貸した本には羽の鍵

つゆり

貸した本には羽の鍵

「あの本、買い取らせてくれないか」

 なにげない会話の流れで貸した古い単行本だった。そんなに気に入ってくれたのかと嬉しくなりたずねると、彼は申し訳なさそうに首を振る。

「まだ最後まで読んでいないんだ。しかしとある事情で、本を開くことができなくなってしまった。もう返せそうにない」

「開くことが、できない?」

 なにかのジョークかとも考えたが、あまりに真剣な瞳をしているので、ぼくも腰を据えて聞く気になった。彼が話したのはこんなことだった。


 就寝前、寝床で例の本を読んでいたところ、どこから入りこんだのか黒猫があらわれて――彼は人間のことばを話すのだが――羽をなくしてしまって帰れない、探すのを手伝っておくれと頼んできた。ものがたりと夢の境もわからぬほどするりと寝入ってしまったらしい。

 そうと気づけば気楽なもので、とつぜんあらわれた奇妙な生き物にも臆することなく、猫に羽があるものかと一笑に付した。彼は毛を逆立てて、正真正銘、かつてこの背には羽があり、それはそれは美しい羽であると抗議した。光を受けてさまざまに彩りを変える虹色で、その輝きに水面は喜びさざめき、夜の闇をもしりぞけるという。

 あまりにも熱弁するのでつい興味をひかれ、ならば探しに行こうじゃないかということになった。そこからはいかにも夢らしい荒唐無稽な大冒険がくりひろげられたのだが、割愛する。なにはともあれ、わたしたちは無事に虹色の羽を取り戻し、彼は得意気にそれを羽ばたかせて夜の彼方へと消えた。

 朝の気配に目を覚ますと、枕元に羽がひとひら落ちているのを見つけた。まぎれもなく夢で見た、あの虹色の羽だった。わたしは仰天してうろたえ、とっさにおなじく枕元にあったあの本にはさんで閉じた。


「その羽は、まだ本のあいだに?」

 彼はだまってうなずいた。

 虹色、とはよくある表現だが、実際にはどんな色なのだろう。それはシャボンのようなはかなさの、はたまた南国の鳥のように色鮮やかな艶めく羽か。

「ぜひ見せてくれよ」

「あいにくできない」

 ぼくは食い下がったが、彼もかたくなだった。

「むろん本を開くことができないというのは言葉の綾だ。わたしがしたくないだけなのさ。寝起きの頭と朝の光が虹色と錯覚させただけで、そこにはなんの変哲もない鳥の羽があるのかもしれない。もしくは羽をはさみこんだことすら夢なのか。どうあれあの美しい羽を手にしたわたしの感動だけは本物で、それはふたたび本を開かないかぎり永遠なのだ」

 結局、その本は彼に進呈することにした。ぼくにとっておもいで深い気に入りの本で、人生にただ一冊といえる手放しがたい本だった。しかし彼にとってもそんな本になればと願って貸し出したのであり、望んだとおりの存在となったことに、ぼくはたいへん満足したもので。

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