その5 ~フード付きケープ 赤 ¥35、980(税別)~

―カンパネルラ高校・校門―


       これはシテツとケイが揃って自主退学をする前のお話。


       無数の蝉の声がひっきりなしに鳴り響く中、雲一つ無い青空からは

       真夏の日差しがじりじりと照りつけていた。

ケ イ 「あぢぃ…」

シテツ 「死にそう…」

       学校前のバス停のベンチに大股を開いて座っているケイとその隣で

       こぢんまりと座ったシテツが手のひらをパタパタと動かして自分の

       顔を扇ぎながら猛暑に耐えツチノコバスの到着を待っていた。

ケ イ 「ツチノコまだぁ!」

       苛立っていたケイは感情のままに大声を上げた、その声の大きさに

       隣に居たシテツはビクッと彼女の方へ振り向いた。

       そこで彼女は気が付いた。「暑いのに何でフード被ってんだろう」

       と。彼女がケイとで出会った時から今も続いている見慣れた光景、

       赤い頭巾を被ったケイの姿。

       思い返してみれば、制服も私服も関係なく水泳の授業までも彼女が

       赤い頭巾を外した姿を見たことが無かった。

       当たり前の事に疑問を感じたとき、それは強い好奇心となりシテツ

       を支配した。

シテツ 「暑いならフード脱げば?」

ケ イ 「無理、それは無い」

       まさかの即答かつ完全否定。シテツの頭の中は真っ白になったが、

       相手は水中でも決して脱がない事を考えると当然の答えだった。

       どうしても彼女の頭巾を脱がせたいシテツはそれを実行するため

       の手順を考え始めた。

シテツ 「何か脱げない理由があるの?」

ケ イ 「う~ん… 理由かぁ…」

       ケイは先ほどとは打って変わって腕を組み考え始めた。

シテツ 「悩むの?」

ケ イ 「こうだからダメって理由は無いんだけど… なんか、本能的に脱いでは

     いけないってブレーキが掛かるんだよね」

       攻略の糸口が見えない答えにシテツは落胆した。

       思わず彼女がため息をつこうとしたとき陽炎の向こうからツチノコ

       がのそのそと近づいてくるのが見えた。

ケ イ 「やっと来た…」

       安堵の笑みを浮かべたケイの顔を、いや彼女の真っ赤な頭巾だけを

       シテツはじっと見ていた。




―ツチノコバスの中―


       二人掛けのバスの座席の通路側にだらしなく座るケイと壁側に妙に

       行儀が良いシテツが座っていた。

       ツチノコの中でも外とそんなに気温は変わらず、シテツは手で顔を

       扇ぎながらずっと隣のケイの頭巾を見ていた。

ケ イ 「ゴメン、降りるからボタン押して」

シテツ 「えっ? 乗ったばっかだよ」

ケ イ 「ちょっと暑すぎるからコンビニに行きたい」

       シテツはボタンの前に指を伸ばしたが、押さずに無言でケイの頭巾

       を見ていた。

       彼女が何を言いたいか把握したケイは頭巾を押さえながらシテツの

       前に身を乗り出し停車ボタンを押した。

       ピンポーンと降車ブザー音が鳴ると二人の目が合った。

ツチノコ「はーい、次停まりまーす」

       ツチノコのアナウンスを合図に、ケイはシテツの目を見たまま静か

       に座り直した。

ケ イ 「コレは絶対に脱がないから」

シテツ 「ですよね…」

       淡い期待を捨てたシテツは乾いた笑いを浮かべていた。




―コンビニ前―


       店の外に僅かにできた日影に避難していたシテツは買ったばかりの

       アイスを美味しそうに食べていた。

ケ イ 「お待たせ~」

       中身の重さでピンと張った大きめのレジ袋を下げたケイがコンビニ

       から出てきた。

シテツ 「何買ったの!」

ケ イ 「氷」

       そう答えながら彼女は手に提げた袋から分厚い板氷を取り出し頭巾

       の中に入れた。

       その光景を見たシテツの目が点になった。彼女の取った行動自体も

       だったが、どう見ても収まるはずがない大きさの氷を入れた彼女の

       頭巾は全く型崩れしていなかった事が信じられなかった。

ケ イ 「やっぱ一個じゃ足んないな…」

       そう小さくつぶやいた彼女は袋から頭巾の中に詰めた物と同じ板氷

       を取り出すと、それも迷わず頭巾の中へと突っ込んだ。

       続けて二つ、三つと入れるとケイは感覚を確かめるように何度か頭

       を横に大きく動かした。それでも氷が中からこぼれることなく頭巾

       はいつも通りケイの頭にフィットしていた。

ケ イ 「これでよしっ… 付き合わせてゴメンね」

       暑さから逃れることができたケイはシテツに小さく手を合わせた。

       しかし、シテツの意識は完全に彼女の頭巾だけに向けられていた。

シテツ 「ちょっと待って、氷どこ行ったの!」

ケ イ 「どこって、普通にこの中に入ってるけど?」

       ケイは頭巾の中に手を入れて、その中から入れたばかりの氷を取り

       出してシテツに見せた。この瞬間、シテツの思考能力は限界を超え

       てしまい、もはや何も考えられなくなってしまった。

シテツ 「そ、そうだよね。私何言ってんだろ…」

ケ イ 「きっと暑さで頭やられてんだよ、コレ余ったからあげる」

       ケイはサッと頭巾に氷を入れ直し、まだ二枚も板氷が入ったレジ袋

       をシテツに渡した。




―轍洞院家・シテツの部屋(夜)―


       部屋着姿のシテツはベッドに横になり、ケイからもらった板氷を額

       に当てていた。

       眠ろうとする彼女を邪魔する一つの感情。疲れ切った体と頭に思い

       浮かぶのはケイの頭巾の事ばかり。今日だけではなくいつも彼女の

       頭をスッポリと覆っていた真っ赤な存在。

       そう、彼女はケイの頭巾に恋をして

シテツ 「んな訳あるかっ!」

       自分の思考が変な方向に向かってる事を感じたシテツは大声を張り

       上げながらガバッと体を起こした。しかし、彼女の頭の中にはまだ

       モヤモヤが残っていた。




―カンパネルラ高校・教室―


       翌日、寝不足のシテツは授業中に大きなあくびを何度も繰り返して

       いた。授業は頭に入らず、その目は教科書でも黒板でもなく遠くの

       席に居るケイの頭巾を見ていた。

       彼女に監視されていることを知らないケイが消しゴムを落とした。

       しかし、頭巾の中に手を入れ中から落としたはずの消しゴムを取り

       出した。

       それを見たシテツはすぐにノートにメモを書き出した、書き終えた

       彼女は既にビッシリとこれまでの観察結果が書き込まれたページを

       眺めた。

       そして、そっとスマホを机の陰に隠しながら取り出した。




―カンパネルラ高校・校門(夕方)―


       長蛇の列が続くバス停、シテツはベンチに座りキョロキョロと辺り

       を見回していた。すると、そこへ彼女の目当ての赤い頭巾が遠くに

       見えた。

シテツ 「ケイー! こっち、こっち」

       シテツはケイに声を掛け手を振った。それに気付いた彼女が小走り

       でやってきた。

ケ イ 「席取ってくれたの?」

シテツ 「まあね」

       彼女を待つためにツチノコを三本見送ったシテツはここぞとばかり

       にドヤ顔を決めた。

       そんな彼女に感謝するようにケイは笑顔を浮かべた。

ケ イ 「ありがとう」

シテツ 「ただ、代わりって言うか… お願いがあるんだけど」

ケ イ 「何?」

シテツ 「今日ケイの家に泊まらせて」

       シテツの言葉にケイの笑顔が消えた。

ケ イ 「今日? ちょっと急すぎるよ… 今晩パパもママも居ないから」

シテツ 「ちょうどいいじゃん!」

ケ イ 「何がいいの、彼氏とのお家デートじゃないんだから…」

シテツ 「むしろ、それよりは健全なお泊まりだからいいでしょ」

ケ イ 「健全って… 他の日じゃダメ?」

       シテツは一瞬目を泳がせた。授業中に姉にはケイの家に泊まる事を

       伝え許可をもらったが、泊まる理由は全く考えていなかったからで

       あった。

       「あなたのフードの中を観察したいから」という本音を言えるはず

       もなく、とりあえず自分の家に入れない理由を考えた。

シテツ 「えっと… 殺虫剤撒くんだよ! バルヨンを焚くから今日は家に入るな

     ってコク姉が…」

ケ イ 「それ、平日の夜にやる事なの?」

シテツ 「普通はしないと思う…」

       自分の嘘の下手さを悔やんだシテツだったが、今更後に引く訳にも

       行かず思いつく限りの嘘を積み重ねようと腹をくくった。

シテツ 「でも、お昼に電話があって。家が突然涌いたゴキブリまみれで真っ黒く

     なったから、轍洞院家奪還の為に駆逐するって」

       思いついたままの理由を口にしたシテツは自分でも何を言っている

       のか分からない状況であった。だが、ケイは真剣な面持ちで聞いて

       いた。

ケ イ 「なるほど… 確かにコクテツさんなら本気で駆逐に掛かるね」

       デタラメな理由をケイは信じてくれたようだったが、彼女の姉に対

       するイメージを察したシテツは素直に喜べなかった。

ケ イ 「でもさ、他の人に頼めない?」

シテツ 「えっとぉ… それは~、アレだよアレ。あの、そのぉ… ねっ!」

       他の人の家のことなど何一つも考えていなかったシテツは何も無い

       斜め上を見ながら曖昧な言葉を繋いで作った時間でまた適当な理由

       を考えた。

シテツ 「下手に他の人の家に行っちゃって、ゴキブリの卵が私に付いてたときに

     私の家みたいになっちゃうから、一番清潔そうな人の家に泊まってって

     忠告を受けたんだよ」

ケ イ 「そうなの? まぁ、確かにシーならゴキブリ付いてるかも…」

       シテツは納得された事に泣きそうになりながら、もう少しちゃんと

       考えてから嘘をつこうと思った。しかし、このチャンスを逃す訳に

       行かないからこそ、ゴキブリが付いていると思われていることには

       目を瞑った。

シテツ 「そうそうそう! 確かケイのお母さんってナースさんでしょ? だから

     ケイの家は清潔さなら間違いないよ!」

ケ イ 「そうだけど、そのママが夜勤で居ないんだって!」

シテツ 「いや… それでいいんだよ、お母さんが居たらゴキブリ付きの私なんか

     家に入れさせてくれないでしょ」

ケ イ 「誰でもゴキブリ付けた人なんか家に上げたくないよ」

       シテツがあまりにもゴキブリ話で押しすぎたため、ケイは拒否反応

       を示した。このままではケイの家に泊まれない上に『ゴキブリ女』

       の称号を得てしまう、最悪の事態を避けるためにシテツは身の潔白

       を証明しようとした。

ケ イ 「アンタ、何してんの…」

       ケイの声に驚いたシテツはワイシャツのボタンを外そうとしたまま

       固まった。

シテツ 「ゴキブリが居ない事を見せるため」

ケ イ 「(マジかよ…) 分かった、信じるからこんな所で脱がないで」

       ケイは呆れて大きなため息をついた。そこへツチノコがのそのそと

       やってきた。




―ケイの家(夕方)―


       夕日が差し込む閑静な住宅街、その中にあるモダンな戸建て住宅が

       キュー家であった。そこへケイと宿泊道具を買ったレジ袋を下げた

       シテツがやってきた。

ケ イ 「待ってて、今開けるから」

       そう言うと、ケイは頭巾に手を入れて中から家の鍵を取りだし、扉

       を開けた。これまで頭巾の利用法を見てきたシテツは今回の彼女の

       行動に驚くことはなかった。むしろ、そういうものだと心の底から

       納得をしていた。

ケ イ 「はいどうぞ、入って」

       ケイは扉を大きく開けシテツを迎え入れた。




―ケイの家・ケイの部屋(夕方)―


       赤いノートPCが置かれた勉強机、ピンクの夏掛け布団が掛かった

       ベッド、漫画や雑誌ばかりが並べられた本棚、小さな引き出し収納

       ラック、姿写しの鏡、小さな備え付けのクローゼットとアウター類

       が掛かった小さなハンガーラックなど、シンプルで小綺麗な装いの

       ケイの部屋。

       ケイとシテツはそこに入ってくるなり学校の鞄を置いた。

ケ イ 「着替えるでしょ? 制服はハンガー貸すからそこに掛けといて」

       ケイはハンガーラックを指さした。

       しかし、シテツはその隣のクローゼットに目が行った。

シテツ 「あっちは使ってないの?」

ケ イ 「いや、むしろ入んないんだよね」

       そう言ってケイがクローゼットの戸を開けると、中には同じような

       真っ赤なフード付きのケーブがハンガーに掛かっていた。

シテツ 「フード用なの…」

ケ イ 「そう、冬にはロングコートとかも入るから。こっちには普通の服は入れ

     ないんだ」

       ケイはその中からくたびれたケープを取り出した。

シテツ 「それどうするの?」

ケ イ 「これ? 家用」

シテツ 「わざわざ替えてるの! ってか、家でも脱がないの!」

ケ イ 「うん」

       ケイは当たり前のようにシテツの質問に答えると、洋服入れにして

       いるラックからTシャツとハーフパンツを取り出した。

       この時シテツはあることに気が付いた、頭巾を替えるということは

       今の頭巾を脱ぐということ。彼女は自分が着替えるのも忘れその時

       をじっと待っていた。

ケ イ 「ちょっと、アンタ一回部屋出て」

シテツ 「えっ! 何で」

ケ イ 「さっきからジロジロ見られて視線が気持ち悪い。ていうか怖い」

       言われて気が付いた、彼女はケイの頭巾の下を見たいあまり無意識

       に彼女を凝視していたのだった。

シテツ 「ゴメン… でも、いつも更衣室じゃ一緒でしょ?」

ケ イ 「今日はヤダ」

       シテツは何とか食い下がろうとするものの、ケイに体をドアの方に

       反転させられてそのまま部屋から押し出されてしまった。

ケ イ 「着替えたら呼ぶからそこに居て!」

シテツ声「はい…」




―ケイの家・ダイニングルーム(夜)―


       帰路で買ってきた無地の黒いTシャツに着替えたシテツは四人掛け

       の長いテーブルの前へとやってきた。隣接するキッチンではケイが

       母親の用意した料理を確認していた。

ケ イ 「カレー温めるからちょっと待ってて」

シテツ 「はーい」

       食事が準備されていることが分かったシテツは近くの席に腰を下ろ

       して、いつものように料理が運ばれてくるのを待つことにした。

       ケイは鍋の乗ったコンロに火を掛けると、炊飯器の蓋を開いた。

ケ イ 「あっ! またかぁ…」

       ケイの驚きと落胆の声を聞いたシテツが何事かと駆け寄ってきた。

シテツ 「どうしたの?」

ケ イ 「ママがお米のスイッチ入れずに出ちゃったみたい…」

       ケイに言われるままシテツが炊飯器の中を覗くと、水に浸っただけ

       の米が釜の中に入っていた。

シテツ 「あらら… ま、今から炊けばいいじゃん。別に急いでないし」

ケ イ 「そう? ゴメンね」

       ケイは苦笑しながら炊飯器から米が入ったままの釜を取り出すと、

       おもむろにそれを頭巾の中へと入れた。

       シテツは彼女の行動が理解できなかったが、まさかとは思いつつも

       尋ねてみた。

シテツ 「それで… 炊けるの?」

ケ イ 「うん、これが一番早いから。丁度カレーが温まるのと一緒かな」

シテツ 「そう… じゃあ、待ってる」

       この日一番の超常現象を目の当たりにしたシテツはグチャグチャに

       なった頭の中を整理しながらゆっくりと席へと戻っていった。

       しばらくして、キッチンからカレーの香りが漂い始めた。ボーッと

       スマホを弄っていたシテツは香りに誘われるようにキッチンに目を

       向けた。カレーが焦げないように鍋の中を混ぜているケイの頭巾の

       隙間からはモクモクと真っ白い蒸気が立ち上っていた。

シテツ 「ケイ! 頭、頭!」

       シテツの声に気付いたケイは顔を上げたが、その表情は彼女が何で

       慌てているか分かっている様子ではなかった。

シテツ 「湯気出てる! 湯気出てる!」

       ケイはやっとシテツが何故慌てているのか理解したが、彼女自身に

       とってはそこまで大きな問題でなかった。

ケ イ 「お米炊いてるから当たり前じゃん」

シテツ 「あ、当たり前だけど… 熱くないの…」

ケ イ 「別に。そもそも、危なかったらやらないし」

       食事前ということもあってシテツの思考能力は限界に達し、目の前

       の現象に対してそれ以上に詮索をしようとすることは無かった。

       やがて、シテツの前に綺麗に炊き上がったご飯とカレーが盛られた

       皿が置かれた。

ケ イ 「お代わりは自分で」

シテツ 「うん、わかった。頂きます!」

       シテツは手を合わせるやいなや、スプーンを取り目の前のカレーを

       食べ始めた。

シテツ 「スッゴい美味しい!」

ケ イ 「そう? ママに言っとくね」

       シテツはそれがつい先ほどケイの頭巾で炊かれた米であるとを忘れ

       どんどん食べ進めていった。そして、すぐに席を立ってお代わりを

       持ってきた。

       一方のケイは自分の分を用意してシテツの向かいに座ったばかりで

       あった。

ケ イ 「ところで、この後さお風呂シーが先入る?」

シテツ 「先いいの? じゃあ…」

       「待てよ…」と栄養を補給した直後のシテツの思考回路は最高速度

       で動き出した。

シテツ 「一緒に入ろう!」

ケ イ 「は…」

       ケイの手からスプーンがスルリと落ちて甲高い金属音が響き、床に

       カレーと米粒が飛び散った。

       彼女が落としたスプーンなど気に留めずに、シテツは困惑したケイ

       の目だけを見つめていた。

シテツ 「いいでしょ? 一緒にお風呂入ろうよ」

       ケイは何も応えられなかった、相手がいつものシテツなら二つ返事

       で一緒に入っただろう。しかし、今日の彼女の行動がおかしいこと

       は重々把握している。それ故に簡単に拒否することもできずに時間

       だけが過ぎていった。

シテツ 「嫌なの?」

       ケイが黙ってシテツの吸い込まれそうな目を見ていると、相手の方

       から視線を切った。そして、シテツはスッと席を立ちキッチンへと

       向かっていった。

       シテツとしてもケイの頭巾が外れる最後のチャンスであろう入浴の

       瞬間を逃したくはなかった。最悪の場合、脅してでもという考えは

       有った。

ケ イ 「待って! 入るから、一緒に入るから!」

       そんなシテツの考えを察したケイは叫ぶように彼女を呼び止めた。

       それを聞いたシテツは少しだけ口元に笑みを浮かべた。

シテツ 「ありがとう。ちょっとコップ借りるよ」

       シテツは食器棚からガラスのコップを取り、水道の水を注いだ。




―ケイの家・脱衣所(夜)―


       風呂場の脱衣所には少し怯えた様子のケイとそんな彼女を監視する

       ように常に目を向けているシテツが居た。

ケ イ 「あの… フード替えていいかな」

シテツ 「脱がないの?」

ケ イ 「お風呂用のメッシュのヤツがあるからそれを…」

       まさか風呂の時まで被っているとは思わなかったシテツはがっかり

       したが、結局は取り替えるときに脱ぐことは変わらないと考え監視

       を強めることにした。

シテツ 「そうなんだ」

ケ イ 「うん… なんか、ゴメンね…」

       ケイは小さく頭を下げると、既に被っている頭巾の上にさらに頭巾

       を被った。その瞬間、シテツは彼女の頭巾の下を見られないことを

       悟ってしまった。

シテツ 「ちょ… それダメぇ!」

       シテツが声を上げた瞬間、彼女が想像した通りにケイは風呂場用の

       頭巾の下から部屋用の頭巾を脱いで引き抜いたのだ。

ケ イ 「えっ、何かダメだった?」

       シテツの声が聞こえたケイは彼女を見た。その視線の先には数秒前

       までのギラついたシテツは居なかった。

       代わりに静かに薄ら微妙な笑顔を浮かべたシテツが立っていた。

シテツ 「やっぱ、一人の方がのんびりできるよね… 私って結構長風呂だから後

     でいいや」

       すーっと滑るように脱衣所から出ていこうとしたシテツの腕をケイ

       が掴んだ。

ケ イ 「シー、アンタ疲れてるんだよ… 先にゆっくり入って」

シテツ 「うん… ありがと」

       穏やかな顔で答えたシテツの声は温度が感じられないものだった。




―ケイの家・風呂場(夜)―


       シテツは鼻の下まで湯に浸かり、口から息を吐き出してポコポコと

       弾ける泡を見ていた。

       謎を解けない絶望も、もう考えなくていい安堵感も何もない空っぽ

       の心をどうすることもできないまま、鼻の前で消えていく泡を一つ

       一つ数えていた。

       平常に戻っただけなのに、その平常がこんなにも色味も輝きもない

       ものだったとは彼女は思っていなかった。




―ケイの家・ケイの部屋(夜)―


       ベッドに横になっているパジャマ姿のケイと床に敷かれた毛布の上

       に座っているシテツ。

ケ イ 「本当にそっちでいいの?」

シテツ 「平気だよ、私結構どこでも寝れるから」

ケ イ 「そう」

       ケイが布団の中に潜り込むと、シテツも横になって毛布を掛けた。

ケ イ 「じゃ、消すよ」

シテツ 「いいよ」

       ケイが照明を落とし部屋は静かな闇に包まれた。

ケ イ 「おやすみ」

シテツ 「うん、おやすみ」

       二人は互いに声を掛け合ってから眠り始めた。

       それからしばらくして、シテツはムクッと体を起こした。まだ頭の

       片隅に残るギラついた好奇心が彼女の眠りを妨げていたのだった。

       夜風に当たりたかったのか、理由は分からないがシテツは窓辺へと

       静かに歩み寄りカーテンを開けた。外から青白い月明かりがガラス

       を通り抜け部屋中を覆った闇を切り裂いた。シテツがその光の筋を

       なぞるように視線を動かしていくと、寝息を立てているケイの横顔

       が照らされていた。

       その寝顔を見たシテツはゴクリと唾を飲み込んだ。彼女の中で再び

       好奇心という名のギラついた欲望の炎が激しく燃え上がったのだ。

       徐々に荒くなっていく呼吸を僅かな理性で押さえ込みながらシテツ

       はケイの眠るベッドに音を消しながら近づいていった。

       シテツは鼓動の高鳴りを感じながら、ケイの頭巾へと手を伸ばして

       いった。そして、裾をグッと掴むと気づかれるかもしれないスリル

       と親友の秘密を暴く背徳感に満たされた。

       大きく息を吸い込んで覚悟を決めたシテツはケイの頭巾の中を覗き

       込んだ。

       その瞬間、ケイの頭と頭巾の生地の間に広がる闇の中に見開かれた

       二つの目とシテツは目を合わせてしまった。


ケ イ 「起きて! 起きて!」

       日だまりの下のようなふわふわした感覚の中、シテツの耳にはケイ

       の声が届いてきた。眩しい光の中のような色が飛んだ景色の中でも

       唯一残っている赤い輪郭。ハッキリとは見えていなかったがシテツ

       はそれが何であるか感覚的に分かった。

シテツ 「ケイ?」

       ラジオのチューニングを合わせるようにシテツの感覚の中のノイズ

       が少しずつ消えていき、彼女は目の前に居るケイの泣きだしそうな

       顔、荒い息づかい、悲鳴のような声で今自分が置かれていた状況を

       紐解いていった。

       どうやら死にかけていたみたいだ。

       しかし、一つだけどうしても分からないことがあった。

シテツ 「何でケイが居るの…」

       シテツの口から思わず零れた言葉にケイは愕然と目を丸くした。

ケ イ 「何でって… ここアタシの家だけど」

       今度はシテツが目を点にした。

シテツ 「へ? 私がケイの家に?」

ケ イ 「昨日アンタが泊まりたいって言って来たんでしょ」

       シテツは頭を抱えて昨日の事を思い出そうとしたが、彼女の頭の中

       には昨日の記憶だけではなく一昨日の昼前までの記憶が一切残って

       いなかった。

ケ イ 「覚えてないの…」

シテツ 「うん… ちょっと自分でも怖い…」

ケ イ 「そう… 家に泊まってていいから、今日は学校休みなよ」

       こうして、シテツの36回目の挑戦もそれ自体の記憶を完全に失う

       といういつもと同じ結果で終わった。




                       〈サブストーリーその5 終〉

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