あらくね

 虚空に堕ちたのは何時だったか。私は神々の貌を覗く為、彼等の逆鱗に触れたのだ。其処までは記憶に鮮明だが、問題は現状で在る。ああ。私は何処に佇んで――否。私は其処で漂う魂か。夢の世界も覚醒の空間も闇黒に融け、沸騰する混沌に呑み込まれ、私は最奥の『 』に消えた。五感も殆ど薄れて往き、思考だけが残ったのだ。神よ。怒り狂った神々よ。沼の底で嘲笑う夜の鬼どもよ。尖塔で輝く幻想の日々を戻し給え。猫の群れが啼く街へと帰し給え。神官の祈る安楽の時へと遡らせ給え。懇願が無意味だとは容易に理解可能。されど私は過去を――夢現で最も幸福で豊かだった時空を――貪り尽くしたいのだ。偃月刀を作製する所業など忘れ、鼠との追い駆けっ仔を愉しみたいのだ。勿論、喚いても縋っても叫んでも蜘蛛の橋は在り得ない。淡々と哄笑する無音の闇が膨張し……橋だと。名案だ。素晴らしい思考回路だ。脱出の手を脳髄――精神だけだが――で練り混ぜるべきだ。彼女の肉体。彼女の精神。彼女の使命ならば私を救済に導ける。純白の塊は頑丈で成り、数多の世界を繋げる『もの』だ。さあ。私の舞台が始めった。独りで地獄を昇るのだ。孤独に虚空を這い在牙流のだ。神々の牙を潜り抜け、在るべき流れに戻るぞ。先ずは一本。粘着性を孕んだ糸を手繰ろう。次は二本。三本。四本。五本……私の作業は続いた。徐々に五感も取り戻し……ああ! 視得る。得たのだ。私は脱出の糸を重ねに重ね、夢への橋を創り成したのだ。有難う。旧支配者の思考回路よ。旧支配者の哀れな使命よ。如何か! 再開される人生に祝福を齎し給え。歩む。軋む。歩む。歩む。奈落へと墜ちるのは阿呆な解放者だけで充分だ。私は絶対に帰還して魅せるぞ――視ろ。光だ。虚空の窖が拓いたぞ。街が下方で華やかに! 私は堕ちる。地上へと堕ちるのだ。目眩く虚空へ『さらば』と嗤いを投擲し! さて。此処は何処だろうか。私は夢の土を踏んだ。人を呼ぼうか。おおい! 私は此処だ。私の帰郷だ。懐かしの我が幻想よ――足元に一匹の蜘蛛。




 糸に絡まった人間は、世界あらくねに貪り喰われて!

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