異世界転生した俺と、しなかった僕
篠騎シオン
第1話 こんにちは、俺!
暑い。
ただただ暑い夏。
耳をすませばセミの声、少し遠くで風鈴の音。
小さくうなる扇風機。
麦茶を飲みほしたコップの氷がからんと音を立てて崩れる。
額を流れていく汗は、たぶんすごくしょっぱい。
僕は、目の前に広がる課題の山を見つめて小さくため息をついた。
「夏休みの課題なんて無駄だろ」
いつもなら何てことはない夏休みの課題だが、僕には大きなブランクがある。
あちこちで知らない単語や公式が飛び交い、そのたびに教科書をめくった。
「事故さえなければなぁ」
そうつぶやかずにはいられないほどに、課題は遅々として進まなかった。
ぶーん
羽虫の音に誘われて、僕の思考は過去へと飛ぶ。
2か月前、飲酒運転によるトラックの人身事故が起こった。
被害者は僕。
幸い、命に別状はなかったが、けがの完治には時間がかかり、そんなこんなしているうちに、通って2年目になる高校は夏季休業へと入っていた。
そして僕のそんなこんな、の事情は関係なく授業というのは進み、世界はぐるぐると回っていくわけで。
回転して回った結果、回ってきたのが課題なわけだ。
なんて考えていても意味はなく、筆は進まず、課題も終わらず。
いい加減言葉遊びも疲れてきたところで、事故当時のことを思い出し、意識はさらに深く潜り始め、自分の部屋を抜け出して過去の扉を開いた。
はねられた人間が、それと気づくのはいったいどのタイミングなのか。
痛みか、それとも体につうじる衝撃か。
僕の場合、跳ねられたと気づいたのは、世界がスローモーションになったからだった。
人間は命の危機を感じると、脳の処理速度が飛躍的に上昇して、世界がコマ送りに見えるとか言われてるらしいが、その真偽のほどはわからない。
けれど実際に、それは起こった。
走馬灯か、脳の加速か。
ああ、もう僕はこんなときもうだうだと考えている。
スローモーションに動く世界を見つめながら、事故に遭ったんだなぁ、なんて僕は実感なく考える。
日本では年間に40万をこえる事故が起こっているらしい。
その中で死亡事故はどれくらいの数あるのだろうか。
そう多くはないだろう。
そして、その中で今はやりのアレを体験する人はどれくらいいるのだろうか。
そう多くはない中で、一人や二人いるのならば。
意外と確率的には高いんじゃないか。
体がちぎれそうな痛みと、トラックの光の中で
僕はゆらゆらとそんなことを考える。
そうだ、結構高いんじゃないかな。
——異世界転生をする確率は。
急な尿意を覚えて、僕は過去の扉から帰還する。
どうやら、麦茶を飲みすぎたようだ。
漏らさないよう軽くステップしながら、自分の部屋の隣にあるトイレへと向かう。
幸い、今は両親ともに外出中だ。
待たされることもないし、この変な動作を見られることもない。
そう思ってドアノブに手をかけた僕の体に、違和感という名の悪寒が走る。
僕は、自分の直感を無視するタイプじゃない。
でも、体に差し迫った尿意も無視はできなかった。
僕は逡巡ののち、ゆっくりとドアを開けた。
そこには、一人の男がいた。
男? 男子?
見たことない服を着ていたが、そいつはとても見慣れた顔で
そして見慣れた声でこちらに話しかけてきた。
「よっ、こんにちは、俺!」
トイレの鏡に映る自分とソイツ。
見比べて、僕が最初に取った行動は。
そいつをトイレから外に押し出しカギをかけることだった。
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