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南野 智
Sの証言
「誰だって思わないでしょ。あんなことが起きるだなんて……。今だって信じられないし、俺だけ何にも見てないんです。何も、見ていないんだ。そんな俺が何を言えるって言うんですか」
Sは苛立ちを隠さなかった。友人Hはあの日以来、家に引きこもったままだ。彼の事情を聞きに来た教授に彼は吐き捨てるように言った。
「先生が聞くのは俺じゃないよ。見たやつに聞いたらいいよ。俺は蚊帳の外だからさ」
教授は気づいたようだ。Sが震えていたことを。たぶんはじめから震えていたのだ。会話の中で震えは大きくなっていった。S自身がそのことに気づいているかどうかはわからないがはたから見て異常を感じるほどであった。
――君は大丈夫なのか?
Sは泣きたいのか笑いたいのかわからない微妙な表情を浮かべてから、これからバイトなんで……と離席の意思を示した。
教授はSの背中に声をかけた。今の彼には酷なことだとは思ったが、これだけは聞かなければという思いが勝った。
――見たのって、誰と誰だい?
Sは、Hを除く三人の名前を告げた。その中には僕の名前も含まれていた。当然、彼女の名前もあった。
教授は、すまなかったね、と謝罪し、Sのもとを後にした。
この日を境に、Sは休学する。バイト先のレンタルビデオ店からの帰宅途中に原チャリの運転を誤った彼は事故を起こして市民病院へと緊急搬送されていた。表向きの理由はこの日の怪我によるものだったが、見舞いに訪れた彼の母親が布団にくるまって震える彼を見て、休学を決めたというのが真相だった。
Sは布団の中で笑っていた。
「あんなもの正面で見ちまったら、そら正気じゃいられねえよな」
Hが見たものを、自分も見たのだという確信があった。蚊帳の外だと思っていたが、そうではなかったらしい――ずっと機会を待っていたのか――とSは掠れた声で繰り返し呟いていた。笑いながら震えていた。笑いが止まる気配はなかった。
※
子どもの頃、危ない場所には行くな、知らない人には近づくな、といった教えを嫌という程、受けるものだが、いつからか、大人に近づくにつれて、きつく結んだはずの紐がほどけるようにその教えは忘れさられてしまうものなのかもしれない。あるいは子ども限定のものであるという思い込みがそうさせるのだろうか。
この物語は、僕とS、Hを含む五人の大学生が夏休みに経験した出来事を記したものだ。
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