名案すぎる

「……なんで泣いてたの?」


 のんちゃんのほうが泣きそうな顔で、聞いてくる。子犬のような潤んだ瞳が細かく揺れてしずくがちらつく。


「なんか……俺は、何者でもなく俺なんだよなあって思ったら泣けてきたんだ」

「……?」

「どんなにがんばっても、大坂さんに好かれるような人間にはなれないんだよなあって思って」

「……」


 彼女が、うつむいた。


「いいんだ、もう。いろいろ諦めたから」

「っそんなの」


 にっこり笑うと、のんちゃんはぎゅっと眉を寄せて唇をへの字に曲げた。それから、慰めるような口調で俺に呟く。


「あのね、大丈夫。ちいちゃんにとって、彰ちゃんは特別だから!」

「……え?」

「わたしが言うことじゃないんだけど、ちいちゃんは伝える気がなさそうだし……」

「とくべつ……って?」


 のんちゃんは、相当迷うように口の中でいろいろと言葉をこねくり回すようにうなったあと、意を決したように顔を上げた。


「ちいちゃん、学校ではあんなふうにいつもにこにこしてるし、誰にでも優しくてすごく優等生で、なんかスーパーマンみたいだけどさ」

「……うん」

「家ではそんなでもなくて、機嫌悪いときとかすごくこわいし、全然サバサバしてないし」

「うん」


 のんちゃんが俺を信頼して姉の裏の顔について話してくれているのが伝わって、なんとも言えない気持ちになる。うれしくてむず痒いような、困ってしまうような。


「あのね、ちいちゃんが人前でがんばっていい子でいようってしてるそのモデルはね、彰ちゃんなんだ」

「……?」

「彰ちゃんが、誰にでも優しくてかわいく笑うのをずっと見てたから、自分にはなんでそれがじょうずにできないんだろうって、ずっと気にしてた」


 明り取りの窓からの光に不意に影が差し、見上げると、ほぼ地面と平行に取り付けられている窓に鳩が降り立っていた。鳩の足が窓ガラスを蹴るかきかきという音を聞きながら、のんちゃんの言葉に耳を傾ける。


「もともと、感情が表に出やすいから、嫌いな人の前でまで笑うっていうのは得意じゃないみたいで、だけどすごくがんばって、それができるようになって、……でも、ちいちゃん言っていたんだけど」

「なんて?」

「結局自分の外面って取り繕ったもので、彰ちゃんみたいに自然にはできないなあって」


 のんちゃんはそこで不意に口を閉ざし、ため息をついて膝を抱えた。

 俺も黙って、真似して膝を抱えてみる。頬を膝頭につけると、ぴりぴりと痛みが走った。それがなぜだか癖になって、痛いのを我慢できる限界まで押し付けてみる。


「だから、ちいちゃんにとって彰ちゃんは特別なの」


 だいじょうぶだよ、とくべつでもなんでもないって、わかったから。

 あの言葉の意味が、分かるような分からないような気持ちになる。彼女にとって俺の存在が特別だったのが、そうではなくなったのだろうか。そうだとしたら、それはなぜ?


「ずっと、ずうっと、彰ちゃんは特別だから、だいじょうぶだよ」

「……」


 のんちゃんが微笑む。その笑顔は、全然似ていないんだけどやっぱりどこか姉妹で、面影が重なる。でも、姉妹でまったく逆のことを言う。

 特別だからだいじょうぶだったり、特別じゃないからだいじょうぶだったり。よく分かんないけど、俺はどうやらだいじょうぶらしい。いったいなにが保証されているのって感じなんだけど。


「のんちゃん、あのさ」

「ん?」

「こんなこと言うと、変とか思われるかもしれないけど」

「うん」


 友達に言うときだって、こんなに緊張しないのに、やっぱり妹に言うときは違うみたいだ。口元を手で覆って、どう言おうかって視線をめぐらせて目を閉じる。


「大坂さんがかっこよすぎて、俺はもう女の子でいいかなって」

「……」

「メンタル的に、メスになりたいと言うか」

「……」


 大坂千寿のメスになりたいという気持ちが、どんなに嫌われても裏の顔を見せつけられてもどうしても拭えないのだ。あの目で見つめられたらきっと誰だってこういう気持ちになるって、今でも信じている。

 具体的にメスになるというのがどういうことかよく分かっていないけど、でもなんていうか、彼女を前にしていわゆるステレオタイプの男性性を誇示することってできない気がする。


「なんか……こう、比喩だよ、比喩なんだけど、抱かれたくなるっていうかさ……」

「……」


 のんちゃんがすっかり静かになっている。絶対引かれてる。もう駄目、ドン引きされた。

 やがて、痛々しい沈黙ののち、彼女が遠慮がちに口を開いた。


「それならさ、ちいちゃん、今カレシがいるじゃん? カノジョになればいいんじゃない?」

「…………名案すぎない?」


 ◆

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