月と夜鷹
夏鴉
月と夜鷹
あちこちきりきりと痛む身体を引き摺りながら見慣れた道を行く。
時刻は今日と明日の間くらい。黒々とした夜空に無数の星と白い月が浮いている。その中にぼんやりと電線が溶け込んでいて、道を照らす街灯はばちばちと点いたり消えたりを繰り返している。道が見にくいったらありゃしない。何処に宛てる訳でもない舌打ちが夜の空気に溶けていく。
数分も歩けば、夜空を貫くような高層マンションが俺の前に現れる。俺の目的地。入り口の集合玄関機に目的の部屋番号を打ち込み、呼び出す。
『はい』
「俺だけど」
『⋯⋯ん』
言葉少なな返答。だが、それが了承であることを俺は知っている。スピーカーがぶつりと音を立てて切れ、同時に目の前の自動ドアが音もなく開く。何時も通りだ。エントランスホールからエレベーターに乗り、御目当ての階まで上がって、廊下を進んで、無機質な黒いドアの前に立つ。そしてその横の、「
「よっ」
顔を覗かせた家主、上弦
「⋯⋯入って」
「おう、邪魔するぜ」
勝手知ったる、って場所だ。俺は一言置いて靴紐を解く。その横でばたりと玄関のドアを閉めた佳月はこれ見よがし、と言わんばかりの大仰な溜め息を吐き出していた。
「喧嘩、したんだ」
「ちげえよ」
足を靴から引っこ抜いて、立ち上がる。
「俺は何にもしてねえ。どっかで恨みでも買ってたっぽい」
今でこそ多少は大人しくなったつもりだが、ちょっと前までは随分とやんちゃをしていた自覚はある。だから、今日の一件だって予期せぬ事態、という訳じゃなかった。
「コンビニで買い物して、外出たら連行されてよ。⋯⋯あ、これやる」
「そう」
菓子やチューハイの入ったコンビニの袋を押し付ければ、表情一つ変えず佳月は受け取る。今に始まったことではない。こいつの表情筋は大体死んでいる。玄関から短い廊下を進めば、生活感の薄いリビング。適当に放られていたクッションの一つを尻に敷いて、話を続ける。
「そんで、まあ色々? 文句言われてちっと殴る蹴るの暴行を受けて? 勿論仕返ししたけど、まあ傷は痛えしすっげえ疲れたしで此処に来たって訳よ」
「ふうん⋯⋯」
相も変わらない表情のまま、俺の押し付けたコンビニの袋を握り締めたまま佳月は気のなさそうな返事を返してくる。かと思ったら前髪の間からきりりと吊り上がった目を覗かせて、
「夜出歩くの、止めたほうが良いんじゃないの。少なくとも、しばらくはさ」
そんな、説教じみた言葉を放ってくる。無関心、みたいな表情を浮かべてはいるが、お人好しなのだ。
「何かあったら、それこそ大変でしょ」
「んな心配しなくても、俺、腕っ節強いし」
「そういう問題じゃないって」
むっとしたような声を出して、握り締めていたコンビニの袋をがさりと開く。
「今時、何があってもおかしくないでしょ。だから、腕っ節でどうにもならないことだって起こるかもしれないじゃん」
「そうかあ?」
「そういう御時世だと、俺は思うけど」
袋の中からチューハイを取り出して、佳月は言う。奴の手の中で、チューハイは汗をかいていた。ぱたり、と水滴が佳月の手を伝って、フローリングに落ちる。それを疎ましそうにしながら、佳月はチューハイを俺に投げて寄越す。
「サンキュ」
「買ってきたのはお前じゃん」
真顔で言って、佳月はもう一本取り出したチューハイをかしゃりと開けて一口飲む。そして思い出したようにまたコンビニの袋を漁り出す。さらり、と伸ばされた髪が重力に従って横顔を滑っていく。何とはなしに、俺は横顔に――正確には耳に視線を向けた。長めの黒髪に隠されている佳月の耳には耳たぶばかりでなく、軟骨にも幾つか穴が空いていて、そこを大振りのピアスが縦横に貫いている。リビングの白いLEDの光にぎらぎらと輝くそれらは、佳月の口調とは不釣り合いの、暴力的な何かを感じさせる。
「これ、どれ開けても良いの?」
「あ? ⋯⋯おう、好きなの開けろよ」
「そ。じゃあこれ開けよ」
普段からお気に入りらしいパッケージを見つけ出したらしく、幾分弾んだ声を上げて袋を開いて、チューハイを置いていたテーブルに乗せる。
「
「俺が買って来たんだし、言われるまでもねえよ」
「それもそっか」
ふ、と一瞬だけ笑みを覗かせて佳月は開けた菓子に手を伸ばし、口に放り込む。そしてチューハイを少しずつ煽る。放って置けば俺の分までこいつは食ってしまうので、俺も佳月に倣って菓子をつまみにチューハイを喉に流し込んでいく。その最中に、ふと思い立って俺は話題を投げてみる。
「佳月」
「⋯⋯何?」
口の中の物をきちんと呑み込んでから、佳月は返事をする。育ちの良いこいつは、口の中に物がある時は喋ったりしない。
「お前、ピアス止める予定とかねえの?」
「増やすならともかく、止めるつもりは毛頭ないよ。⋯⋯何で?」
こいつ、まだ増やす気か。いや、佳月の場合ピアッシングは悪癖のようなものだし、ストッパーがなきゃ幾らでもやらかしちまうから当たり前の答えと言えばそうなんだが。⋯⋯まあ、それは俺が止めれば良い話だ。増やす云々は一旦棚上げにして、佳月の問いに答えておく。
「お前、良くない噂あるじゃねえか」
「⋯⋯ああ、まあ、そうだね」
つまらなそうな顔をして、佳月は事も無げにまたチューハイを煽る。ピアスまみれの耳。そうでなくても、こいつは所謂強面と呼ばれる顔立ちだし、髪も伸ばしてハーフアップにしていて、まあ、早い話、かなり浮いている。悪い意味で。だから、上弦佳月という男を勝手に恐れていたり、嫌悪していたりという人間は案外多い。実際はポーカーフェイスののほほんとした奴ではあるんだが、ドギツい外見に中てられた連中はこいつの内面に踏み込んでみよう、なんて高尚な考えは持たないのだ。
もっとも、当の本人はどうでも良いらしい。
「でも、それで実害ある訳じゃないし。無駄な人付き合いしなくて済むから、俺は別に気にしてないよ」
なんて言って、新しい菓子の封を開けようとしていた。気にしていないのは結構だが、人付き合いを面倒臭がるのはいかがなものか、なんて自分を棚に上げて考えてみる。⋯⋯俺の場合、良からぬ人付き合いばかりしていたせいで現在色々と面倒なことになっているから、佳月には何も言えないんだが。
「それに鷹司だけで俺は手一杯だし」
「⋯⋯どういう意味だよ」
「危なっかしいじゃん。だから色々落ち着かないの、俺は。これが何倍にもなるんなら、お前だけで良いよ」
「へいへいそうですか」
こいつは一体俺を何だと思っているんだ。むっとして軽く睨んでやると、くすりと笑声を少し零して佳月は頬杖を突いた。
「嫌なら自分の行動見直してみてよ」
「うるせえ、俺のやることに文句付けんな」
「心配してあげてるのに」
「上から目線腹立つ」
「そうかなあ?」
ちょっとだけ困ったように口の端を緩めて、不意に佳月は俺の目を真っ直ぐに見詰める。
「でも、心配してるってのは本当だよ」
「分かってるよ」
ドギツい外見をしていてもこいつは何処までもお人好しだし、真摯な奴だ。俺は良く知っている。だからやれやれと肩を竦めて、佳月を安心させる言葉を吐く。
「ま、しばらくは大人しく家でねんねでもしてるさ」
「うん、それが良いと思うよ」
そうすれば、佳月は安堵を滲ませて薄く笑む。
「連絡入れたら、昼でも俺いるから」
「そうかい」
言葉を返すと、不意にじくりと身体が傷んだ。そう言えば、怪我を放ったらかしてたんだったか。
「佳月、救急箱」
「あ」
間抜けた声。
「お前忘れてたろ」
「だって鷹司がこれ渡してくるし」
立場が逆転する。決まり悪そうにコンビニの袋をばしばしと叩く佳月に笑って、手をひらつかせる。
「はいはい。んで、救急箱」
「分かったって、今取って来るから」
慌てて立ち上がり、台所へ向かう背中を見ながら、俺はひっそり笑う。
巷でやたらと遠巻きにされてる奴が、実はこんなに面白い奴だって知ってるのは、俺だけだ。
何と言うか、得な気持ちだった。
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