僕は夏の中の春を描く

木谷さくら

全話



 ガラスのコップに落ちた氷がカランと音を立てた。そこに既にキンキンに冷えた三ツ矢サイダーを注ぐと気持ちの良い音が響く。網戸を通り抜けるやかましい蝉の合唱が聞こえる。思い出したかのように風鈴がチリンとなると、もう夏が来たという感じがして心地いい。こんなふうに、絶対に絵に現せない夏がある。いつか絶対に描いてみたいと思う夏がある。



 新品のスケッチブックと水筒に注いだお茶(といってもほぼ氷だ)、そして水彩絵の具をじいちゃんの形見のバックに携えると、外に出た。その瞬間、むわっとした湿気を含む空気と、目が焼けるような太陽が襲ってくる。砂嵐を通り抜けるように、目の上の当たりに腕をおいて走った。今日は、あの場所で雲一つない空と、蝉の声を描こう、なんて思いを馳せて、心の奥に夢を描く。


 目的地の丘の上。

 、、、1本の桜が咲いていた。俺の背丈の丁度20センチ伸びたくらい高さの桜。満開の桜。信じられなかった。今は何月?自分の頭を疑う。でも、それよりも驚いたのは、その根本に女の子がいたことだった。真っ黒な長袖のワンピースに、靴下、あれは、、、ローファーというのだろうか。全身が真っ黒で、それでも、その肌は真っ白で、前髪には、真っ赤な花のピンが刺してある。どくん、と脈打った。綺麗だ。単純にそう思った。もちろん、不気味でもあった。

 それでも、「描きたい」それだけが脳を占拠する。

 少女が顔にかかっていた髪を耳にかけた。そこで初めて気づく。彼女は涙を流していた。静かに、静かに、泣いていた。真っ黒なノートに何か書き綴りながら。


 結局、何も出来ないまま俺は逃げだした。家に帰り自分の部屋で蹲ってもまだ、心臓が波打っている。どくどくどくどく。あの1場面が頭から離れない。思わず、リビングに新聞紙を一面に引いて、水を組んで、でっかいキャンバスを真ん中に置き、勢いで描き進める。汗が滲みでるような太陽、一面にあざやかな花が咲く丘に、ひとつだけ、淡い色の小さな桜に、似つかわしくないように、でも、あそこにいるために生まれてきたような真っ黒のあの子。何十枚も書きなおして、すっかり夜になっても、どうしてもあの鼓動を書き表せなかった。悔しい。悔しい。そうだ、もう一度見られれば、、、。


 それから、一週間がたった。あの丘にはまだ1度も行っていない。どんな調子の良い日に、どんな綺麗な景色を書いたって、満たされなかった。ただ呆然とそこに居る絵が、自分が、許せなかった。チャイムが鳴る。

「結月ーーー!!!!!」

チャイムより五月蝿いあいつの声が聞こえた。

「あぁーーーけぇろぉおおおおおおおあっづいいいいい!!」

よくあそこまで息が続くものだ。叫ぶと余計暑くなることを知らないのか。

「ちょっぉおおおおおっとまてええええええ」

あいつと同じ調子で言うと、握ったままの筆を床にそっと置いて重い足を引きづって玄関にいき、鍵を開ける。入れーとドアをあけると、土砂崩れみたいに夏樹の体が倒れ込んできた。

「あづい、、、俺はもうだめだ、、、あの子はお前に任せた、、、頼んだぞ、結月」

かくっと首の力を抜いた夏樹は目を閉じた。

「死ぬな!夏樹ぃいいいいいい!!!」

首に手を回すと天を仰いで叫ぶ。

「んなわけ無いだろ」

「知ってるわそんなこと」

「あっつーーーこんな遊びするからよけーあつ」

「乗せてきたのはそっちだろばーか」

「乗ってきたのはそっちだろアーホ」

叫べば、一人でじっとしているよりよっぽどあっつくなるはずなのに、笑いあえば、涼しい気持ちになるのは何故だろう。親友パワー?、、、ないな。

「てっかさー結月、なんで桜の絵描いてんの?あと一週間で夏の展覧会締め切りだろ?」

夏樹はドカドカと勝手にアトリエと化したリビングに入っていき、キャンバスの絵を見ていった。

「まぁ、流石に綺麗だけどさ。」

その言葉を聞いた瞬間、ガクッと落胆した。やっぱり、あの感動は、震えは、伝えられないのか。やっぱ、ダメだ、こんなところで止まってちゃ、だめだ。

「夏樹ーーごめん、俺展覧会なんてどうでも良くなったわ」

「は!?」

スケッチブックに絵の具に筆に、鉛筆にパンにペットボトルに時計を詰めて、延珠色のバックを携える。

夏樹がちょっと呆れた声で行った。

「夢じゃなかったのかよ」

「抑えられないんだ。もうひとつってか、、、新しい夢ができた。」

「、、、絵を描く関係の夢だよな?」

「もちろん」

夏樹はにっと笑う。全てをわかってくれたように。

「良かったわー、絵を書かない結月なんて、結月じゃねーよ」

「わかってるって」

俺も真似してにっと笑うと、かけ出した。

「ごめん出る!」

「まだ来て3分なのに?しょーがねーなー」

夏樹は重い足を引きづって一緒に外へ出てくれた。

「頑張れよ」

「あぁ、」

 風鈴が思い立ってチリンとならす。夏の中の、春を描きたい。



 正直、あの丘にまたあの春がいるとは自信がなかった。ただ、なんとなく、俺を待ってる気がした、、、なんてのは勘違いなんだろうけど。

 結果、そこに春は待っていた。緑の生い茂る丘の上の森に、潜むように、佇んでいる。久しい淡い桜色は、やっぱ俺の作った絵の具とは別物で、切なさを含み、生きていた。そんな幹に寄りかかって、守られるように彼女は眠る。また、泣いていた。

 ピンポン!携帯が鳴った。やばい、と思った刹那、彼女は飛び上がって起きる。まるで、何かに追われているみたいに。俺の方をじっと見て、青ざめる彼女の瞳は綺麗だった。彼女は何か慌てたように指をパチンと鳴らす。

 それから、俺は、不思議な光景を見た。彼女の後ろにある小さな桜は、ひとつひとつ、それでも残さずに花びらを落とし、幹や枝を腐らせていった。そのうちに、白蟻が何匹も集まり、その木を包むと、数秒後には跡形もなく消えていた。

 言葉なんか、何も出なくて、ただその光景に頭を真っ白にして、何かもわからないことをずっと考えていた。それは、気持ち悪いだったかもしれないし、あるいは不気味だったかもしれないし、もしくは、あるいは、描きたい、だったかもしれない。

「誰」

それからしばらくして、彼女は涙目で俺をこの世で一番憎いとでも言うように睨みつける。

「結月、っていうんだ。」

「そう、、、ねぇ、この世で一番嫌いなものって何?」

冷たい声だった。そう、まるで、

「家族」

「反抗期?」

「だとしたら、かれこれ5年も続いていることになる。」

「そう、気が合うね」

しにが、、、

「私、死神なの。」

死神みたいに。と思ったら、本物だった。随分シュールだな、と感心する。

「へぇ」

「信じるの?」

俺は少し考えた。そりゃ、あんなものをみせられたら、信じるしかないだろうけど。

「、、、もし、信じるといえばあの桜をもう一度蘇らせて、君を描かせてくれる?」

彼女はふっと笑って、

「そのくらいなら」

 奇跡が起こった。


 彼女の長い髪が生温い風に吹かれて靡いている。

「でも、あの桜をもう1度蘇らせるのは無理」

「何故?」

「死神は、対象の死を操作すると同時に生も操作できるけど、それは1回だけだもの。」

「よく意味が分からないな」

「でしょうね」

彼女は口元をグーで隠してクスクスと笑う。

「でも、もうひとつ殺さなかった桜があるの。」

「そう、それなら良かった。早速明日、スケッチしても?」

「ええ、まぁ、ちょっと特殊なのだけれど。」

小さな死神は、意地悪な顔で俺を見た。


 「、、、思ったのと、違うんだけど。」

次の日、彼女に案内されて丘の森を進むと、青い桜が咲き乱れていた。

「だから特殊だって言ったじゃない。」

「まぁ、そうか。」

「良いでしょ、私の趣味。死人の涙を少し。」

「あぁ、素敵だ」

「本当に思ってる?」

「もちろん」

「気が合うね」

「付き合う?」

「何に?」

「、、、やっぱ、何でもない。」

冗談で言ったはずなのに、俺の頬は信じられないくらい赤くなっていて、彼女が鈍感で良かったと溜息をつく。「本当に?」どっかの俺がそう聞いてくるのを無理矢理振り切った。

「じゃあ、描くか。」

「どうすればいいの?」

「幹に寄りかかって座っていてくれればいい。」

「了解。」

俺は早速準備をして、作画にとりかかった。これじゃあだめだと何度も言ってくる誰かを満足させるために、それ以上に何度も、何度も、汗を拭う。

「あのさ、その黒いノートはDEATH NOTEみたいなもの?」

「ちょっと違うわね、義務じゃないわ。私は殺したものを綴っておくの。恨まれても、恨み返さないように。」

頭をどんなに絞ってみても、彼女のいう事はいつもよく分からない。でも、どこか心の奥にストンと落ちてく気がした。

「死ぬと決まった人、、、死神のターゲットになった人は必ず死ぬのか?」

「ん、、、あ、でも、死ぬ理由が余りに理不尽な人は、有る条件を満たせば、ターゲットから外れることがあるわ。まだ見たことないけどね。というか、見たら私はここにはいないのだけれど、、、みんな諦めてるんだもの、日常に失望して漠然と死にたいと思いながら過ごしてるのばっかだった。少なくとも人間は。」

小さな手に、握る羽の模様が施された真っ黒なペン。俺と同じような年齢の子が、動物や、人や、桜の木さえも殺している。それは、残酷だとも、素敵だとも思えた。

「なぁ、、、俺は、君のターゲットとか、そういうのなのか?」

その言葉に君は、固まって、俺を見た。

「何故?」

「いや、なんか、そういうのあるじゃん、ターゲットだけに死神が見えるとか、そういうの。本で読んだ。」

「本を読むの?」

「意外か?」

「まあね。何が好き?」

「よだかの星」

「死ぬのは嫌?」

「苦しいのとか、痛いのは、やだけど、死ぬ事は嫌じゃない。」

「そう、、、ね、私は1週間に貴方を殺します。」

君はそうとだけ言ってまたモデルの体制に向き直る。

「でも、貴方には死んでほしくなかった。」

ふと、筆を留める。

「よだかの星を好きだという男子高校生なんて、人間なんて、滅多にいないもの。」

君はそっと、空を見た。



 それからは、無言で作業を続けた。彼女の為に休憩をとっても、話すことはしなかった。それが苦ではなくて、妙に心地よくて、何時間もこうしていられると、そう思った。でも、夕日が昇って、木々から溢れる澄の光が眩しそうだったから俺は切り出す。

「今日は、終わりにしようか」

「そうね、明日は仕事があるから、また、明後日に。」

「分かった、そういえば名前、聞いてなかった。」

「名前なんてないもの」

「じゃあ今日から、、、そうだな、、、ん、まひな。まひながいいよ。月って意味だ。」

「ハワイ語なんて知ってるのね」

「君も。」

くすりと笑いあって、手を降る。

「じゃあねまひな。」

「また、結月。」

名前を呼ばれるというのは、こんなに嬉しいことだったか。空はやがて碧を含み、1番星は輝き始める。


 

 次の日はひたすらやりたいことに費やした。急に余命一週間を告げられた俺は、忙しくなった。至って健康だから、死因は交通事故か何かだろう。多分。

 貯金を全部おろしてバックに突っ込むと、専門店で一番高い絵道具を買う。喫茶店で一番高い料理を食べて、「まぁまぁだな」とか呟いてみる。電車で東京へ行って、高級なお土産を買いあさり、少し観光した後に帰るともう5時だった。こんなくだらないことをしている間に、最後の休日が終わってゆく。土産を、関わって良かったと心底思える人だけに渡した。夏樹の家には、行かなかった。泣いてしまう気がした。死ぬのは嫌じゃない。けど、夏樹と会えなくなるのは嫌なのか、と苦笑する。でも、それはきっと真実で。夕日を見上げた。

 最後に、丘へ行って、星を見ようと、頂上へ言った。すると、君がいた。俺に気づく様子もなく彼女は青い蝶を人差し指にすくい、微笑む。

「貴方、綺麗ね」

それから、息をひとつ吹きかけると、灰になって消えていった。自然の原理に逆らっているな。なんて、場違いに思った。彼女はまたひとつ、涙を流す。こっちに気づいて、それを拭った。

「ぁ、ら、奇遇ね。」

「そうだね」 

彼女の隣に腰掛ける。

「今日はどんな仕事をしたの?」

「、、、村一番の歌唄いを殺めてきたの。」

「黒百合合唱団の?」

「そう。歌は好き?」

俺は少し考えた。

「聞くのは好きだけど、自分で合唱に参加するのは好きじゃない。」

「何故?」

「どんなに頑張っても、上辺でどんなに良い人を気取っても、クズにはクズの声しかでない、から。」

「よく分からない」

「だろうね。」

そうして微笑み合うと、空を見た。

「でも、クズの声にはクズの声の良さがあると思うわ。」

突然に流れた涙を隠すほど、俺は器用じゃない。

「俺がクズだってことは否定してくれないの?」

「だってその程度が違うだけで、人間みんなクズだもの。」

「気が合うね」

そう言うと、君はあははっと声を上げて笑った。俺はちょっと驚いて一緒に笑う。この街は明るすぎて星なんかちっとも見れなかったけど、丘にきてよかったと思った。星なんかより君の笑顔のほうが、とか、くっさいことを考えてる自分がいて、俺は、、、。


 それから俺等は、絵を完成させることだけに時間を費やした。時々虫カゴをぶら下げ、網をかついだ小学生が来ては、見えない桜の木にぶつかり「とうめーな敵だああ」と戦おうとするので慌てて止める。すると彼女はからからと楽しそうに笑うのだった。また時々は、なんかごついカメラを持った大人がなぜこんな何もないところで絵を?というふうな目で、自分を棚にあげて見てくることもあった。そんな時は、まひながちょいとカメラを救い上げると、いい大人が声を上げて叫んだ。俺がまひなを真似して笑うと、彼女はますます調子にのった。この世で超常現象と言われるものは、死神のせいかもしれないな、というと、

「こんなこと、普段はしないわ。死後の世界はあるわよ。この世界とほぼ一緒だけど、この世界よりずっと綺麗ね。戦争もないし、―そもそも死んでるんだから平和よ。どろどろとした感情も全て削除されているし。それでも、この世界に戻ってきたくてたまらない死者は億といるの。なぜかね。最も、ここに来ることを許された死者でも、魂の形だから、、、鬼火とかはともかく、人の形に見えたというのは嘘でしょうね。それか、哀れな人間が作り出した幻想だわ。きっとそうよ。」

と、早口でまくし立てた。死神でも幽霊は怖いものなのだろうか。俺が笑うと、無言で叩かれた。

 俺が死ぬ、2日前、まひなは仕事があるといって出かけて行った。どうしようかと思った。答はひとつしかないのに、2時間も丘に座ったまま悩んでいた。太陽が真上に登り、暑さに耐え切れなくなった頃、遂に行くことにした。決心がついたといえば嘘になる。でも、今会わなかったらもう死ぬまで会えない気がした。

 チャイムを押すと、バタバタとやけに慌てて動く音がしていつもの顔が出てきた。

「げっ結月かよーーー!新しい写真集来たと思ったのにーーー!!!」

せっかく死ぬ間際に逢いに来たというのにそれかよ!と思ったが、そうか、こいつは俺が死ぬことを知らないのか、と思ったら急に笑えてきた。

「佐藤深月の?」

「あっ何笑ってんだよっ俺の命の泉をっ」

そう言って夏樹は肩をたたいてくる。

「いってっ本気でするなよっはははっ」

気づいたら、笑ってんのに、涙があふれていた。

「ちょ、え、そんなに痛かった?ごめん!」

「いや、はははっちがくてさ、なんか俺、お前にあえて幸せだったわ」

「、、、だろ?」

夏樹は俺のことは何でも分かるんじゃないかと思った。

泣きじゃくる俺を何も聞かないで笑い飛ばしてくれる。

「ははっお前が泣いてるとこ初めて見たわー愉快ゆかい」

そう言いながらずっと背中を軽く叩いてくれていた。

「うっせーな!!」

肩を叩く。

「いったっ本気だっただろ今っ」

「はははっあのさ、ひとつ、お願いがあるんだ。」




「、、、できた」

血の滲んだような赤い色を彼女の髪についたピンに色付けすると、鳥肌が全身に立つのが分かった。身震いする。倒れるんじゃないかってくらい、初めて海を見た時の、その地平線の向こうに希望を感じた時の。

「綺麗ね、」

いつの間にか被写体の君が俺の隣で絵をじっと見ていた。幸せってこういうことなのかと、初めて知った。

何日でも、何年でも、その衝撃の余韻に浸っていたかった。でも、俺が生きれるのはどうしようもなく、今日が最後で、それももう、日が影っている。

「じゃあ、また、深夜に此処で。」

「本当に寝ている間じゃなくていいの?結構、衝撃よ。自分が死神に殺される場面、っていうのは。」

「いいんだ。此処で、死にたいから。」

「そう、じゃあ、また。」

「あぁ、」

俺は家に向かって歩きだした。何をしよう。部屋を隅々まで片付けて、遺書を書く。そしたら、思い出を遡っていこう。それでも、時間は余る。

家に向かう途中、80歳を超えているだろうというお祖母ちゃんが、杖をつきながらゆっくり歩いていた。通り過ぎながら思う。こんなにも、俺の人生は薄っぺらいものだったか。

余命が短いことを知るということは、ただ自分だけのしたかったことが見つかって、後悔の波に溺れることだと思ってた。夢はあった。それも今日―もちろん簡単では無かったけれど―比較的楽しんで叶えることが出来た。今、あるモノは空っぽの心だけだ。、、、少し暖かいような、くすぐったいような風が吹いている、心だけだ。

 目の前でお婆さんが転びそうによろけた。重たそうなスーパーの袋を持っていた。最後に良い人で終わりたいなんて言う綺麗事を思ったのは否めない。

「大丈夫ですか、手伝いますよ」

それでも、そういった時にお婆さんが、ほっとした顔をしたのは悪い気はしなかった。

「そうかい、ありがとうねぇ」

思った以上に重い荷物を持つ。一緒に極端に小さい歩幅にあわせて歩いた。

「暑くて嫌になっちまうねぇ、でもこれが若い頃は好きじゃった。青春っていうのかい?こんなババアにも、そんな頃があったんじゃよ。」

曖昧に相槌を打ちながら、皺くちゃの顔をみる。もうないんだなと思った。自分の皺の数をしかめっ面で数えながらあの頃は良かったとふりかえることも。

「あぁ、なぜ夏が終わるのはこんなに哀しくて愛おしいのだろうね、やりたいことは今のうちにやっておきなさい。夏休みも人生もあっという間に何もできないまま終わっていく。それもまた、良いのだけれど、何か成し遂げた人生もまた、良いものだろう。」

空は深い青を含んでいく。無言の時間があった。

「彼女が、欲しいです」

欲しかったです。短い人生もまた、良いのでしょうか。

おばあさんは顔を更に皺くちゃにしながら笑った。

「はっはっは、それは時間だけじゃどうにもならないかもしれないね、ほれここじゃ、どうもありがとう」

人生で最後の感謝をされ、石造りの古く広い玄関に荷物を置くと、手にいっぱいの茶菓子を持たされて、笑顔いっぱいに背中を押され、外に出た。 

 気持ちの悪いほどに良い日だった。夢が叶い、人に感謝される。些細な空の変化でさえ、まるで昨日にはなかったように感傷的に見えた。家に帰ると家族がいた。

「遅かったな、早くご飯食べて課題やれ」

こちらを見もしなかった。いつものことだ。おとうさん、お母さん、沢山お金を払ってくれて今までどうもありがとう。最後まで嫌いでした。心の中で呟いたら、何故か涙が止まらなかった。

 丘へ走った。約束の時間とはまだほど遠かったけど、なんだかもう残り数時間の余生を蒼い桜のもとで過ごしたかった。

「、、、?何故もうここにいるの?」

見えない星を眺めていた俺にあとから来た君がそう告げた。時刻は11時30分。儀式まであと30分。

「いや、、、さっき来たんだ」

嘘をついた。見え透いた、嘘だったと思う。君は何も言わなかった。

「そう、じゃあ、もう始めましょうか。うだうだしててもしょうがないから、少し丁寧にやりましょう」

「いいね、もう悔いはないよ」

ふたりで笑い合う。これももう終わりかと思ったら、悔いができてしまった。

「じゃあここに座って、」

彼女が右手を振ると、黒いごくシンプルな椅子が出てくる。青い桜の下に移動して、座った。

「指示が出るまで喋っちゃダメ、分かった?」

静かに頷く。夜特有のジーっと言う蝉の声が響く。

異様な俺の最後は、今にも青い桜の裏からドッキリを掲げた看板が出てくるかのように現実味を帯びていた。

何かを研ぐ音がする。背筋が凍って、ピンと伸びた。

「これを持って、手の平の上に」

渡されたのは、ビー玉の様なものだった。月光に照らされて、綺麗に光る。黒にも、青にも、紫にも、赤にも思えた。一瞬彼女の瞳に見えて、ドクンと波打つ。

「いいわ、好きに喋って。あと、10分よ。」

こんな時に何を話せばいいか分からなくて、沈黙する。まひなが俺の前に回って、体育座りをした。目が合う。俺も、まひなも、そらしはしなかった。

「、、、結月」

思えば、名前を呼ばれたのは初めてだったかもしれない。

「私は、」

彼女が困った顔をした。それもきっと、初めてで。

「何?」

限りなく優しくそう聞いたはずなのに、彼女は微笑んでまた、困った。

「時間になっちゃった」

そうとだけ言って、俺の右隣に立った。無言で俺の手をそっと握った。

「最後に、何か言い残したことがあれば。」

まひなの手を、握り返す。

「まひな、俺はよだかの星が一番好きだと言ったけど、も うひとつあった。、、、一万回生きた猫。初めて自分で読んだ本なんだ。それから今まで、俺はまた自分を繰り返すんだろうと思って来た。でも、俺は今はそう思わないよ。きっと今の俺は、もう生き返らない。幸せなんだ。」

死ぬまで、30秒をきった。

「だからまひな、俺を殺した後は、涙を流さないでくれ。君が好きなんだ。どうしようもなく。」

まひなの泣きそうな声が聞こえた。

「気が合うね、」

俺が微笑んで、ありがとうと呟いた時、意識が途切れた。





 

 俺は、生きている。

 白い天井を見つめて、清潔な布団を手で握って、確かめた。手足1本失っていない。首に結構な痛みを感じる。夢ではない。ここは病院なのだろう。点滴が腕に刺さっていた。寝返りを打つと、椅子に座ったままベットに突っ伏して夏樹が間抜けな顔で寝ていた。泣いていた。俺のせいだとは思いたくない。きっと、失恋した夢でも見たのだろうと。5分位その寝顔を見ていたら、その瞼が開いて目があった。

「うおっうわっえ!はっ!?結月!?生きてる!?まっ」

その慌てようは半端じゃなかった。急に立ち上がってベットの脚に自分の足をぶつけ、本当に痛がっている。

「いったっまっナースコール!!!!!」

やっと答えに行き着いたようで、勢い良く赤いぼたんを押した。と思ったら、崩れるようにいすに座る。

「結月、良かった、ほんっとに良かった。」

夏樹が泣いているのを見るのは、初めてだった。最近は初めてばっかりだ。前のはじめては、あれ?いつだっけ。

そのうちに医者と看護師が来て、質問や簡単な触検をされた。奇跡だ、と医者が呟く。

「念の為、もう2,3日入院しましょう。それと、心理カウンセラーを明日受けてください。」

「え、なんでですか」

「覚えてないのか」

夏樹が目を丸くする。

「お前、、、自殺したんだぜ」


自殺。自殺?俺が?ちが、俺は死神にあって、あれ?何言ってんだ、俺。

「そう、だったのか」

「桜丘の枯れた桜の木にロープを引っ掛けて、俺、約束通りに行ったら、お前が、首つってて、俺、」

「ごめん」

そう言うと、夏樹はまたひとつ涙を零した。分かったのだろう。俺が何も覚えていないことを。

『気が合うね』

冷たい氷に火が灯ったような君の声が響く。まひな、、、まひなに会いたい。まひなって、誰だ?

「あ、そうだ、お前のではないんだろうけど、これ、落ちてた。あと、あの絵は何を書いたんだ?なんかわかんないけど、背筋凍った。ほんと、綺麗だった。すっげぇ。」

夏樹は、真っ赤な花のピンを取り出した。

「、、、いっ」

頭の奥に骨に痛みがかかる。全身に鳥肌が立って、最初にあの子を見たあの場面が蘇る。あぁ、なんで忘れてたんだろう。まひな。何処にいる?

『条件を満たせば、ターゲットから外れることがあるわ』

俺は、「条件」を満たしたということか?

『,,,見てたら私はここにいないのだけど』

まひなは確かにそうも言った。1番最悪の考えが頭に浮かぶ。君は、死神ではいられなくなったのか?消えてしまったのか?

「俺のせいで?」

「結月?大丈夫か?」

どうしよう、どうすればいい、そうだ、あの丘へ行こう。行かなければいけない。

 立ち上がると、首が痛かった。信じられないくらい痛かった。首を吊った事実だけが俺を襲う。点滴を腕から外した。血が出た。痛かった。

「結月!?待てよっ行くな!結月!!!!」

でも、行かなきゃならない。生涯の親友を振り切ってでも、行かなきゃいけない。首を抑えてそんなことを思ってヒーローぶっている自分を滑稽だと思っても、行かなきゃいけない。

「大丈夫だから、行かせてくれ。」

夏樹は俺の目を見た。思わずそらしたくなるほど真っ直ぐな眼だった。そらさなかった。1分ほどそうしていると、夏樹は目をそらして、ベットに突っ伏した。

「行って来い。見なかったことにしてやるよ。」

こちらを見ると、赤くなった目でにっと笑った夏樹は、カッコよかった。よっぽどお前のほうがヒーローらしいよ。とは言わなかった。

「ありがとう」

真似してにっと笑うと、何も見てねえよ、と夏樹は、俺の背中を押した。





 丘には何もなかった。青い桜も、あのビー玉も、透明な壁も、真っ黒な椅子も、君も。

 それでもここにピンもある。俺が描いた絵もあった。夢ではない、と言う事がまた俺を傷つけた。蝉時雨が冷たく響く。絵に近づいて、そっと撫でた。完成した日、裏にふたりでサインしたことを思い出した。〖hilo mahina 〗月を、結ぶ。傷つけないようにゆっくり裏返すとそこには、書いた覚えのない字が綴られていた。小学生のような字で、

「結月へ」

そして、、、

「読めねーよ。まひな」

死神語、とでも言うつもりか、見たこともない文字が羅列されていた。俯いて、その文字に触れた。頬から涙が溢れて、その手に落ちる。夏が意地をはるように、俺を照りつけていた。帰ろう、と、手を離す。君忘れて生きていく。そんな俺を君はずるいと嘆くだろうか。それとも、、、バックから黒い絵の具を取り出すと筆代わりの手にしぼりだす。

「じゃあな」

目を閉じてその手を絵になすりつけ、、、ようとした。

誰かが俺の手をつかむ。目を開いた。

「夏樹、、、なのか?」

振り向けなかった。夏樹にしては小さなその手に気づいてしまったから。その手は俺の手をはなし、読めない文字を順になぞりながら、声を出した。透き通った何色にも例えられないあの声だった。

「結月へ

日本語の書き方を勉強したの。でもね、君に手紙の全文を日本語で書くには、時間が足りなかった。だから、君がこれを読むときは、私がもう一度君と会えた時なの。でもね、それはきっと、叶わないことだと思ってた。だってその時は、君が誰かに恋をして、かつ、その誰かが私じゃなきゃいけないから。」

君はそこで一息つく。背中から、桜の香りがした。俺は、何がなんだか分からなくて、ただただ目からは涙が止まらなかった。

「絶対無理だ、わかってるのに、そうだったらいいのにってずっと思ってた。君が絵を書いている姿を見ている時、たまに目が合うと、微笑んでくれた時。君に手に触れた時、その言葉に触れた時、笑いあった時。ずっと言いたかった。私は」

君が泣く音がする。

「私も結月が好き。君のおかげで人間になれたの」



丘の上から見える景色は綺麗だった。

「大丈夫?」

点滴が刺さっていたところから、まだ血が出ていた。

「大丈夫。」

まひなの黒い髪を撫でると、君はくすぐったいように笑った。風が吹いて、彼女の髪が揺れる。綺麗だ。

「つまりさ、俺が君のターゲットから外れるためには、俺は誰かに恋をしなくちゃいけなくて、君が死神の拘束から逃れるためには、君が人間に恋をしなくちゃいけない。と」

「改めて言われると君が中二病みたいね」

「俺じゃなかったら逃げ出してたね」

「何故?」

「そういう詐欺かもしれないだろ?」

まひなはクスクスと笑って、わざとらしく上目遣いで俺の手に自分の手を重ねた。あざとい。あざとすぎる。分かってるのに、心臓はばくばくと壊れそうに嘆く。

「そうかもよ?なぜ君は逃げないの?」

「恋してるから。」

重ねられたその手を掴むと、今度は君の顔が真っ赤になった。

「家族とかは?家とか、急に人間になって困ることはないのか?」

「それは、大丈夫。全部、私の思うままに。」

何だそれ、ずるいなと微笑む。まひなはほら、と前まで青い桜があった場所を指差した。額の汗を拭いながらその方向に目を向ける。小さな家が立っていた。青い屋根に、桜の花びらの塗装。扉も青く、丸みを帯びていた。丁寧に犬小屋まで形作られていた。まだ、家主は居ないようだが。

「いつ立てたの?」

「今」

「めちゃくちゃだ」

「しょうがないでしょ。きっと私達は物語の中にいるの。」

「素敵だ」

「そうでしょ?」

「気が合うな」

うん、と君が微笑んで頷くと、照りつけていた太陽が木に隠れて木漏れ日が頬にかかる。

僕らは手を繋いで目を閉じた。



 春になった。俺が自殺しようとした理由はまだ分からない。まひなも教えてくれない。きっとはっきりした理由などないのだろう。ただなんとなく、人生というものに疲れてしまっただけで死ねる。俺は、人間はそんな脆いものなのだ。

「結月、死ぬなよ」

夏樹がおちゃらけて、それでもどこか心配そうに、真剣に聞いた。

「もう死なねえよ」

「1回死んだのかよ」

「ああ、」

「うそつけ」

ふたりで笑いあう。もう死なない。

君達がいる限りはきっと死なない。

俺は儚い桜の下で誓った。

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