メリシュの聖戦士
ライトミント
第1話 聖戦士ハバキの過去と現在
ある聖戦士の遠い過去の記憶、忌まわしくも彼の原点となった出来事。
黒髪で、九歳ほどの少年が群衆に混ざって走っていた。来ている服は埃や煤で汚れている。顔も同様で、目元は泣き腫らしたように赤く、汚れた頬を涙が伝った後が残っている。
町中から煙が立ち上っている。夜だというのに、家屋から燃え盛る炎が煙に反射しているせいで町は朱に染まっていた。
少年の家族はもはやいない。町は、人類の宿敵、邪神ムボウの眷属、ケバルの襲撃を受けたのだ。
町を襲ったケバルは一見すると狼のような姿をしていた。しかし実態はまるで違う。二階立ての建物に匹敵する体躯、針のように硬い黒の体毛、六本の脚、鰐のように長い口とぎっしりと詰まった鋭い牙、まさしく怪物と形容すべき威容だった。
町を襲ったその怪物は、ケバルの中では特異なことに従僕たるガランバを一匹も引き連れずに単身で街を襲ってきた。
神出鬼没、単騎であるために機敏、町に甚大な被害を与えることから、人類から『暴食獣』と呼ばれている。
町を守る兵士は壊滅していた。尖った牙は兵士を鎧ごと噛み砕き、長く鋭い爪は一凪ぎで人体を細かな肉片へと変えた。巨体に似合わぬ俊敏さとその体重から繰り出される体当たりを止められるものは誰一人としていなかった。攻撃の余波でさえ、瓦礫の四散は散弾のような勢いで兵士はおろか逃げていた町民を襲った。
少年の家族は、そうして飛んできた瓦礫によって死んだ。父と母、父の腕の中にいた幼い妹。逃げる際に少年より前を走っていた彼らは、上から落ちてきた大きな瓦礫によって一瞬にして地面の染みへと変わった。
今、少年の胸の内を占めているのは到底理解も納得もできない現実に対する絶望感だけ。それでも、膝をついて悲しみに浸る状況ではないため、ただ死にたくないという本能を振り絞って足を動かしていた。
少年が混じっている群衆もみな同じだった。我先に逃げようと走る人々。中には本来なら戦うべき兵士の姿も混じっている。任務を放棄し、足の遅い老人などを押しのけて逃げる姿は無様と言えるが、それを咎める余裕のある者は一人としていない。
暴食獣はすでに町を守る兵士を粗方排除していた。大地の神ドルドンを祀る寺院の破壊などとうに終えている。寺院の崩壊によって町を覆っていた結界は完全消滅し、町はもはやムボウの支配領域と化している。
ムボウの眷属としての役目を果たした暴食獣は、次に町の外へと逃げる群衆へと狙いを定めた。暴食獣は通常のケバルとは違い、ただ己の強化のみを目的としている。他のケバルならば他生物を喰らった後は従僕であるガランバを産み落とすが、暴食獣は己が糧とするのみ。
暴食獣は行く手を遮る進路上の建物をなぎ倒し一直線に群衆に向かう。破壊の音と怪物の息遣いが近づいてくるのを察した群衆は恐慌状態に陥った。
ただ早く逃げたい。そのためなら誰を突きとばし、引き倒しても構わないとする者さえいた。
少年もまた弱い者の一人として大人に突き飛ばされ地に倒れ伏した。それでも痛みをこらえて立ち上がろうとしたとき、恐るべき怪物の息遣いがすぐそこまで迫っていることに気付いてしまった。
恐る恐る振り向くと、そこには絶望がいた。地面に倒れ伏す人、這いずりながら逃げる人などを片っ端からその口の中へと放り込む恐ろしい怪物がいた。
血、肉、臓物などの臭いが鼻に飛び込んでくるような錯覚すら感じさせるおぞましい光景。暴食獣の牙と牙の間からは千切れかけの腕や足、内臓がひっかかっている。
少年はもはや、走ることも立ち上がることもできず、ただ見つめることしかできなかった。
暴食獣の歩みは止まらず、道にある肉を、丁寧に、余すことなく、綺麗に平らげる。
そうして互いの距離は徐々に縮まっていく。今の少年の状況を例えるなら、肉切り包丁に順々に切られるのを待つ肉の塊。少年はこのままいけば他の肉と同じように暴食獣に食われる運命にあった。
そしてついに暴食獣と少年との間に肉はなくなった。
暴食獣がその口を開く。口内は血で粘つき引いていて、錆鉄のような臭いを漂わせている。少年は恐怖で凍りついた身体の中で唯一自由が利く瞼を閉じ、最期の瞬間を待った。
「目を閉じるな、小僧」
その言葉と共に、暴食獣の身体が大きく弾き飛ばされた。高質量の鉄塊がぶつかり合うかのような衝撃音、少年の耳の鼓膜が震えた。
暴食獣は身体を十メートルほど吹き飛ばされながらも六本の足で地面に着地し、現れた敵を見据える。
少年の目の前には一人の男の背中があった。黒を基調とした革のコート。防御よりも動きやすさを突き詰めた戦装束。
手にするは戦槌。片側は槌頭で、もう片側は鉤爪。形状こそ普通だが、普通の兵士が扱う物とは違い、二回り以上大きい。
そこで少年は初めて聖戦士という存在を目撃した。生命の神メリシュと契約を交わし、本来与えられた人としての寿命を圧縮することで、ケバルと戦う力を得た者達。
現れた聖戦士は不動の構えで暴食獣と対峙していた。
「立て、お前にどんな悲劇が襲ったかは知らん」
そして、振り向きもせずただ言葉だけを少年に投げかける。聖戦士は右手を使って懐から赤い液体の入ったビンを取り出し、握った手の親指で蓋を弾き飛ばして一気に呷った。
「だがこの世に生を与えられた以上、命を全うする義務が人にはある」
聖戦士の言葉はなおも続く。それは不思議と、少年の頭の中にすっと入りこんでいった。
「どんなに過酷ても、その果てが無残なものであろうとも」
言葉を放ち続ける聖戦士の身体から次第に赤い蒸気が吹きあがりはじめる。まるで命そのものを燃やしているかのように。
聖戦士と対峙している暴食獣はその馴染みのある光景にますます警戒を強め唸り声を上げる。一方的な狩りは終わり、命を削り合う戦いが始まると。
聖戦士が両手で柄を握りしめて大きく構えた。そこから伝わってくる最後の輝きのような活力を、少年と、暴食獣は感じ取った。
少年はそれを見た途端に心を覆っていた恐怖が嘘のようになくなった。そして脚に力を入れて立ち上がると一目散にその場から走り去る。
「生きて戦い抜け」
聖戦士の最後の激励が少年の胸に突き刺さるが、決して振り向かなかった。
暴食獣の猛き咆哮が町中に響き渡る。彼がこの町を襲ってから一度として行っていない本気の威圧。
その中で少年は確かに聞いた。決死の戦いに挑むべく己を鼓舞する、聖戦士の雄叫びを。
月光が闇を照らす明るい夜。その月光すら届かない深い原生林の中に二人の男がいた。
二人はそれぞれ木の幹と倒木に腰を下ろしており、二人の間には焚き火があった。そして焚き火には下処理された四足獣の肉が枝に貫かれて吊るされ、炙られている。
二人の男のうちの片方は、黒を基調にした革のコートを着た青年。目にかかるくらいの長さの乱雑な黒髪、顔つきが少し幼く、目は大きく綺麗な黒瞳をしている。しかし鋭い目つきと硬い顔つきが彼の印象を手負いの獣のような剣呑としたものに変えていた。
青年の名はハバキ。ある過去を経て聖戦士になることを望み、ニ年前、その目標に手が届いた。
ハバキの対面に座るのは、ハバキより頭一つ背が高い坊主頭の男。ハバキと同じ黒い服装だが、コートではなく厚い革でできた軽鎧を着ている。人あたりの良さそうな人相と、余裕を感じられる佇まい。雄大に大地に寝そべる獅子のような風格。名をゴーダという。
ハバキとゴーダ。それが聖戦士となった名で、家名はない。聖戦士となったその日から、彼らはメリシュに仕える者として名を変えた。
「そろそろかね」
ゴーダは焚き火に吊るしている肉の火加減を見る。焼いている肉はただの肉ではない。ガランバの数あるうちの一種ガルムの肉である。ただの人間が食おうものなら、いかに調理しようとも浸蝕毒が体内に蓄積されることになるため、体内器官が強化されている聖戦士にしか食べられない代物だ。
ハバキは食事を嬉々として待つゴーダを仕方なさげな目で見ながら、自分も空腹だったため大人しく焼き上がるのを待つ。
そんな二人の男がじっと目の前の肉を見つめるだけの光景は、いったん中断となる。
先にゴーダが気づき、遅れてハバキも気がついた。自分たちのいる場所へとまっすぐ向かってくる何かの群れ。
ゴーダが目を瞑って耳をすます。彼の感覚は聖戦士の中でもとくにすぐれているため、向かってくる相手の歩幅や地面を踏む音、呼吸音などから、何者かをすぐに見極めた。
「ガルムだなこりゃ。まだおかわりって言ってねぇぞ」
ゴーダは背中に装着していた自身の装備を手に取る。一対のトンファー。ただしゴーダの腕よりも太く、普通の人間では扱いきれない代物だ。また特殊な鉱石が混ぜられた合金でできているため頑丈でさらに重い。
ハバキも腰に吊り下げていた武器を握る。斧、柄は太く短く、その代わり斧刃は大きく分厚い。切味よりも重量で押し切ることを目的としたもの。また普通の斧とは違い斧刃がついているほうの柄の先端は鋭く尖っている。
この斧もまた、ゴーダの武器と同じ合金を使っている。
ゴーダは尚も耳をすまし、向かってくる敵の全容を把握した。
「ハバキ、お前一人でやれ」
ゴーダは白けたようにあっさりと臨戦態勢を解いた。ハバキは顔を顰めてゴーダを睨む。発せられる怒気は人の肝を冷やすのに十分すぎるものであったが、ゴーダはどこ吹く風とばかりに頭を振って、
「来るのは少数だ、お前一人で充分だろ」
ハバキはため息を吐いた。序列はゴーダのほうが上、無茶を言っているわけでもない。断る理由がなかった。
観念したハバキは敵がやってくる方向へと駆ける。当人の感覚で言えばかけ足程度だが、それでも人間が出せる最高速度を軽く上回っている。
そして五百メートル走ったところでこちらへやってくる敵の一群を視認する。
ゴーダの言うとおり、ガルムの群れだった。姿形、大きさは大型犬と大差ない。違う点として無機物を思わせる不自然に硬化した皮膚をしていて、目も青く発光している。
ガルムもガランバの一種。ガランバとはケバルが他生物を喰らいその栄養をもとに生み出した従僕。死ぬまで上位存在であるケバルに従う。強さはさほどでもなく普通の兵士でも倒すことは可能だが、多勢で一斉に襲い掛かられた場合はひとたまりもない。
ハバキは確認を終えるとその場で跳躍、近くの木から木へと飛び移り、一群の進路上まで到達した。そして足場としていた太い枝から降下し、群れのうちの一匹に向け斧を振り下ろす。その一撃は狙った一匹に気づかれることなく頭をとらえ、粉砕した。
一匹がやられたことで群れは走るのを中断し、襲撃してきたハバキを囲もうとする。突然現れた襲撃者に対して警戒したためだ。
対するハバキはその囲みが完成する前に先んじて、自分の真後ろにいた一匹に向かって目線を合わせずに接近した。そして隙だらけの頭を横なぎに斬り飛ばし、その勢いを維持し半回転しながら、近くにいた一匹を同じ要領で切り捨てる。
残ったガルムは、野生であれば実力差を思い知って即座に逃亡するところだが、その気配はない。都合の良い従僕に過ぎない彼らには生存本能はないため、ケバルに植え付けられた他生物への殺戮衝動に従い、一斉にハバキに襲い掛かる。
ハバキは普通にしてても倒せるところだが、早く終わらせることを選んだ。
斧の柄の真ん中あたりに接合部のような線があり、その両端を握るとそれぞれ逆側に捻る。すると中に内蔵されたバネによって甲高い金属音を発し、柄の長さが一瞬にして変わった。
長柄となった斧の柄を両手で握ると、まずは突出していた一匹の頭を先端の突起で突き刺す。そして突き刺さった一匹を払い落とすと、重心を低く、腰溜めに構え、同時に迫る四匹が間合いに入ると同時に、四匹すべてを水平斬りで切って捨てた。
そうしてやってきた敵を全て始末したハバキであったが、当人にあるのは達成感ではなく徒労感のみ。彼ら聖戦士にとってこの程度は五月蠅く飛び回る蠅を始末するようなものだった。
一仕事終えたハバキがゴーダの下に戻ると、ゴーダは焼いてあったガルムの肉を串に刺して食べていた。
「安心しろよ、お前の分もちゃんと取ってあるから」
ゴーダの言う通り、ハバキの座っていたところには彼の分の肉が置いてあった。
ハバキは腰を下ろしそれにかぶりつく。散々食べなれている、少量の調味料がかかっただけの肉の味。それを美味いとも不味いとも感じずに作業的に咀嚼して胃の中に入れた。
「さすがに、ガランバがポツポツいやがるな」
食事を終えたゴーダが水筒の水を口に含みながら、先ほどの襲撃について話す。
「この世界じゃ人間の領域のほうが少ないだろう」
ハバキは皮肉げに返す。この世界で普通の人間が暮らせる土地はごく僅か。ドルドン寺院の結界が張られた町のみである。人間は外では生きてはいけない。外はケバルが発する瘴気によって汚染され、長く身を晒していると命に関わる。
「ケバルが近いってことさ。向かう先の町を襲おうとしてるヤツが近いってことならいいんだが、あいつらにも色々いるからどう動くかは、わからん」
「その町にも聖戦士がいるんじゃないのか?」
「寿命が近いおっさんが一人いる、まぁ、熟練だし簡単にやられることはないだろうけど」
ゴーダの話にハバキは少し興味を抱いた。戦いの中で死ぬことなく、寿命近くまで生き延びる聖戦士は珍しいためだ。
「知っている相手か?」
「シオヤって名前の背の低いおっさんでな、短槍を二本、両手に一本ずつ持って戦う。実力は俺のほうが上だが、長く生きてるだけあって機転が効く」
ゴーダはその人物を高く評価した。聖戦士は寿命が短いだけではなく、大体の者が無茶な戦い方をするので戦死者が多い。寿命が近い聖戦士は臆病と見られるか、あるいは戦い方が上手いか。シオヤはゴーダにとっては後者だった。
「とはいっても強い相手、暴食獣が相手だったら厳しいかもな」
そうして続けてゴーダが何気なく発した言葉。それは図らずもハバキの内に眠る殺意を急速に燃え上がらせた。ゴーダはその殺気を肌で感じながらも平然とした面持ちでハバキを見つめる。
ケバルに対する憎しみゆえに聖戦士となった者は多い、何も珍しいことではなかった。
「まだその町までは遠い、少し寝るわ」
ゴーダは横になって目を瞑った。ハバキはゴーダが眠っている間の寝ずの番として、座ったまま焚き火の炎を見つめる。
それからゴーダの口から発せられた暴食獣という名を頭の中で反芻する。もし今回のケバルがそれならば、彼にとっては願ってもない展開。
だが同時に不安もあった。あの震え上がるほど強大な存在に、自分がどこまでやれるのだろうかと。
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