トワイライトゲートの彼方

狸屋十一

序の段

  好事魔多しと云ってよい事が続くときには災難に気をつけよという教えがあるが一方で泣きっ面に蜂なんて教えもあってつまり良いときだろうと悪いときだろうと災難には出くわすものだということである。



 海にほど近いとある中学、潮風が粘っこくなる夏至のころ、ブレザー服の中3男子、筧育人が給食後の狸寝入りをきめていたところにド金髪が声をかけてきた。

「なあ、お前金もってっか?」

「持ってるけど、何?」

「カンパしてくれや」

 白昼堂々の金銭要求。しかも教室、つまり公衆の面前で。だというのにクラスメイトの誰ひとりとしてそれを諌めようともしない。みな好き勝手めいめいに寝たり駄弁ったりオセロに興じたりしてる。

 どうなってんだ、とイクトは思う。これが田舎か、いまだにヤンキーが幅をきかし人々は犯罪行為に目をつぶる、ここはソドムの市なのか。

「なあ、金、200円でいいからよ」

 ホラ、とヤンキーが手を差し出してくる。椅子に座すイクトを上から見下ろして、片手ポッケでナメた態度で。

 イクトは激怒した。この邪智暴虐の輩の顔面に鉄拳を叩き込んでやらねばならぬと拳を固く握った。

 イクトはカラテマスターである。日本に古くから伝わる一子相伝の殺人拳の使い手である――――


 ロンドンに住んでいた頃にはそういう設定で金髪とのトラブルを回避してきたイクトだけれど、ここは日本。どうしよう。

 イクトは当年14歳、いろいろと病気しがちなお年頃、鞄の中には世界の霊界・異世界伝承などという本が入っているようなそんな子だけれど、そんな彼でも流石にこの状況では妄想と現実の区別をつけざるを得ないと悟り、しぶしぶ財布を出すのであった。

「200円でいいんだね」

「おう、サンキュな」

「何やってんの!」

 女子の声が響いたと同時、パコーン、と小気味のよい音がヤンキーの脳天から響いた。まるで空っぽのバケツを叩いたようなそんな音色。

「オーマ!」と、ヤンキーのドタマを後ろから日誌で叩いた女子が言う。「 アンタそれ端から見てたらカツアゲだよ完璧に! 」

「カツアゲ……ってアホかお前! やるかンな事! こんな公衆の面前で! やるなら校舎裏とかで――――」

「やるな!」

 再びパコーン。

「ごめんねー筧くーん」

 女子は右手を顔の前に、日誌を持った左手を腰の後ろに、ぺこりと頭を下げて言う。

「こいつアホだからさー、自分がどう見られてるとか判ってないのよ、本っ当アホだからさー」



 どんぐり眼にぷっくり唇、アップ髪の女子の名前は東美優、スポーツ脚もなんのその、スカートひざ上15センチをビシッと決めたクラスでひときわ目立つ女子。髪留めのワニクリップからはアクリルのイルカが2頭ぶら下がっていて歩くたびに白いうなじで飛び跳ねている。

 そんな彼女が言うことにゃ。

「実はさー、2組の男子がオハラ先生のスマホ壊しちゃってさー」

「はあ」

「直さなきゃいけないんだけどその子全然お金持ってないって言うからさー」

「ええ」

「学年全員でお金出し合おうって今クラス回って集めてんの」

「へえ」

「……筧くん、なんかものっ凄い他人事っぽいんですけど?」

「えっ?」

 他人事と違うの? という言葉をイクトは吞み込み言った。「いや……誰が壊したのか知らないけどその人に払わせればいいんじゃないの? なんで皆して――」

「お前なあ!」ヤンキーが机をバシンと叩く。

「ひっ」とイクトは縮みあがる。

「修理代1万円だぞ!? いちまんえんっ! 払えるかよそんな大金!」

「う、うん」

「みんなで出せば200円ずつ、だからお前も、ホラ、金よこせ」

「よこせとか言うなっ!」

 

 目元口元そろって弛んだヤンキーの名は橘央真、黄色髪に紺縁眼鏡をカチューシャ代わりに引っ掛けて、腕まくりした学ランで、前は当然フルオープンで、シャツは第三まで開けて首には黒地に金龍のネックストラップ、学ランの裾からはみ出たシャツの裾にも黒い龍が飛んでいる。

 「ヒッヒッヒ、大漁大漁」

 オーマはニヤニヤ笑いを浮かべた顔で、袋いっぱい溜まった小銭を手のひらですくっては戻しすくっては戻し……。

「あんたのお金じゃないからね、言っとくけど」とミュウ。

「わーってるよ!」

「たっつん、ありがとう、マジでありがとう」と、ガタイの良い角刈り男子が目を潤ませて言っている。

 彼こそがスマホをサッカーボールシュートで壊した犯人、張本人。で、そこで金集めを言い出し実行したのがオーマであった。

「いーってことよ」とオーマは言う、それからこっそり耳打ちで「来月牛丼、特盛な」と。

 それを聞きつけたほか男子が言う。「じゃ俺ピザな」

 他の奴らも乗っかって「俺チャーシューメン」「俺カツカレー、再来月でいいわ」なんぞとワイワイガヤガヤワイワイガヤガヤ。

(……なにこの茶番)とイクトは思う。

(てか、僕にも少しは感謝しろ)もちろん口に出しては言わないが。

 

 それから誰かが「みんなで職員室まで持ってこーぜ」なんてな事を言い出して。

 じゃらんじゃらんと高らかに小銭の音を響かせて、ヤンキーを先頭にして暇人ども20人あまり揃って職員室へ。

 なにやってんだとイクトは思う。こいつら何でいちいちつるむんだ、と。

 思いながらも付いて来たのはいわゆる空気というやつである。 

 扉が開く

「何じゃ橘、殴り込みか?」と日焼けした体育教師。

「ちゃいますて」

「オハラ先生のスマホ壊しちゃったから、みんなで修理のお金出し合おうって、それで集めてきたんです」とミュウ。

「ワタシ?」と言って自らを指さすのはもちろん件のミス・オハラ。

 今年の春から派遣で来ているALT、外国語指導助手である。

 

 アイスリン・オハラ。ケルトの血を引くアイリッシュ。青い瞳、白い肌、ルビーのような見事な赤毛を腰まで伸ばして三つ編みにしている。

 日本語は読み書きと発音以外は見事なもので持ちネタは「今年で10万20才デス」

 日差しが大の苦手だそうで顔にはいつもUVカットの大きな丸い伊達眼鏡、服はだいたいマキシ丈の長袖ワンピにサンダルないしおでこ靴。外では帽子は欠かさない。

 ちなみに禁句はイングランドにかかわる話題。うっかり口にしたが最後、先祖がジャガイモ飢饉のときに大英帝国野郎ジョンブルどもにされた仕打ちをまるで自分が味わった事のように滔々と語りだすものだから。

 そんなんだから、ロンドン帰りのイクトとしてはどうにもうかつに近寄りがたく、せっかくの英語力も授業では隠し通してペーパーテストのときのみ実力を発揮するという有様だった。

 

 そんなこんなで。

「アリガトー! みんなアリガトー! みんなイイコ、みんなスゴクイイコだヨ!」

 オハラ先生は感激しきり、子供たちの一人ひとりにハグしてほっぺにチュウをして。それを眺めてオッサンどもは子供はいいなと妬んだりとか羨んだりして。

 ま、そんなこんなで。

「んじゃ先生、失礼しまーす」「さよなら」「グッド・バイ」

 口々に言って生徒たちは退室していく。角刈りもミュウもイクトもオーマも。

 と、「ちょっと待った橘」と体育教師が呼び止めた。「おまえ今日の分のペナルティまだ残ってんだろ」

 ペナルティとはオーマの格好に関することで、もちろん服装規定違反なわけで、で、罰としてスクワット100回。それがオーマの日課となっている。一向に改める気がないからである。

「つまり毎日ここで筋トレすりゃあこのカッコでもOKってことっすね、いっすよ、夏に向けて鍛えときたいし」

「馬鹿野郎!」

 みたいなやりとりが過去にあったらしい、つまり更生する気も余地もない確信犯的常習犯。


「うーわ、それ今言う? あーあ、感動台無し。空気読めよ」とオーマはフテる

「関係あるか!」と体育教師。「文句いうならさっさと黒髪に戻して来い」

「んだよ、オハラ先生だって髪黒くねーじゃん」

「あれは自毛だからいいんだ」

「教頭先生なんてヅラじゃん」

「あれも自毛だ! 自毛ってことになってるんだ! いいから自毛ってことにしとくんだ!」

 中学校は社会の予行練習をするところである。そこで学ぶことの中には明らかに白いものでも黒と言い切る、そんなスキルも含まれている。

「とにかくだ! ルールは守れ、ルールなんだから守れ、ルールってのはみんなが例外なく守るから意味があるんだ。おまえは勝手な理屈でルールを曲げようとしてるがな、言っとくぞ、少数派の弱者の理屈を世の中じゃ屁理屈って言うんだ。世が世ならおまえ今ごろ体罰だぞ、竹刀百叩きだぞ!」

 体育教師は大いに吠えた。教頭の冷たい視線が背中に突き刺さっていたからである。が、オーマにとってはどこ吹く風。相変わらずのナメた面して。

「ふーん、例外なくっすか、ふーん」と、まだ職員室に残っていたイクトに視線をすべらせて。「んじゃアイツは何なんスか?」と問うて見せた。

 有神中の制服は古式に則り男子は詰襟、女子はセーラー。の中にあって、イクトは一人だけ現代風のブレザー服で通学していた。

「いいんだ、あれは」と体育教師は答えた。

「なんでっスか? 例外扱いっスか? ルールはみんなが例外なく――」

「うるさい! 他人の事より自分の事をまずなんとかしろ!」

 オホン、と誰かが咳払いをした。職員室中、体育教師もほかの教師も訊くなと言わんばかりの顔だ。

「なんだそりゃ」納得いかない、とオーマはイクトに詰めよりたずねる。

「なあなあ、おまえなんでいつまでも前のガッコの制服なワケ?」

 その高圧的かつ挑発的な、何よりナメた質問態度はイクトをひどくイラつかせた。

「またすぐに転校するから」ぶっきらぼうにイクトは答えた。「ぼくはいつまでもここにいる訳じゃない」

「マジかよ!?」とオーマは目を丸くして、ますます無神経に「それいつだ? 来週か? 来月か?」と身を乗り出して訊いてくる。

 イクトはしかめっ面をそむけて言った。

「わかんないよそんなの! いつかなんて知らないよ!」

「なんでわかんねえんだよ親にききゃいいじゃん」

「いないんだよその親が!」

 イクトはオーマを睨みつけた。野郎、きょとんとしてやがる。

「えっと……、それってあれか? 親が死んで親戚中たらいまわしとかそういう……」

「うるさい! ほっとけ! 関係ないだろ!」たまらず叫んでイクトはその場を後にした。

「失礼します! さようなら!」職員室の扉がピシャンと大きく鳴って震えた。



 川辺の道をイクトは走って家へと戻る。走らずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。

「クソうぜえっ!!」声は田んぼと山と雑草の景色の中に消えていく。

(なんなんだよアイツは!? いちいちいちいち訊いてきやがって! 詮索好きのババアかよ!)

「同情なんかしやがって、バカにしやがって!」

 道端のセイタカアワダチソウを引っこ抜いて振り回した。石を掴んで鉄橋めがけて投げつけた。ガードに飛び蹴りをくらわした。また、思いっきりダッシュした。

 ハア、ハア、と息を切らして歩いていくと道の先からキイイィィーーンン……とカン高い回転ノコの音が聞こえてきた。昭和造りの木造トタン、一部鉄骨スレートの、鉄工所兼自宅の建物。そこが叔父の家であり、イクトの今の住まいであった。

「もどりました」とイクトは作業中の叔父に帰宅の報告をした。

「おう、おかえり」保護メガネを額にずらし、咥えたばこで叔父が答える。「どうした? ケンカでもしたか」

不機嫌、と書かれたイクトの顔を見て、へっへっへ、と叔父は笑いながら言う。

「別になんでもありません、心配していただかなくて結構です」

 プイと顔をそむけるとイクトは自分の部屋へと向かった。


「なんで人が怒ってんのに笑うんだここの連中は」

 部屋の中、積まれた布団にボスンと寝ころびイクトは言った。まだイラだちは治まらない。クソっクソっと畳に拳を叩きつける。ボスンボスンと鈍い音が部屋に響いた。加えてギュイーン、ズバババ、トンテンカンテン……と、防音性能皆無の障子を抜けて鉄工の音が部屋を満たした。

「あーっ!! うるさい!」イクトはヘッドフォンをかぶり世界を遮断した。目を閉じ鼓膜をビートで満たせばそこはクラブハウスの真っただ中だ。レーザービームと爆音と熱狂! ――まあ、実際に行ったことはないんだけれども――、ともかくこんなクソ漁村とはかけ離れた洗練されてて且つちょっとヤバイ匂いの漂う世界だ。鼻をつく磯臭い匂いは無視だ。

 聴いてるうちにだんだんとノってきた。イクトは立ち上がりファイティングポーズを決めた。相手は蛍光灯のヒモ。

 BGMはThe Prodigy,[Breathe]

 シュシュッとカキーンと鋭く響く、サンプリングの金属音に合わせて、蛍光灯のヒモめがけてパンチ! 返ってきたヒモをウィービングで回避! さらにパンチ! ダッキング! 身をひるがえしてフックを打ち込む! とどめは必殺アッパーカット! ヒモは蛍光灯の器具の上へとリングアウト。カカンとゴングの音が鳴る。

「フン!」とイクトは口角を上げ「Fuck’in pisshed! これに懲りたら二度とオレにナメた口きくんじゃねーぞ!」ビシッと中指立てて言った。蛍光灯の器具に向かって、勝ち誇った表情で。

 いい運動になった。いい気分転換になった。やはり音楽は素晴らしい。だが少々のどが渇いた、ちょっと水でも飲んでこよう。

 と、

 振り返ると叔父がいた。 

 イクトは怪鳥音で叫んだ。「ほわーっ!?」

 叔父だけではない、何でか知らんがオハラ先生までそこにいた。

「叔父さんっ!? 先生までっ!? なっ、何でっ!? 何で勝手に入って来てんの!?」

「いや、何度も何度も声かけしたぞ……」

「イクトくん超ノリノリでしたカラ……」



「お茶、ここに置いとくからな」と言って叔父は出て行った。

 部屋の中、体育座りのイクトと横座りの先生は微妙な空気を間に挟んで向かい合っていた。

 沈みかけた陽。カエルの鳴き声。秒針の音。

「……なんでここにきたんですか?」抱えた膝から目だけをのぞかせイクトが問う。

 ふと、先生は眼鏡を外し、たたんで膝の上に置き、言った。

「イクトくん、他のセンセイからききまシタ。ご両親がイングランドで行方不明になったソウですネ」

 きれいな、吸い込まれそうな瞳、ふしぎと心がほどけるような、魔法がかかったような瞳。

 それでも

「なんでそんなこと訊くんですか?」 触れないで、と乞うような顔でイクトは先生に視線を放った。

 先生はイクトのおびえたような目をまっすぐに見て、「詳しいことを話シテもらえませんカ? 力になれると思うのデス」と言った。

 沈黙のまま壁で分針が二回転して、イクトはぼそぼそ声で語り始めた。

「信じてもらえないと思うし、別に信じてもらわなくてもいいんですけど……」

 

 

 それは今年の春の事、イースター休暇の小旅行の最中に起こった。イクトのたっての希望で古城めぐりをしていた帰り、城の近くにちょうど海があったので、せっかくだし夕日を眺めていこう、となって、家族で堀の小道を進んだ。イクトははしゃいで先を行き、遅れてくる両親を振り返って見た。

 その時だった。影が奇妙にうねり出し両親を呑み込んだ。

 探してみても二人の姿はどこにもなく、跡には水たまりだけが残されていた。

 そして帰国を余儀なくされて、こうして叔父の家にいる。


 先生は黙って聞いてくれた。イクト自身ですら有り得なさに空笑いを浮かべるような話だったが、それでも、黙って真剣に聞いてくれた。

 

 イクトは泣き笑いの表情でうつむいていた。膝の上の握った拳が細かく震える。胸と喉のあいだに気持ちの悪い熱がこもって、今にもぼろぼろ溢れそうだった。

 あの日から今日まで濁流のように。

 警察にはしつこく尋問され、ブン屋にはつきまとわれ、偽善者どもにおもちゃにされ、偽悪者どもに嚙みつかれ、何もかもがぶち壊された。

 友達との関係も、おとなへの信頼も、進むはずだった未来も。


「すみません、先生、そろそろ」

 帰ってもらえないですか、と顔を上げると、先生は身を乗り出して来ていた。そしてイクトの震える手に手を乗せて、きっぱりと言った。

「行きまショウ、イクトくん、ご両親を連れ戻しニ!」

 言うや否や素早く眼鏡をかけなおし、帽子をかぶり、イクトの手を取り、でかいカバンを肩にかけ、障子を開けて、早足に歩き出す。

「先生、何を!?」

「大丈夫、私がついてマス!」

「でも、行くってどこへ!?」

「ごめんネ、日本語じゃ上手く説明できないノ」

「英語でいいです!」

「Another World」

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