恋か愛か、あるいは
九良川文蔵
カランコエ
怖い顔の男であった。
青白くて、眉間に皺が寄っていて、常に何かを睨むような目付きをした男であった。
誰の客人だろう、あるいは新しい雇い人だろうか。そんなことを少しだけ考えて、あまりの馬鹿馬鹿しさにため息をつく。
どうせ、関係ない。
あの男もきっと自分の存在に気づくことはない。
財閥の家に生まれたと言えば、誰もが幸せで華やかで愛と富に溢れた生活を想像するものだろう。実際、ほとんどがそうなのだと思う。しかし何事にも例外はあるものだ。
花藍は妾の子であった。しかも異国の血が混じっている。そんな子供を忌み、世間に知れることを嫌った家の人間は、花藍を部屋に閉じ込めて出さないようにした。
学校にも行けず、わずかに与えられた本で読み書きを覚え、運ばれてくる食事にありつき、冷たい寝台にもぐり込み眠る。
十年間、そうやって生きてきた。
たった十年だが、それは花藍を絶望させるには充分な時間であった。やがて寂しくもつらくもなくなり、怒りさえ感じなくなった頃に嗣之崎の家を訪れたのがあの男だ。
感情が磨耗した花藍に外から来た人間への期待が残っているはずもなく、特に楽しい気分にも嫌な気分にもならない。ただ、馬鹿馬鹿しかった。
それなのに。
男の姿を見てから一時間か二時間経ったとき、扉の向こうでどやどやと物音がした。人の声と足音。ずいぶん長いこと聞いていなかった音だ。
やがて少し乱暴なふうに扉が開いた。入ってくる光に目を細める。
その先には、あの男が居た。
青白くて、眉間に皺が寄っていて、常に何かを睨むような目付きの男。
男は花藍を見ると少しだけ目を丸くして、それから花藍に目線を合わせるようにゆっくりと屈んだ。
「こんにちは。お前の名前は?」
「……」
幾年ぶりにかけられた声。その声は石のように硬くて冷たくて、優しげな言葉とはあまりに似つかわしくない。
ほとんど人と話す機会がなかった花藍は、すぐに返事をすることができなかった。ただ呆けたように男の顔を見つめて、徐々に沸き立ってきたのは敵愾心。
それは今さら自分を助けてくれる人間など現れるはずがないと、そう思い込んで諦め続けた末の感情であった。
「なんで知りもしない人に名前なんか教えなきゃいけないの。どっか行きなさいよ」
男から目を背け、やや感情的に拒絶の言葉を発する。男は顔色ひとつ変えず、背広の内ポケットから手帳とペンを取り出した。
そして何かを書き付け、花藍に差し出す。
朝ヶ原時宗。開かれたページを見ると、達筆なのか乱筆なのかよく分からない字でそう書いてある。
「……あさ、が、はら……」
「あしたがはら、と読む。
面倒臭い名前、と花藍は思った。
手帳を男に返す。
「お前の夫となる男の名だ」
「……は?」
「ご両親と話をつけてくる」
「は?」
受けた言葉は決して多くはないのに、頭の中がぐしゃぐしゃに掻き乱される。朝ヶ原と名乗った男はひらりと立ち上がって身を翻した。
ここでようやく、花藍は朝ヶ原越しの向こうに取り乱した使用人達や血の繋がらない母親がこちらを見ていることに気がついた。まるで朝ヶ原が彼らの制止を無視してここに来たかのようだ。
「……」
嫌な目。蔑みと嫌悪と好奇を煮詰めて固めて皿に並べたような目。
花藍が視線から逃げると同時に、朝ヶ原はもう一度こちらを見た。目の前の花藍ではない、他の何かを睨むような目付きで。
「後日迎えに来る」
そう言って、朝ヶ原は部屋を出ていった。閉められた扉の向こうのどよめきと足跡が遠退いていく。
「……意味分かんない」
唐突に現れて、訊いても居ないのに名乗って、夫になるだの迎えに来るだのとわけの分からないことを言って去った。
当然こんな人間を見たのは初めてであったし、そもそもこの部屋に外部の人間が来たこと自体が初めてだ。
信用ならない。信用してはいけない。繰り返すように、期待などとうに捨てた。
そして捨ててしまった期待は、もう花藍自身でさえどこに行ったか分からないのだ。
「……馬鹿馬鹿しい……」
そう呟くのも、もう飽きた。
大人とはどういう生き物なのだろうか。童話だと悪者であることが多くて、現実だとひどく優遇されていて、良い者なのか悪者なのか分からない。
だからと言って、では子供がどんなものか理解しているのかと問われればそうでもないのだが、それに輪をかけて大人は分かりづらい。
殊更に、この朝ヶ原という大人は。
「行くぞ」
この男が初めて花藍の前に現れてから一週間後。
彼は本当に花藍を迎えに来た。しかし血も涙もないような冷たい声音とぶっきらぼうな言葉は、迎えというより人拐いと言った方が相応しいような気がする。
「嫌よ」
そう応じる。今さら外に出たところで、何が変わるわけでもあるまい。
赤煉瓦の色の髪も、他人より白い肌も、そして何より大嫌いな瞳の色も、この国では否が応でも目立ってしまう。
好奇の目にさらされて、この男だってきっと嫌になって、また自分を閉じ込めるのだ。
そう考えるだけで、また絶望が腹の底から顔を出す。
「すでにご両親には認めていただいた。こちらの家の人間も反対はしていない」
「だから何よ!」
花藍は咄嗟に叫んで、手近にあった本を引っ掴んで投げつけた。
朝ヶ原は顔色ひとつ変えず、飛んできた本を拾い上げる。
「あの人達に認められたから何だって言うのよ! あんな人達、一度だって親だと思ったことはないわ! あたしはここで! 一生、ずっとずっとここで宙ぶらりんで生きて、そして独りで死ぬの!」
「……ルイス・キャロルか」
拾い上げた本の表紙に目を落とし、朝ヶ原は呟いた。花藍の叫びなどまるで気にしていないかのように思えたが、どうしてか聞いていないようには見えなかった。
「では、お前はここに居たくて居るのか」
「だったらどうするの」
「どうにせよ連れて帰る」
どうして。
何故そこまで自分に執着するのだろう。
花藍には、理解不能であった。朝ヶ原はもう一度「行くぞ」と言い、生っ白くて指の細長い手をこちらに差し出した。
「……ああ、そう」
あたしは、自分の人生さえ自分で決めさせてもらえないのね。
大人に流され、世情に流され、閉じ込められて連れ出されて。
期待など捨てた。今度は何を捨てれば良いのだろう。
「行くわよ。行けば良いんでしょ」
大人は良い者か悪者か。答えはきっと「どちらでもない」だ。彼らはただ理不尽なだけで、善も悪もない。さらに言えば、善悪の区別がつくほど賢い生き物でもないのだろう。
朝ヶ原の少し後ろを歩いて屋敷から出る。使用人達の嫌な目が花藍を見送った。父親と血の繋がらない母親の姿は見えなかった。
外に停まっていた自動車に乗り込む。
「……どうしてあたしなの」
そもそも、どうして朝ヶ原は花藍の存在に気づいたのだろう。
「窓から見えた」
こちらを見もせず、ただ前方を睨んだまま朝ヶ原は言う。
「窓から見えたって何よ。空き巣でもしてたわけ?」
「お前が深淵を覗くとき深淵もまたお前を覗いているのだ、と言うだろう。俺が初めて嗣之崎家を訪ねたとき、お前が窓からこちらを見ているのを見つけた」
「何よそれ」
深淵云々の言葉は何かの本で読んだことがあるが、こういうときに使うのは正しいのだろうか。……いや、この際そんなことはどうでも良い。
「……気持ち悪」
だからと言って、ふつうその子供と結婚しようという発想に至るだろうか。得体が知れなくて気持ちが悪い。
到着した屋敷は嗣之崎家に比べればずいぶん小さいが、それでも決してみすぼらしくはなかった。
老いた下男がいそいそと出迎える。
「お帰りなさいまし坊ちゃま。お嬢様もよくぞおいでなすった」
「ああ」
素っ気ない返事をして、朝ヶ原はすたすたと歩いていってしまう。そのあとを早足で追いかけながら、花藍は下男の優しげな笑顔をちらりと見た。
「今一度訊こう」
「……何」
「お前の名前は?」
「もうあの人達から聞いたんじゃないの?」
「お前の口から聞きたい」
「何それ……意味分かんない。気持ち悪い」
「何とでも言え」
何を言ってもまるで気にしていないようだ。
「……花藍よ。嗣之崎花藍。満足?」
「ああ、満足だ」
皮肉も通じないらしい。やはりなんだか気味が悪い。
朝ヶ原は花藍を連れて廊下の一番奥の部屋の扉を開けた。そこは窓のない部屋で、扉を背にして見て左右と正面に背の高い本棚が佇んでいる。本棚には妙に分厚い本がひしめき合っていて、息苦しくなるような圧迫感を感じた。
「俺はこれから仕事があるから、ひとまずここに居ろ」
「あっそ。あたし今度はここに閉じ込められるの」
「いや、出たければ出て良い。ここに居れば比較的退屈しないだろうと思っただけだ。ここが気に食わなければ、そうだな、入り口に老人が居たろう。あれは高田といい、俺が子供の頃からこの家に仕えている。あれを呼んで庭で遊ぶと良い」
もう時間だから俺は行く、と最後まで花藍の方を見ないまま男は部屋を出ていった。
残された花藍は薄暗い部屋を見回した。潔癖なまでにきっちりと本棚に並んだ分厚い本を見る。いや、これは本というより……。
「……辞書?」
国語辞書や英和辞典を始め、欧州諸国や東南亜細亜、その他そもそもどこの言語かも分からないもの、「隠語辞典」や「珍名辞典」なるものまである。
朝ヶ原は辞典の蒐集家なのだろうか。こんなものを集めて何が楽しいのだろう。やはり理解しがたい人間だ。
ふと、花藍は本棚の隅っこの一角に辞典ではない本を見つけた。近づいて見てみると、それはルイス・キャロルの詩集や小説である。和訳のものや原文のもの、絵本も揃っている。
……ルイス・キャロルか。
朝ヶ原の言葉を思い出す。あの反応は、彼もこの作家の書く物語に親しみを持っていたゆえのものなのだろうか。
床に座り、一番有名な絵本を本棚から引っ張り出した。汚れてはいないがずいぶん古びている。まるで何度も何度もページを開いたかのように。
しばらくそれを読んでいると、部屋の外に人の気配がした。絵本から顔を上げると同時に、老人のしわがれた声が聞こえる。
「お嬢様、お菓子をご用意致しましたよ。よろしければお出でくださいまし」
「……」
入り口で見かけた高田とかいう男だろうか。無視をしようかとも思ったが、嫌なときに腹の虫が鳴ってしまった。
絵本を元の場所に戻して扉を開ける。案の定優しげな顔をした老夫がひとりで佇んでいた。
「食堂に参りましょうね。お茶もご用意しておりますからね」
腰の曲がった背中を見ながら廊下を進む。どうにも人の気配がしない屋敷だ。食堂へ着くまでに、誰ともすれ違わなかった。
テーブルに並んだ和菓子。洋風の家具に馴染んでいない。花藍の食べたことのないものばかりである。嗣之崎の家に居たときは、菓子など与えられたことがなかったから。
高田は急須から湯飲みに湯気の立つ茶を入れて、花藍に座るよう促した。言われるがまま席につき、じっと目の前の砂糖菓子を見る。
「さ、召し上がってください」
「……」
動かない花藍を見て、高田は皺だらけの顔でにこりと微笑んだ。
「まだ坊ちゃまのことが信用なりませんか」
「馬鹿みたい。あんなので信用しろって方が無理でしょ」
「左様でございますな。坊ちゃまは昔から、ひとつのことに夢中になると周りが何と言おうとお聞きにならない」
しかし、と老人は言葉を続ける。
「爺は坊ちゃまが生まれたときからここに居りますけれど、あのお方はいつも真剣でございました。ですから坊ちゃまは決して、あなたを騙したりたぶらかそうとしてここに連れて来られたわけではございませんよ」
「だったら何」
真剣だろうがふざけていようが、花藍には関係ない。ただ自分を支配する大人の首がすげ変わっただけである。
花藍はしかめっ面のまま、菓子のひとつを口に運んだ。
関係ない。関係ないのだが、やはり気になるものは気になってしまう。
「……ねえ」
「どう致しましたか」
「あの男はどうして私を連れてきたの」
「そうですなあ……」
高田は言葉を選ぶように少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「坊ちゃまは元々、家同士の話し合いであなたのお姉様とご婚約をされようとなさっていたのでございます。しかし、その、お姉様を貶すようで言いにくうございますが……」
「別に良いわよ。姉だなんて思ってないから」
「……順調に事が運んで坊ちゃま自身が嗣之崎家へ参られたとき、唐突にご婚約を破棄したいとおっしゃって、そのまま制止を無視してあなたの部屋へお向かいになられました」
「何よそれ。意味分かんない」
嗣之崎が世間にとってどういう存在か、それくらいは花藍も知っている。
それを蔑ろにしてまで花藍を連れ出す意味が分からない。
高田は笑った。
「坊ちゃまは生真面目で頭が良い方ですが、爺は知っております。本当の坊ちゃまは、誰よりも愛に生きている方です」
「……はあ?」
その言い方では、まるで朝ヶ原が花藍を愛しているようではないか。あの男も得体が知れないが、高田の言っていることも理解不能だ。
「気持ち悪。あたしを好きになる人なんか居ないわよ」
かつて、ひとりだけ居たけれど。
その人はもうここには居ない。
過ごした年月で擦りきれた感情が呼び起こされる。ほんの少しだけ、お母さん、と叫びたくなった。
「……馬鹿馬鹿しい」
菓子を食べながら喉の奥で呟くと、気持ちが落ち着いた。良く言えば穏やかで、悪く言えば無機的な気分。
そう、部屋から連れ出されたせいで取り乱していたが、何度も言うように何も変わらないのだ。絶望する場所が変わっただけ。何も生み出さない、何も残らない人生だ。
高田の気配を隣に感じながら、与えられた菓子を食う。美味くも不味くもない。
食べ終えると高田は屋敷を案内しようかと提案してきたが、それは断った。また元の部屋に戻り、絵本の続きを眺める。
花藍が小さなとき、とは言えど彼女はまだ十歳なのだが、それよりももっと子供だった時分、花藍はこの物語に夢を見た。
時計を持った兎が現れて、追いかけているうちに別の世界へ行く。絵本の主人公とは違って、自分はもう部屋には帰らない。
そんな夢を見ていたのだ。
いつの間にか忘れていたが、そう思っていた時期が確かにあったのだ。
朝ヶ原の顔がちらつく。あの男は何を思ってこの物語を読んだのだろう。あの男も、別の世界に憧れたのだろうか。
自分の意思で部屋から出られるくせに。急に婚約者を変えてしまえるような自由を持っているくせに。独りぼっちじゃないくせに。
どのくらい時間が経っただろう。ここは窓がないから今が昼か夜か夕方か分からない。花藍は絵本を閉じ、扉の前に立った。何度も手を出したり引っ込めたりして、いっそもう一度高田が来るまでここに居ようかとも考えた。
しかし朝ヶ原の言葉が頭をかすめて、そっと扉のノブを掴む。出たければ出て良い。あの男は、確かにそう言った。
廊下にはやはり誰も居ない。後ろ手に扉を閉めて、花藍は一歩踏み出した。どこへ行こうか、そもそもどこに何があるのか分からない。少し考えて、ひとまず食堂へ向かって高田を探すことにした。
不気味なほど静かな中で、微かに誰かの声がした。しわがれているが高田の声ではない。もっと刺々しくて、感情的な声だ。
そっと声のする方へ歩く。どうやら廊下にいくつも並ぶ扉の、そのひとつの向こうから聞こえてくるらしい。近づくほどに声は大きくなる。
廊下の角を曲がると、高田が居た。皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、泣きそうなふうに見える。
「軍人には成れんだと? 気でも違ったか時宗ッ!」
壁を挟んだすぐ傍で知らない老人が叫んでいる。この部屋か。時宗とは朝ヶ原の名である。
「お前は、どこまで儂の面目を潰したら気が済むのだ!」
「……申し訳ありません」
朝ヶ原の声だ。帰ってきていたのか。
「情けないなどという言葉では生ぬるい! 貴様なぞ生まれてきたことが間違いだったのだ! 恥を知れ!」
「……はい」
「二度と顔を見せるな、この負け犬が!」
がしゃん、と大きな音がした。
一瞬の間があって、扉が開く。朝ヶ原が姿を見せた。その手は血に濡れている。
「高田、父様が花瓶を投げてしまった。片付けを頼めるか」
「ええ、ええ。しかしその前に、坊ちゃま、お怪我を……」
「少し切っただけだ」
ここで朝ヶ原は、ようやく花藍の存在に気がついたようだ。初めて相対したときと同じように、少し目を見開いた。
「……情けないところを見せてしまったな」
「何……今の」
「なんでもない」
「なんでもないわけないでしょ!」
「……」
高田がおろおろと扉の向こうとこちらを交互に見ている。朝ヶ原はそれ以上何も言わないまま、歩いていってしまった。
花藍は頭が真っ白になって、何も考えずその背中を追う。
気でも違ったか。情けないでは生ぬるい。生まれてきたことが間違い。恥を知れ。負け犬。
どうしてここまで言われて抵抗も言い返すこともしないのだろう。
どうして。
朝ヶ原は物置のような部屋に入り、棚から包帯とガーゼを取り出して、手際よく自分の手に巻いた。
「……ねえ」
呼びかける。男は何も言わずに花藍を見る。そしてまた目を逸らした。
「あれは父だ」
花藍の言わんとしていることを察したのか、朝ヶ原は抑揚の少ない声で言った。
「かつては優秀な軍人だったが、母が死んで以来老け込んで痴呆も進んでしまってな。毎日俺を呼びつけては同じ話をしてしまう」
「だからってあんな……」
ため息をつく朝ヶ原。
花藍の腹の奥で、ふつふつと何かが沸き立ってくる。
「俺は軍人の息子であるにも関わらず、体が弱くて軍に入れなかった」
「……だから何を言われても仕方ないってわけ?」
「端的に言えばそうなる。全ては俺の責任……」
言葉を最後まで聞く前に、腹の奥の何かが花藍の頭まで満ちた。朝ヶ原の腹に思い切り拳をぶつける。
朝ヶ原は、ぐ、とくぐもった声を出してよろめいた。
「馬鹿じゃないの? 好きで弱く生まれてくるやつがどこに居るのよ!」
めちゃくちゃに朝ヶ原を叩きながら叫ぶ。
「そんなことで謝ってる方がよっぽど情けないわよ!」
あたしだって。
花藍だって好きでこんなふうに生まれてきたわけではない。生まれてこざるを得なかったのだ。誰も悪くない。強いて言うなら神が悪い。弱く生まれてきたことを誰かに詫びてしまえば、そこから先は死ぬまで続く悪夢だ。
叩く腕にだんだん力が入らなくなる。鼻に水が入ったような気分になる。
この男も自分と同じなのだろうか。
生まれただけで罪になる。大人に流されて、世情に流されて、感情が擦りきれて心が更地になる。
それでも。
それでも、朝ヶ原は部屋から出た。
自分の意思で部屋を出て、自分で婚約者を選択した。
嗣之崎花藍を選んだ。
高田の口振りからすれば、これは本当に推測に過ぎないが、この男は本当に花藍を愛しているのかもしれない。
もし、そうならば……。
「……何故お前が泣く?」
「泣いてないわよ」
「目から涙が出ている状態を泣いていると言うのだ」
「うるさい、この馬鹿男」
震えた声で言い、花藍は朝ヶ原の顔を見た。彼の眉間にはもう皺はない。何かを睨むような目付きもしていなかった。
ただ、花を愛でる少年のような清い目をしていた。
「……お前は美しい」
「……」
「家同士の政略よりも、親の面目よりも、お前の方がよほど価値がある」
「……気持ち悪」
花藍は泣きながら、ほんの少し笑った。磨耗していたが、捨ててしまったが、まだ消えていたわけではなかったのだ。
「……幸せに、してよね。期待してるから」
花藍の大声を聞きつけた高田がすっ飛んできたのは、それからすぐであった。
朝ヶ原が倒れたのも同時である。
花藍は自分が叩いたせいだろうかとひどく焦ったが、ただの貧血であったらしい。高田いわく、よくあるそうだ。三十分もすれば回復した。人騒がせな男である。
「ご夕食をご用意致しましたからね、ぜひ召し上がってくださいまし」
「ああ」
食堂へ向かう。温かい料理の匂い。
昼に菓子が並んでいたテーブルには和洋中の料理が節操なく並んでいる。
「不肖高田、お嬢様を歓迎すべく粉骨砕身して作らせていただきました」
「……食べきれないわよ、こんな量」
言いながら、料理のひしめくテーブルの中央に花瓶を見つけた。
小さな花が活けてある、よく磨かれた花瓶。
「……この花は……」
「ああ、それか。仕事からの帰り道に花屋を見つけてな。お前の名に似ていたから買ってきた。確か……」
「カランコエ」
花藍の呟きに、朝ヶ原はそれだ、と応じた。
「よく知っているな」
「あたしの名前の由来だもの。お母さんがつけてくれた、大事な名前よ」
「良い名だ」
席につき、食事に手をつける。
粉骨砕身したという高田の言葉に見合って味は無類であった。
「高田」
「はい坊ちゃま」
「明日、仕事帰りにかえり屋へ行く」
「それはまた、何故にでございますか」
「伝えたいことがある。それに、花藍のことも話したい」
朝ヶ原は初めて、口角を上げた。
「唯一の友人だからな」
「ふうん。あんたにも友達なんか居るのね」
「ああ」
食卓のカランコエを眺める。
星のような形の、小さな花。
花言葉は、小さなたくさんの思い出、あなたを守る、幸福を告げる。
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