第2話

 花魁淵は山梨県甲州市にある、名は惨殺された五十五人の遊女に由来する著名な心霊スポットである。

 遊女たちは金山の秘密保持のために殺害されたのだが、その舞台は「お上の者」に呼び出された、緊迫感のある宴だった。

 遊女たちは川の上に吊った宴台の上で踊らされ――それはさぞストレスフルなダンスだっただろう――そして舞っている間に宴台を吊る蔓を切られた。

 想像する。

 遊女たちの中でも熱心に踊る女もいただろう。近い未来に田舎に帰る女もいたかもしれない。将来を約束した男がいる遊女もいたかもしれない。遠い光に手を伸ばしながら、苦界を耐え抜いていた女たちだ。

 だがお上の者の勝手な事情により彼女たちの明日は閉ざされた。

 淵に落ちた遊女たちの死体は川を赤く染めながら下流の村まで流れていったという。

 そういった場ゆえ、怪異の目撃は尽きない。



 今は四十一歳になる三木さんが、友人たちと心霊スポット巡りにハマっていた時期の話だ。

 気のおけない友人たちと毎週末、ゲームにやり飽きると後輩の車で山へ廃墟へ墓場へと繰り出す。

「女っ気なんてまるでありませんでしたけれど、物凄く楽しい時間でした」

 三木さんは当時を思い返して目を細めた。

「あそこへは、夜12時頃に車で後輩宅を出発して、現地には深夜2時前に到着したと思います」

 オカルトとゴシップ記事が大好きな友人のチョイスで、その日は花魁淵に向かうことになったという。

 都合4人が参加した。

「付近の邪魔にならなそうな場所に車を停めまして、歩きでその場所に行きました」

 花魁淵に近づくと、三木さんはぐっと体が重くなるのを感じたという。

「あれは初めての経験でした。こう、風邪をひいたときのような全身に倦怠感が襲うのです」

 元より三木さんは強い訳では無いが変わった霊感を持っているそうだ。

 ハッキリ視えることもあれば、最近は霊を感じる方角、例えば右から接近されれば右腕に、左からでは左腕に、鳥肌が立つという体質になったそうだ。

「しんどいなぁ、しんどいなぁ……って思いながら、けど友人たちには黙っていて、花魁淵に着いたのです。唖然としました。そこで目にしたのは全長3メートルはあろう細長い木製の慰霊碑と……」

 何より目を惹くのは、慰霊碑を塗り潰す赤いスプレー。

 まず湧いた感情は怒りだった。

 どうしてこんなフザけた悪戯をする人間がいるのだろう。

 なぜ遊女たちは死後もこんな仕打ちを受けねばならないのだろう。

 ふざけるな、喉元までその言葉がこみあげてきたが、すぐさま引っ込む。

 怒りを上回る、いたたまれなさが全身を支配した。

 可哀想に。ごめんなさい。悔しかったろうに。悲しかったろうに。理不尽な仕打ちに世を恨んだことだろう。だけれど死んだ身で執着すれば、鬼となり、終らない地獄を彷徨うこととなる。あまりに、あまりに可哀想だった。

 気づけば三木さんはしっかり手を合わせ、深々とお辞儀をしていたという。

 せめてあちらの世で、穏やかに、可能であれば幸せに、過ごせますように。

 その後だった。

 友人たちと車を止めた場所に戻ると、異変が起きた。

「夏だった為に、駐車中も窓は全開でした。一服の後に運転手がエンジンをかけると、こちらから見て道路の右、遥か下方を流れる川から、微かにですが太鼓と笛の音、所謂お囃子が聞こえ、私の耳に入って来ました」

三木さんは車内の全員に「なにか聴こえないか?」と尋ねた。

 友人たちは顔を見合わせ、耳を澄ませた後軽く頷いた。「うん、聴こえる…」

 だが友人たちに焦りはなかった。

「私がある程度の霊感を持ってることを、彼らは知っていたのです。そして私が冷静だった為、皆慌てることはなかったのです」

 ゆっくり車は走りだしたが、開いた窓からは下方に流れる川の方から、引き継ぎ僅かな音でお囃子が鳴り続ける。

「ちょっと、いや、だいぶ違うかもしれないのですが……そのお囃子は私にはリストのラ・カンパネラを連想させました。美しい旋律ではあるのですが、聴いていると身が蝕まれるような、切なさに身が凍ってしまうような……。とても不思議な曲でした」

 それは五分程走ると段々遠ざかり、いくつかトンネルを抜けて峠を抜ける頃には完全に聞こえなくなったという。

 気づけば三木さんは滂沱の涙を流していた。

「結局、一生懸命謝った事へのお礼だったのか、今となってはわかりません」


 七年ほど前の話だそうだ。


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