物陰のアイドルコール
大黒 歴史
アイドルファンになる
第1話 普通の日々
空虚という言葉は、なんと残酷な言葉なのだろう。空っぽで虚ろ。空しくて、さらに虚しい。
窓の外は快晴で、きっときれいな青空だ。テレビが言っていたのだから本当だ。けれどもそんな光も私には届かない。真っ昼間でも日当たりの悪い部屋。洗濯機一つをやっと置けるほどのベランダ。そこへ続く背の高いガラス戸が結露している。気温は外より高いはずなのに、どこかへ出かける人よりも私のほうがきっと寒い。
今日は月曜日で祝日ではない。学校へ行く学生や、職場へ向かう会社員が憂鬱に開ける玄関の扉も、この家では開かない。これもきっと光が差さない理由だ。火曜日も水曜日も、木曜日も。なので金曜だからといって憂鬱になることはない。憂鬱なのは土日も同じ。日当たりが悪かろうが、それを感じることはほとんどない。日の当たるところにいる時間のほうが少ないからだ。
今の私には、何もない。家と、お金はある程度あるが、底が見えれば働かなくてはいけなくなるだろう。助けてくれる人がいなければ、お金にすがるしかないのが現実だ。余計なことにお金は使えない。遠くへ移動もできなければ、店にも入れない。活動場所は家に限られてしまう。そんな私にとってテレビとインターネットは救世主だ。映像を観るのも、文章を読むのも、ゲームをするのだってお金をかけないでできる。最近はお金をかけなければ取れない情報もあるが、私には関係がない。価値のある情報が欲しい訳じゃないのだ。ただ、時間が潰せればいい。気を紛らわすことができればそれでいい。
テレビをつける。じっと観るわけではないのでチャンネルはなんでもいい。パソコンはスリープ状態なので、エンターキーを押せばすぐにつくようになっている。キュレーションマガジンのサイトへ進み、新聞や雑誌の無料記事を漁る。これでだいたい午前中は潰れるので、午後はテレビやそれ以外の動画を流していれば、そのうち外が暗くなる。夜というのは不思議なもので、こんな自分でも布団に入って眠ってもいい、と言ってくれているようなのだ。もちろんその語り口は優しいものではないけれど。
そうやって昨日まで過ぎてきたように、今日も過ぎるのだと思っていた。いつものようにチェックしている週刊誌のページから、目が離せなくなった。「Doll」というアイドル雑誌のサイトだった。伸び盛りの女性アイドルグループが特集されていて、幾つものアイドルグループの写真がひしめく中に、コンサートや握手会など、イベントの情報が細かく掲載されている。
ページの脇にある写真の中の一つ、他のスナップよりもひときわ小さいその写真の端っこに写る少女。特集もされていないアイドルだった。どれだけ編集部がそれ以外の写真を大きくしようと、派手なカラーで彩ろうと、ページ隅にひときわ輝くダイアモンドの原石から私の目を逸らさせることはできなかった。
「あ。」
「あ。」とも「え。」ともつかない声にもならない音が自分の体から発されたことに、自分自身で驚いた。これを声だと言っていいのなら、声を出したのは何日ぶりだろう。ディスプレイを眺めていた死んだような目が、いつもより少し大きく見開かれているのを感じた。暖房はついているのに寒さで縮こまって丸くなっていた背中が、気づいたときには背もたれから離れていた。体はたしかに熱を帯びていた。
写真はとあるイベント時のものだった。
“ドールスターズフェス”
テレビ番組に出ている大物アイドルグループから、秋葉原を中心とした劇場でしのぎを削る地下アイドル、地方に点在するご当地アイドル、まだまだ世に出ていないアイドルの卵までが勢揃いする巨大イベント。どうやらこのドールスターズフェスの一幕で、雑誌「Doll」で特集されていた「SOPRANO」のニューヒロイン、後藤愛がフィーチャーされた場面が撮影されたもののようだ。
後藤愛だけでなく、SOPRANOはメンバー全員が特集されていた。今年注目のアイドルグループである。例の彼女はSOPRANOのメンバーではないようだった。SOPRANOの写真はいくつも出てくるのに、彼女はその一枚にしか写っていない。唯一写っている写真にも注釈などもない。
記事を全て見返したが、やはり彼女が出てくるのはあの写真だけだった。途方に暮れるのも束の間、ブラウザを立ち上げ、すかさずググった。
“ドールスターズフェス”
予想通り、イベントのプログラムが細かく書かれたホームページが残っていた。赤と金色をベースに、綺羅びやかに彩られたページには、すべて確認し切ることのできないくらいグループの写真が流れている。ページトップには検索機能がついているが、いかんせん情報がない。サイト内での画像検索も使い物にならなそうだった。
一覧にしてひとつひとつ見ていくしかない。
ざっと見ても小さい写真なので、“これは”と思ったものは一回一回クリックしてリンクを開かなければならず、余計に労力がいる。
一番下までスクロールした。最後のグループの写真も例によって不鮮明で、クリックをして次へ進む。
いなかった。
参加グループをしらみつぶしに見ても、彼女を見つけることはできなかった。でも確かにいたはずなのだ。昨年の末、初めて開かれた巨大アイドルイベントに、彼女は何らかの形でステージに上がっていた。
ぎしーっとイスが音を立てる。久しぶりに背もたれに触れた。ふと気づくと日が傾きかけている。しまった。昼飯を食べていない。食事ほど生きている実感をする時間はなかったのに。何もしなくても腹は減る。食事の時間がくるのが、一日ずっと待ち遠しかった。なのに今日に限って、そんな至福の時を無碍にしてしまった。
今まで、こんなことはなかったのに。
そう思った途端、薄情なことに私の腹の虫は息を吹き返したのだった。
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