりを患い、よくあることですが時ならず胃痛を訴えるようになりました。当初は生命の危機などまったく懸念けねんされなかったのですが、8月5日に病状は悪化して生存は絶望となるに至りました」


 病状は一時回復の兆しも見られたが、危篤きとく状態に陥ることもあり、秀吉も死期の近いことをさとっていた。秀吉は病状が回復した時に五大老をはじめとする諸大名を集め、今後の行く末を託した。


 秀吉は家康を枕元に呼んだ。家康が秀吉の床のかたわら伺候しこうすると、手をゆっくりと差し出した。家康はその手を固く握った。


「頼んだぞ」


と秀吉は小さな声で家康にささやいた。そして、力を振り絞るように少し大きな声を出した。


「予は死んでゆくが、所詮しょせん死は避けられること故、これを辛いとは思わぬ。ただ憂慮ゆうりょされるのは、まだ幼い秀頼を残していくことだ。そこで考えた挙句、元服するまでの間、誰かに国政を委ねていきたいと思う。その任に当たるものは権勢共に抜群の者であらねばならぬ。予は家康殿を差し置いて他に如何なる適任者ありとは思われぬ。それ故、全国の統治を貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は秀頼が元服したならば、必ずやその政権をわが息子の元に返してくれるものと期待しておる」


「関白殿、拙者は先君が亡くなられた頃には三河の一国しか領しておらなんだ。しかし、関白殿がこの国を治められてからは、三カ国を加えられ、その後の恩賞により、関八州の所領に替えていただきました。さらには多大な贈り物を賜りました。関白殿は今後、拙者が生命を抛ってもご子息に対してあらゆる恭順奉公きょうじゅんほうこうを尽くすようにとの、拙者や子孫を解きがたい絆で固く結ぼうとなさいます。拙者は関白殿から信頼されすべての物を譲られたからには、今後は万難を排し、あらゆる障害を取り除いて、関白殿のご要望なりご命令を達成いたす所存でござる」


(よろしく頼む)という願いの意味を込めて、秀吉は家康の手を力強く握り締めた。秀吉が将来を託したのは、家康なのだ。ここが重要なことだ。利家ではなく、頼りにするのは家康だと信じていたことだ。


 7月15日、秀吉から五大老五奉行に充てて遺言ともいうべき覚書が発せられた。

 その遺言状は「太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚」として『大日本古文書 浅野家家わけ文書』に収用されている。

 この覚書きは11か条からなっている。読み下し文で見てみよう。


一、内府(家康)久々ひさびさ律儀なる儀をご覧じ付けられ、近年ごねんごろされ候。それ故秀頼様を孫むこになされそうろうの間、秀頼様をお取立てそうろうて給わりそうらへと、御意ぎょい成され候。大納言殿(利家)年寄としより衆5人居り申す所にて、度々たびたびおおいだされそうろう


一、大納言殿は、おさなともだちより、律儀を御存知なされそうろう故、秀頼様御もりに付けさせられそうろう間、御取立そうろうて給りそうらへと、内府年寄としより5人居り申す所にて、度々御意たびたびぎょいなされそうろう


一、江戸中納言殿(秀忠)は、秀頼様おんしうとになされそうろう状、内府御年おんとしもよられ、御煩気おんわづらいげにも相成候あいなりそうらはば、内府のことと、秀頼様の儀、御肝入おんきもいりなされそうらへと、右の衆居り申す所にて、御意成ぎょいなされそうろう


一、羽柴肥前殿(前田利長)事は、大納言殿御年おんとしもよられ、御煩気おんわづらいげにもそうろう間、相替らず秀頼様おんもりに付けさせられそうろう条、外聞実儀がいぶんじつぎかたじけなく存知、御身に替り肝煎きもいり申すべくとおおいだされ、則ち中納言になされ、橋立の御壺おんつぼ、吉光の御脇指おんわきざし下され、役儀をも拾万石御許し成されそうろう


一、備前中納言殿(宇喜多秀家)事は、幼少より御取立おとりたて成されそうろうの間、秀頼様の儀は御遁おんのがれあるまじく候条そうろうじょう、御奉行5人にも御成候おなりそうらへ、又おとな5人の内へも御入候おんいりそうろうて、諸職しょしょく事おとなしく、贔屓偏頗ひいきへんぱなしに御肝煎おんきもいそうらへと、御意ぎょい成されそうろう


一、景勝、輝元御事おんことは、御律儀おんりちぎそうろうの間、秀頼様の儀御取立てそうろうて給わりそうらへと、輝元へは直に御意ぎょい成され候、景勝は御国に御座候ござそうろう故、皆々に仰せ置かせられそうろう


一、年寄としより共5人の者は、誰々成れども御法度ごはっとに背き申す事を仕出しそうろうは、さけさやの体より罷り出で、双方へ異見せしめ、入魂じっこんの様に仕り可くそうろう、若し不届きじん之あるにて切りそうらはば、おいばら(追腹)とも存ずべく候、又は上様へ切られ候とも存ずべきと、其の外はつらをはられ、そうりをなおしそうろう共、上様へと存知、秀頼様の儀大切に存知きもり申すべきと御意成ぎょいなされ候


一、年寄としよりは5人として、御算用ごさんよう聞きそうろう共、相究めそうろうて、内府、大納言殿へ御目おめに懸け、請取うけとりを取りそうろうて、秀頼様御成人成され、御算用ごさんようかた御尋ねの時、右御両人の請取を御目に懸けそうらへと御意成ぎょいなされ候事


一、何たる儀も、内府、大納言へ御意ぎょいを得、其の次第相究あいきわそうらへと、御意成ぎょいなされそうろう


一、伏見には内府御座候ござそうろうて、諸職御肝煎おんきもいり成されそうらへと御意候ぎょいそうろう、城々留守は徳善院(前田玄以)、長束大蔵(正家)仕り、何時も内府てんしゅ(天主)までも、御上おあがそうろはんと仰せられそうろうは、気遣きづかい無く上げ申し可き由、御意成ぎょいなされそうろう


一、大坂は秀頼様御座成ござなされ候間、大納言殿御座候ござそうろうて、惣廻そうまわり御肝煎候おんきもいりそうらへと御意成ぎょいなされそうろう御城番おしろばんの儀は、皆々して相勤候あいつとめそうらへと仰せ出でされ候、大納言殿てんしゅまでも、御上おあがり候はんと仰せられ候はば、気遣きづかい無く上げ申す可き由、御意成ぎょいなされそうろう


  右一書の通、年寄衆、其の外御そばに御座候女房衆達御聞き成され候、以上



 病の重くなる秀吉は8月5日五大老宛の遺言状を書いた。


「秀頼事、成りたち候ように、この書付の衆として、たのみ申し候。なに事も、このほかにはおもいのこす事なく候。かしく」


 18日、秀吉は息をひきとった。秀吉がなくなった場合は、皆への影響が大きいので、詰めている者だけの心のうちにしまっておいて、しばらく秘密のこととした。当然家康にでもある。だが、三成は密かに家康に太閤殿下の死を知らせている。家康は秀吉を見舞う為伏見城に赴こうとしていた。そこに三成の家臣八十島が家康の輿に近づいて、太閤殿下が薨去こうきょされたことを伝え、出仕はお見合わせくださいと三成からの申し伝えと述べた。

 

 家康は、すぐに自分の館へ引き返した。歯車が違う歯車と入れ替わろうとしていた。

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