「おるで」

鳩理

本編

 2014年2月、僕は仕事の関係で神戸市中央区の「花隈町はなくまちょう」に住み始めた。

 神戸駅付近と三宮。2つの繁華街を繋ぐ道中に花隈は位置するが、商業施設は少なく、24時を過ぎれば人通りもほとんど見られない、光と光の間に一寸落とされた影のような地域だった。当然、治安もあまり良くはない。しかし家賃は安い。

 背に腹は代えられない経済状態で選んだ不動産は、後々詳しい人に聞いたところによれば、その花隈の中でも一癖のある物件だったらしい。


 当時、いわゆる社畜だった僕は、9時に家を出て26時頃に帰る生活を続けていた。

 常識的に考えれば、人々は寝静まっている時間帯のはずである。

 しかし、僕の部屋の上階に住む住人は、僕が帰宅すると決まって宇多田ヒカルの「First Love」のサビを延々と裏声で歌っているのだった。

 また、隣室の男性も曲者であった。僕が入居して1ヶ月程経った頃から、27時を過ぎると相当の力の入れ具合で壁を殴りつけるようになった。ひどい時は、その壁への殴打が29時頃まで続き、警察に通報したこともあるほどだ。

 また、これは後で知ったことだが、階下の部屋は「百鬼夜行」という風俗店の待機所でもあったらしい。

 とにかく伝えたいのは、仕事の状況と住居環境が相まって僕の睡眠不足は深刻であり、精神状態的にも相当追い詰められていたということだ。

 だから、ここから先の僕が体験したことは、もしかすると幻覚なのかもしれない。


 ある晩、仕事から帰宅してマンションの前に辿り着くと、歩道とエントランスを繋ぐ階段部分に制服姿の女が座り込んでいた。両手で覆うように俯いていたため顔は見えなかったが、傷んで潤いのない長く伸びた髪が印象的だった。

 時間にして恐らく27時頃。目の前にはセーラー服を着て俯き座り込む女。

 どう考えてもトラブルの種だと思った。なので、僕は無視して自室へ向かった。

 部屋に着いた僕は、しかしすぐに手持ちの煙草を切らせていることに気が付いた。

 マンションの数件隣がコンビニなので、面倒ではあるが買いに行こうと思い立ち、エレベーターを降りたところでまだ座り込んでいる女の後ろ姿が目に入った。

 1度は無視したものの、もしも具合が悪く、たまたま自分が見逃したせいでどうにかなってしまえば、それはそれで後味が悪い。

 そう思って僕は、エントランスを出て通路側に回り込み、恐る恐る声を掛けた。

「すいません、大丈夫ですか?」

 しかし、女は俯いたまま微動だにせず返事もない。

「すいませーん! どうかしましたか? 具合悪いんですか?」

 少し大きめの声で呼びかけ続けるが、やはり応答はない。

 肩を揺すってみようか迷ったが、なんとなく触れることに抵抗を感じた僕は、半ば叫ぶような声色で「おーい!」と呼び掛けてみた。


 直後、自分の後方から「どうしたんやー?」と呼びかけられる声がする。

 振り返ると50mぐらい先に自転車のライトが見えて、それがすぐに巡回中の警察官であることがわかった。

 僕はほっとして、自転車を降りた警察官の方に歩み寄り、「実はさっきからマンションの前に制服の子がおって……」と説明を始めた。

 少しの間うんうんと頷いていた警察官だったが、少ししてから僕の背後を覗き見るようにした直後「え、どこにおるん?」と言った。

「え? すぐそこに……」と振り返って指さそうとしたが、ものの十数秒の間に階段に座り込んでいたはずの女は居なくなっていた。

「ええっ、今までそこにおったんですけど……」

「いや、おらへんやん。大丈夫? なんかやってんちゃうやろな? 一応免許見せてくれる?」

 軽い職務質問のようになったが、目の前のマンションが免許証の住所と一致したことで一応の信用を得られたのだろう。時間が時間だから早く帰るようにと促されたあと、警察官は自転車に跨って去って行った。

 正直、霊的な云々よりも自分の疲労状態を本気で心配したことを覚えている。


 その後、我に返り目的を思い出した僕は、煙草を買いにコンビニへと向かった。

 しかし、コンビニから帰ってマンションの前まで戻ってくると、また同じようにして制服の女が階段に座り込んでいたので驚いた。さすがにここまでくると、気味の悪さや薄ら寒ささえも感じ始めた記憶がある。

 けれど、その女が座る階段を通らなければエントランスには入れない。

 なるべく距離を取るように、階段の端の方を恐る恐る僕は登った。

 しかし、相変わらず微動だにする気配がなかったので、少し気が緩んで思わず「またおるやん……」と僕は漏らしてしまった。

 そして横を通り過ぎた直後、力強い声で女が言ったのを確かに聞いた。


「おるで」


 僕はエントランスを一気に駆け抜けてエレベーターの開を連打し、幸いにも1Fに止まったままのエレベーターにすぐさま乗り込むと、エントランス側に視線を向けないように8Fのボタンを押して閉を連打した。


 その後、数日間はその女と鉢合わせるのを恐れたが、幸いにも僕が花隈の町を去るまで再び会うことはなく現在に至っている。しかし、あの階段に座り込む女のシルエットと、掠れたようでいてしっかり耳に届く「おるで」の一言は未だに忘れられないでいる。

 

 

 

 

 


 

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「おるで」 鳩理 @atslevon

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