Q

@kawatakukansai

第1話

4月23日朝8時。いつもの千里山駅からいつものように一本の電車が梅田へと向かう。ただ一人、僕は涙を堪え切れずにホームに立っていた。

また一つ、恋が終わろうとしていた。そう思っていた数分前の感情はもう既にかなり遠くにあるように感じる。


中学一年生になって間もない頃、僕が三歳の時から通っている英会話の塾で彼女に出会った。彼女もまた、三歳の頃からこの塾に通い、そしてこの度同じ市内で唯一の中高一貫校に通っていることがわかると、僕は至って普通の感情という程感情でもない気持ちを彼女に対して抱いていた。特別な感情はまだそこには無かった。


中学生___か。


僕の中学校生活を端的に表すならば授業、部活、ゲームの3つのこと以外何もしていなかった。ただ成績は良かったし、中学入試時点では首席にいた。もともと僕は、その中学を勉強ではなく小学校の頃から力を入れていた陸上競技における環境の良さを理由に選んだ。強豪であった部活は自分が想像していたよりもずっとブラックで、中学生でありながら練習内容は高校生と同じハードな内容であった。疲弊して帰宅しその疲れをゲームで癒す毎日は、僕の成績に影響を与えるには十分すぎた。厳密に言えば、そのゲームのために友人と遊ぶということも疎かにしていたので人間関係すら破綻していたといっても過言ではないだろう。現にそのとき僕はクラスの中に友達と呼べる存在がほとんどいなかった。そんな学校生活と犠牲に手に入れたのはそのゲーム界隈の中での地位である。ネットの海に入れば、僕のことを認めてくれる人がたくさんいた。その中には僕と"同い年"の好敵手と呼べる存在もいた。



ある日、好敵手はいきなり引退宣言をしてきた。

僕が理由を問うと、「彼女ができた」の一言が返ってきた。

面食らった。単純に驚いた。同時に焦燥感を覚えた。思えば異性を可愛いと思ったり好きという感情になったことはあるが、パートナーとして付き合うという思考にまで至ったことがなかった。自分にはまだ早すぎると決めつけていた、というのが大きな理由だ。だが、気づけば中学2年生じゃないか。小学生とはもう違う。今まで愛とも恋とも無縁だった中学生活を送ってきた僕は何だか彼に対し敗北感を抱いていた。

僕はそのゲームとの決別を選んだ。


冬だった。


ゲームのない生活は、とても新鮮だった。部活動は今まで以上に力が入ったし、大袈裟かもしれないが、それまでの自分が小さく思えた。


しばらくその生活に慣れると、僕の目に映る世界は以前とは一線を画していた。「彼女」が映っていたのだ。よく見れば少し茶色がかっている黒髪を後ろで結い、すっとした輪郭に垂れ下がる触覚。普段は細いが、時々見せるくりっとした目。ゆったりとした雰囲気にあう可愛らしい声。決して完璧ではないルックスだけど、その時の僕にとって魅力的という他はなかった。


恋である。


最初に述べたように、彼女との接点は学校を除くと英会話塾だけである。そして僕は学校では彼女はおろか、他の女子と全く喋っていなかった。そんな状況から始まった恋愛の難易度はハードモード以外の何でもない。それでも彼女のことを好きだと自信をもって言えるほど、彼女に対する思いは強かった。


脳裏には引退の際の彼の言葉があった。


「彼女」___ガールフレンドか、、、

恋愛関係にある男女というものは、互いのどちらかが相手に気持ちを打ち明けてこそ成立するものだろう。

ならばすることは一つじゃないか。


冬が終わりかけていた。


僕は彼女に対する気持ちを打ち明ける場として、塾の帰り道を選んだ。正確には帰り道というか、彼女に関しては親が塾に車で迎えにくるので、それまでの待ち時間、塾の前に突っ立っている時間に告白しようと決めた。

(その塾は僕たち二人の他にもう一人同じ時間に受けていたが、その一人はそそくさと帰るので二人きりになれたのだ)

しかし、たくさんある懸念事項の中で特に引っかかっていたのは、今まで碌に喋ったこともない人間に、いきなり付き合ってほしいなどと言われても失敗するのは目に見えている、という恋愛経験の無い僕でもわかるような事実であった。


まずは一緒に遊びに行く誘いをするべきだろう。一緒に食事できるだけでもいい。まずはそこからだ。


(付き合ってほしいと告白することも、一緒に遊びに行かないかと誘うことも、それまでの2年間碌に喋ったことのない人間に言われたならば好意が剥き出しであることに変わりはない。要は程度の問題である。

今思い返すと当時の自分の恋愛下手は苦笑ものだ。)


当たって砕ける覚悟はできていた。できていたはずだった。僕は毎週木曜日、塾が終わる度に勇気を振り絞って彼女に話しかけようと試みた。毎週毎週試みた。

御察しの通り、僕はとうとう2ヶ月もの間彼女に話しかけることすら叶わなかった。


これでは埒があかないと考え、クラスメイトに相談することにした。


僕が選んだ相談相手は二人。一人は小学校からの付き合いで数少ない友人と呼べる男子H。

もう一人は、恋愛経験が豊富、というよりかは遊び人で比較的話しやすい彼女とも仲のいい女子S。


前者に関しては、僕と同じ恋愛経験が皆無でこれからも無い気がするような奴だったし、あまりあてにはしていなかった。むしろ、気持ちを打ち明けることで楽になる目的の方が大きかった。現に最初に打ち明けたときは小馬鹿にされたし、Hも傍観する立場としてそれを楽しんでいたように思える。


僕にとって相談相手の本命は紛れもなく後者であった。

普段授業態度のとても悪いSにしては意外と、僕の話を真剣に聞いてくれた。僕が彼女を遊び誘いたいという旨を伝えると、協力すると言ってくれた。


具体的にどう協力してくれるのかというと、僕が彼女を直接遊びに誘うのではなく、Sを介して、つまりSが主催となって遊びに誘ってくれるということだった。


「じゃあ、それで頼むわ。お願いします。」


そう告げて僕は部活へ向かった。


部活を終え帰宅し、家の中でいつものように携帯をいじっていると僕宛の電話がかかってきた。Sからだった。

「川口が付き合ってほしいって伝えたらいいよって返ってきたで!」


…何を言っているんだこいつは。いや、俺はSには遊びに誘ってくれと伝えたはずだ。なのになんでもう重大な告白イベントがすっ飛ばされているんだ。

そう思ったのは刹那、すぐにどうでもよくなった。彼女は僕と付き合うことにOKを出してくれたのだから。


Sはこの電話が終わったら彼女に電話してあげてと続けた。


電話が終わって少し気持ちの整理がつくと僕は何が起こったのかを漸く理解し始め、嬉しくて嬉しくてたまらない感情に支配されていた。急いで彼女の電話番号を連絡網から調べてかけてみる。


心臓はバクバクだった。うまく言えないが、とても緊張していたけども、ものすごい安心感にも包まれていた。3連覇がかかった世界大会でたった今優勝を決めたオリンピック選手のような気持ちだろうか。


愛嬌のある声が聞こえる。


「あの…Sちゃんから聞いたんやけど、付き合ってもいいよ。いきなりのことでびっくりしたんやけど…とりあえず、月曜日一緒に帰ろ。そこで話そ。」


5月24日、金曜日。彼女との交際が始まった。

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