僕の病気とカップルの話

高村千里

第二作目

「いつも彼女はああなんだ」

 僕の隣に、よいしょと腰を下ろした彼は不満げだった。目の前を、髪をくくった若い女性が忙しそうに早足で通っていった。

「僕のことが嫌いなら、言えばいいのに」

 ぶつくさと文句を吐きながら、それでも目線は彼女が歩き去った場所を見続けている。僕は彼の言葉と行動の不一致に呆れてしまって、立ち上がった。眼前にはガラス扉。さっきまで吸っていた煙草のにおいと、たゆたう白い筋が、宙にまだ残っている。座っていたベンチに置いていた煙草箱を懐に回収し、無言のまま喫煙所を出た。

 彼と会ったのは、もう三日も前になる。僕はかかりつけの病院に行くことになっていた。そのとき、僕は腹をくくっていた。大学を出て社会人となって早七年。妻どころか彼女も作らず生きてきたが、今思えば少しくらいは遊んでおいても良かったかもしれない──こんなことになるなら。

 待合室はとても混んでいて、三十代目前の男にとっては居心地が悪く、病院の外で待つことにした。”彼”に出会ったのはそのときだった。駅前のカフェの喫煙所には僕一人が居座っていた。

「死んだような顔して吸っていたって、美味しくないでしょ」

 喫煙所に突然現れた男は、僕の前に立つなりそう言った。僕は自分の身のことを思い出して不愉快になり、口にくわえた煙草が急に不味くなった気がして、まだ吸えるそれを捨てた。開けたての、一番目のやつだった。

 男はほらね、と言うと、僕の隣に移動して、所どころに白いひっかき傷のある黒いベンチに座った。うるさい、お前のせいだと心の中で毒づきながら、僕もベンチに座った。男は不自然なくらいきれいな体をしていた。姿形がではなくて、細部が作り込まれた緻密さのようなものが男にはあった。同性の僕ですら、数秒は引き止められ、凝視してしまいそうな程。

「あんたは元気そうだな」

 ガラス板ごしに道を行き交う人を目で追いながら、僕は男の返事を待った。

 もう五十人は、通り過ぎた。僕が彼を振り返ると、彼はその顔に小さな変化を浮かべていた。笑っている。あんた、呑気だな。僕の方は深刻なのに。

 男は僕と同じくらいの歳に思えた。ガラスの奥を見るのをやめ、僕は思い切って訊いてみた。

「あんた、彼女いるの?」

「いるよ」

 間髪いれず男は言ったので、僕は見ず知らずの人間を瞬間的に恨めしいと思ってしまった。いいなぁ彼女、羨ましいなぁ彼女。いやいやこの歳になったらもう相手はいるものか、あーだから最近実家の母が口うるさくなってきたのか、と僕は切なく回想した。こうなったら訊いてしまった僕の非だ、のろけの一つでも聞いてやろう、と男を顧みると、彼はいつの間にか隣から姿を消していた。その背はすぐに、喫煙所の外で見つかった。急に飛び出していって一体何なんだ! という疑問は彼の視線を追いかけて霧散した。

 横顔のきれいな美人だった。髪を低い位置で縛っているせいで浮き彫りになるすっとした輪郭と、無駄に肉のついていない体にはビジネススーツをまとい、その姿は働く女性という言葉を体現したようだった。彼は最初余裕を顔に浮かべていたが、徐々に口元が荒々しくなり、血相を変え始めた。彼女はそんな彼の対面を歩いていたが、彼の方を全く見ようとしない。

 声を荒らげる彼の今にも泣きそうな顔を、存在さえ認識したくないといった風で、二人はとうとうすれ違ってしまった。彼女の背はしゃんと伸び、早めの歩調と一緒になって、くくった髪が揺れていた。

 僕は再び戻ってきた彼と入れ替わるようにして、喫煙所を出て病院へと戻る道を歩き始めた。男には、黙って一人で一服したい時もある。煙草の箱はベンチに置いてきた。彼はしばらく、あの場所にいるだろう。

 三日後の今日は、二度目の通院日だった。まさかもう一度、彼に会うとは思わなかった。また今日も、見てもらえなかった男。あっ、もしかしたらもしかして、彼が一方的にあの美人を彼女だと言っているだけかもしれない。本当は彼女なんかじゃなくて、彼はストーカーの一種で……。

 診察室に向かいながら現実逃避をした僕は、胃の痛みで顔を歪ませた。スライド式のドアを開け、看護師と医師の前に腰を下ろす。僕は背もたれのない丸いすを左右にきいきい言わせつつ、医師の口元だけに集中した。僕は患者だ。医師の言うことに従うしかない。医師の口が開いた。

「じゃあ、明日からでいいですね?」

 またうっと胃が痛んだ。頷くにはあと少し勇気がいる。

「いや、でも先生……、僕心配で心配で。本当胃が痛いですよ」

「大丈夫です。その胃痛も良くなります、まずは最初の七日から、頑張ってみましょう」

 僕は恥ずかしいことだが、いい歳をして五分程ごねた。このことは、僕の乱れた生活の一角がぽっかり無くなってしまう問題だったので、僕はなかなか慎重だった。しかし。

「大丈夫、頑張って全滅させましょう。あなたと、私を信じて」

 先生の熱い言葉を受けて、僕はとうとう覚悟を決めた。

 病院からの帰り、戦いの前の一杯をやるために、僕は行きつけの店に寄った。木の看板が立てられた小さな酒処は、すでに酔っぱらいであふれていた。僕が入ってきたことに気づいた店主は、カウンター席が満席なことを告げ、少し考えた後テーブル席の方に歩いていった。少しして戻ってきた店主が通したのは、女性が一人いるだけのテーブル席だった。

 店主がウインクをして去っていく。僕も熱いウインクを返してあげたかったが、女性の顔には見覚えがあった。あのきれいな横顔は……。

 女性はすでに、かなり酔っぱらっていた。テーブルの上に、空のジョッキが二つ置いてある。僕は無視され続けているストーカー(仮)の顔を思い出しながら、同じテーブルを囲んだ。僕が酒を注文してからしばらくすると、女性の方から話しかけてきた。昼間とは違う、くくっていない長い黒髪の細さがだらしなく、艶っぽかった。

「私ねぇ、彼氏がいるから」

 彼女は僕にそう言った後、何がおかしいのかひとしきりけらけら笑い始めた。僕はさすがに知ってますよとは言えず、更にはストーカー(仮)の希望が砕かれたことがあって酒が進んだ。彼女も豪快に酒をあおった。

「でもね、喧嘩しちゃった」

 彼女は一言喋るたびにけらけら笑うので、段々その声が快くなって、無意識のうちに煙草箱を尻のポケットから取り出していた。

「あっ、私煙だめなの」取り出してすぐ彼女は僕を咎め、一呼吸置いて、

「そういえば、喧嘩した理由は煙草だった」

 と呟いた。僕はというと、取り出した煙草の箱の透明なビニールに心残りを託し、指の腹で表面をなぞる手遊びを始めた。

「あなたがだめなの分かってて吸ったんですね、彼。反省しているんですかね?」

 僕は煙草箱がもう一箱あったことを思い出して胸ポケットに手を伸ばした。

「あっ、それ、彼が好きな銘柄だわ」

 取り出した途端、彼女がパッと目を輝かせたので、僕はもう、両手を上げて降参したくなった。今日回収した煙草箱の中身は、全く、僕が吸った一本以外減っていなかった。

 僕はやれやれと疲弊し、注文を届けにやって来た店主に、新品同然の煙草をあげてやった。

「あなたたちはきっと大丈夫ですよ、あなたと、僕を信じて」

 僕は昼間の言葉を投げやりに受け売りし、酒をあおった。

 やれやれ。

 僕は明日あすから、禁酒と某菌の全滅に専念するとしようか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の病気とカップルの話 高村千里 @senri421

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ