流れ星は海に落ちて
蒼月
流れ星は海に落ちて
人間は敷かれたレールの上を走ることしか知らない生き物だ。
僕は運命論者とか、そういう人間ではない。ただ、決められたことを決められたままにやっていくことに嫌気がさしただけだ。
何のことはない。すぐに忘れて、いつも通りにレールの上を走っていく。今までだってそうだったし、これからだってそうだ。
決まっていることをしないという勇気も、気合も、僕にはない。だから僕は、やる気の欠片もなしに、言われたままのことをそのままやっていく。抵抗するより、そのほうが楽だから。
昨日の夜、家では飼えなくなった海水魚をすぐ近くの川に捨ててくるように、親から命じられていた。引き取り手もなく、捨てるならせめて川にでも流しておいたほうがいいだろうというのだ。
どこに捨てたって同じことだ。どうせ死んでしまうのだから。
僕はそう思った。しかし、思ったからといって僕が何かするわけでもない。言われた通り、魚は川に捨てることにする。
魚を飼っていた水槽をそのまま川に持っていくわけにもいかない。僕は倉庫から、ホコリをかぶった金魚鉢と、網を出してきた。
水槽のふたを開け、水を少し金魚鉢へと移す。そして、魚を一匹ずつ網ですくって金魚鉢に移動していく。
僕の持った網に追い回される魚たちが、憐れだった。
自分のやっていることさえも、別の世界の出来事のように感じていた。
すべての魚を金魚鉢に移し終えたころには、金魚鉢は魚たちのすし詰め状態になっていた。
僕は、そんな金魚鉢を抱え、家を出る。空はどんよりと曇っていた。
数分歩いて目的の川へと着いた。そこまで、誰にも会わなかった。土手を越えて河原にしゃがむ。
金魚鉢を、雲の隙間を通って届いた、太陽の弱い光に透かして見てみる。魚たちが、鉢の中でバタバタとあがいていた。
可哀そう、とか感じるところなのだろう。普通なら。
僕が感じたのは、憐れみだった。
人間に飼われ、いらなくなったら捨てられる存在。抵抗することすらかなわずに。
――あぁ、そういうことか。
この魚たちは僕たちと同じなんだ。定められた道から逃れられない存在。この魚たちを憐れんだ僕自身もまた、憐れな存在だったというわけだ。
僕は金魚鉢を川の水に沈め、魚たちを逃がした。海水魚だから、川の真水では長くは生きられないだろう。海へ流れ着く強運の持ち主は、いるだろうか。
すべての魚が金魚鉢から出ていった後、僕は鉢を川から上げて、水を捨てる。
――海へと流れ着いて生き延びるか、川の途中で死に絶えるか。
――それとも、最後まで水槽の中で飼われているのか。
魚たちにとって、どれが幸せなのか、僕は知らない。
僕は立ち上がり、家へ帰ろうと後ろへ立ち返った。
しかし、河原の濡れた石は、僕が立つには不安定すぎた。
滑ったと気づいたときには、もう遅かった。
僕は後ろから川へと落ちていく。
一瞬の浮遊感の後、水の中に入った感覚に包まれた。
何かがおかしいと思った。
水のような、水でないような、不思議な感覚の中で、長いとも短いともつかない時間が経ち、僕は少しずつ周囲の状況を認識し始めた。
◆ ◆ ◆
そこは、水の中だった。
しかし、呼吸ができる。僕は無造作に手を動かした。
――そこには、あるべき腕と手はなく、緑色のヒレがあった。
僕は驚いて自分の体を見た。緑色のヒレ、ウロコ……。
僕は、魚になっていた。
そういえば、僕が捨てた魚の中に、こんな緑色の魚がいた。川に落ちたときに、あの魚と入れ替わったとでもいうのか。
異世界転生なんかは、ファンタジーなんかではよく聞く話だ。しかし、それは架空の話であって、現実に起こるはずがない。ましてや、魚と入れ替わるなんて、聞いたこともない。
しかし、信じられないからといって、起こっていることを否定することもできない。夢にしては鮮明すぎる。
こういうときは、人に戻る方法を探すべきか。
僕が周りを見ると。右の少し離れたところに、赤い魚がいた。赤い魚の少女。確か、名前は。
「フロイラ」
口に馴染んだその名前を口にした。刹那、僕の意識に、この緑の魚としての記憶の断片が激しく流れ込んでくる。
そうだ。幼馴染であるフロイラと、今日の朝、水槽の中で話していたのだ。そこを飼い主の人間、つまり僕に網ですくい出されて、狭い金魚鉢に押し込められ、やっと出られたと思ったら、そこは真水の中だった。
耐えられない環境の中で僕は泳ぎ回り、力を失って、気が付けばここに流れ着いていた。ここにあるのは真水ではない。だから多分、僕は海に流れ着いたのだ。
そして、僕の名前は――。
「ライゼ」
僕に気づいたフロイラが、僕の名前を呼んだ。
「ライゼ、ここは海という場所じゃないかしら」
フロイラに言われて、僕は気づいた。フロイラも、ライゼとしての僕も、今まで海に来たことがない。水槽の中で生まれ、育ったからだ。
「そうだね、ここが海」
フロイラは、僕の意識が入れ替わっていることを知らないようだ。ここは、この不思議な現象については黙っているほうが無難だろう。幸いなことに、ライゼとしての記憶は僕の中にある。
「他のみんなは……」
フロイラは言いかけて、口を閉ざした。川の途中で力尽きたか、他の大きな魚に食べられたか、はたまた運よくこの海のどこかへと流れ着いたのか。可能性はいくらでもあった。
水槽の仲間たちのことを考えていても仕方ない。初めて海に来た僕たちは、海で生きていく方法を知らない。まずは、海での生き方を探す必要がある。
「フロイラ、行こうか」
フロイラも同じ考えに至ったようだ。僕たちは浅い海を泳ぎ、少しずつ進み始めた。
浅海の底では、海藻が水の流れに揺れ、色とりどりの魚たちがその周りを泳いでいた。
人間だったころには、ただ魚たちが集まっているようにしか見えなかった風景。しかし、魚として、ライゼとしての目で見ればわかる。これは、魚たちの街。
「へいらっしゃい、いいネタそろってるよっ」
鉢巻の似合いそうなおじさんが客寄せをしていた。まさか、魚を使った寿司ではないだろうけれど……。
「すごい活気ね」
フロイラが呟くのも無理はない。あの水槽の中では絶対に見られない数の魚たち。何より、それぞれの魚の活力が段違いだった。やはり広い海の中で生きているからなのか。
「どこへ入ったものか……」
町があったからといって、そこで突然暮らしていけるわけではない。余所者お断りといった雰囲気ではないが、とにかく僕たちには情報がなかった。
「ほら、あそこに道案内ってあるわよ。行ってみましょ」
フロイラが赤い身体を翻し、道案内の看板へと向かっていく。僕も彼女を追いかけていった。
フロイラの見つけた看板の下には、白い身体の紺色の模様の入った魚がいた。どことなく警察を思わせる出で立ちだ。フロイラが彼に声をかける。
「わたしたち、ずっと遠くから流れ着いたんですけど、どこか住める場所はありませんか?」
人間なら、こんな聞き方をすれば不審人物と思われることだろう。しかし、彼は気を悪くした様子もなく答えてくれた。
「この通りをまっすぐ行くと、格安で泊めてくれる宿があるよ。仕事を探すなら、向かい側の職業案内板に行くといい。悪いけど、住む場所は自分で探してくれ」
彼はしっかり答えてくれたが、残念ながら、僕たちの求めている情報は得られなかった。格安とはいえ、お金がかかるのでは、ここの通貨を持っていない僕たちにはどうしようもない。
「そうですか。……この辺りの海って、行ったほうがいいところとかありますか?」
フロイラが続けて聞いた。
「そうだね、この商店街はいろいろあるよ。それこそ、説明できないくらいにね。それと、商店街の東には観光名所になってる塔があるよ。一度見に行ってみるといい。それ以外は、商店街を出たら目立ったものはないかな……」
彼はヒレを顎に当てて少し考えた後、ふと思い出したように言った。
「そういえば、この街の西の深い海には、老タコの占い師がいるそうだ。必ず当たるって噂だね」
占い。迷信でもなんでも、今の僕はすがるものを欲していた。
「西って、どのくらい遠くですか」
「行けばわかる。町を出てすぐだから、今から出ても、今日中には帰ってこれると思うよ。途中にクラゲの大群がいるから、行くなら注意することだ」
「ありがとうございます」
僕たちは再度お礼を言って、魚たちの街へと戻った。
「どうしようか」
僕はフロイラに聞いてみたが、選択肢は多くない。
「とりあえず、その占い師のところに行ってみるしかないんじゃないかしら。ここで仕事を探すにしても、何の手がかりもなしでは何が起こるかわからないわ」
その通りだ。それに、占い師のところに行けば、僕が人間に戻る方法がわかるかもしれない。
「じゃあ、行ってみよう」
僕はライゼとしての感覚でなんとなく方角がわかった。僕たちは西へと泳ぎ出す。
魚の街の西に出ると、急に海が深くなっていた。その下は、底が見えないくらいの暗闇に包まれていた。
「行けばわかるって、こういうことか」
僕は暗闇の中に入るのを、一瞬躊躇った。
しかし、フロイラが赤い軌跡を残して降りていく。。僕も彼女に遅れを取らないよう追いかけていった。
しばらく潜っていくと、届く光も少なくなり、だんだん暗くなっていった。
途中で、白いふわふわした物体を見つけた。クラゲだ。
「これが、クラゲっていうものかしら」
「そうだね。これがクラゲだ」
フロイラはクラゲを知らないようだ。
「気を付けろって、どういうことなの?」
「触手に触ると痛いらしいよ」
いつまでもフロイラに先行されてばかりではいられない。クラゲの大群の手前にとどまっていたフロイラを追い越し、僕はクラゲの傘と触手の間をかいくぐって下へ下へと潜っていく。クラゲはほとんど動かないから、避けるのはそれほど難しいことではない。
「フロイラ、ついてきてる?」
僕は振り向かず、声だけで聞いた。
「もちろん」
自信ありげな返事が聞こえる。それなら、問題ない。
もうすぐクラゲの大群を抜けるという辺りで、横の岩場に大きな穴を見つけた。この奥に、タコの占い師がいるのだろうか。
「フロイラ、ここなんじゃないか」
「そうね」
僕たちはそこで止まり、横穴へと入る。穴の中は、きれいな水で透き通った暗闇だった。
「この奥に占い師がいるのか……」
確かに、タコはこんな穴に住んでいそうな気がする。
僕たちが穴の中を泳いでいくとすぐに、水中に丸い二つの物体が現れた。
「きゃぁっ」
フロイラが悲鳴を上げる。僕も驚いたが、すぐに正体を見破った。
「あなたが、タコの占い師、ですか」
僕は浮かんでいる二つの球体へ問いかける。見えている球体は、タコの目だ。
「巷ではそう呼ばれているようじゃな。儂は海の隠者、名をアルプトラオムという」
だんだんと目が慣れてきて、占い師の目以外の、頭や足が少しずつ見えてきた。かなり巨大で、気が付けば足が僕たちの周りを取り囲んでいる。この威圧感の相手には、先生とでも呼びたいところだ。
「ライゼと、そっちの赤いのが――」
フロイラは、何が起こっているのかわからないといった様子で僕を見ていたが、何とか状況を理解したようだ。
「フ、フロイラです。こんにちは」
「ほう、すまんな。驚かせてしまったようじゃ」
アルプトラオム先生はフロイラに謝ってから、僕を見て言った。
「それで、こんな海の底までわざわざ来たということは、何か理由があるんじゃな」
「はい、実は……」
僕が言いかけたところを、先生が遮った。
「なに、言わんでもだいたいのことはわかっておる。お主らが来るとわかって待っておったわけじゃしな。ついてこい」
そういうと、先生は広げていた足をしまい、大きな体に見合わない速度で穴の奥へと泳ぎ出した。僕たちも先生を追って穴の奥へ進んでいく。
しばらく進むと、先生は急に止まって、奥から長い脚で何かを大切そうに取り出した。どうやら、水晶玉のようだ。僕とフロイラは興味津々でその様子を見つめていた。
「これ自体には大した力はないのじゃが」
え、と僕が呟くと、アルプトラオム先生は端的な言葉で返してきた。
「道具の価値は、使い方次第ということじゃよ」
そう言うと、先生は八本の足で水晶玉を囲むようにして抑え、力を注いで、水晶玉を見つめる。一時の集中の後、何かが見えたとばかりに水晶玉を離した。
「お嬢さん、まずはお主からじゃ」
「は、はい」
フロイラは突然の指名に慌てて返事をする。
「お主は、世界の大きな流れの中におる。その流れは、もはや誰にも変えることはできない」
僕とフロイラは黙り込む。その、流れの先にあるのは――。
「絶望か、希望か」
僕の考えを読み取ったかのようにアルプトラオム先生が言った。
「そう考えるのじゃろうな。しかし、答えは一つではないし、一つにする必要もない。お嬢さん、お主はお主の信じるものを追ってゆけばよい。さすれば、必ずや海はお主を導いてくれるであろう」
フロイラは僕を少し見て微笑み、元気な返事をした。
「はいっ」
「ほう、お嬢さんの流れは定まったようじゃ」
先生がスミを吹いて笑った。
「さて、今度はお主の番じゃな。……少年よ」
少年。その一言で、先生がすべてを知っているのだと、僕は察した。
「悪いが、お嬢さんには眠っておいてもらおう」
先生はそう言って、足を伸ばしてフロイラを引き寄せ、軽くスミを吹きかけた。フロイラはすぐに眠りにつき、沈んでいった。
「軽い催眠じゃよ」
先生は僕を見て言う。
催眠術を使うということは、占い師ではなく、魔術師か何かなのか。
「先生は、占い師なんですか」
「そうじゃな。儂が名乗っているわけではない。奇術師と呼ぶ者もおるし、隠者と呼ぶ者もおる」
先生ははっきり答えることなく、続ける。
「さて、本題じゃな。お主は、今の自分があるべき姿ではないと思っておる。この海は自分の生きていく場所ではないとも」
僕は黙って頷く。否定することは、どこにもない。
「そうであろうな。お主は自分の思っているものと違う姿になってしまったのじゃから」
先生はそこで一呼吸おいて、続ける。
「お主がいかなる姿にあるべきか、どこで生きるべきか、わしが伝えることはできない。しかし、今の姿があるべき姿ではないと思うならば」
先生はまた言葉を切る。今度は何かの迷いがあるように見えた。
「西の海へ行くといい。そこで、お主は『赤い光』を手に入れるじゃろう。それには、お主を『あるべき姿』に戻す力がある。見つけたなら、儂のところまで戻ってくるとよい」
赤い光に、あるべき姿。ファンタジーみたいな世界観だ。しかし、今の僕の状況なら、そのくらいのことは不思議には思わない。
「西の海に行くのね、ライゼ」
眠っていたはずのフロイラがいつの間にか僕の横まで浮上してきていた。
「フロイラ、いつから」
「あなたがあるべき姿にないとか、そんな話をしている辺りからよ」
ほとんど全部、聞かれていたことになる。
僕は先生を横目に見た。
「眠りの効果が浅かったようじゃな」
先生は笑って誤魔化す。先生がそんな失敗を犯すはずもなく、始めからわかっていてやったのだろう。
「ライゼ、あなたが本当は何者なのか、わたしにはわからない。だけど」
フロイラは強気な眼で僕を見つめた。彼女の赤い鱗が、暗闇の中に少しだけ入ってきた光を反射してきらめいた。
「だけど、わたしにとってライゼはあなただけしかいない。だから、わたしはあなたを信じるから」
フロイラは強く言い切った。
「ほら、催眠をかける必要もなかったじゃろう」
アルプトラオム先生が僕に囁く。やはり、わかっていてやったらしい。
「行こうか」
フロイラが頷く。
僕とフロイラにはもう、迷いはなかった。
「それなら、少し西まで飛ばしてやろう」
アルプトラオム先生が言った。『飛ばす』の意味が、すぐには理解できなかった。だけど、もう先生が何をしてもおかしくはないと思った。なんて言ったって、先生は。
「少し揺れるが、我慢せい」
――ただの占い師なんかじゃない。海の底に住む、魔術師なのだ。
暗闇の中に落ちていくような感覚に陥る。
次の瞬間、僕たちはどこだかわからない、広い海の中にいた。
◆ ◆ ◆
あれから、数か月が経った。
海の中には時計もカレンダーもないから、正確な日数はわからない。だけど、とても長い間、海の中を西へ西へと移動してきたのは事実だ。
しかし、いまだ「赤い光」は見つかっていなかった。
「今日は流れ星が見られるそうだ」
僕たちを先導する、カメのオップファーさんが言った。
オップファーさんは近くの海で出会い、ここ数日の間、僕たちを案内してくれている、大きなウミガメだ。
「じゃあ、今日は夜空を見に行こうか」
「いいわね」
フロイラが赤いヒレをハタハタと降って答える。
「若いというのは、いいものだな」
オップファーさんはそう呟くと、海面へ向かって上がり始めた。ずっと彼の先導についてきた僕たちも、彼に続いて浮上していく。
「そろそろのはずだ」
水面へと出た、その時。
目の前に、橙色に染め上げられた、夕焼け空が見えた。
「私の知る限り、ここで見る夕焼けが一番美しい」
オップファーさんが教えてくれる。
僕たちは黙って、燃え上がる夕焼けを見つめていた。
少しずつ太陽が沈んでいき、ふっと空が暗闇に包まれる。
その時、夕焼けが消えたはずの西の空に、紅蓮の光が灯った。あれは、夕焼けの橙ではなくて。
「まさか、火事」
僕の呟きを、オップファーさんは聞き逃さず拾ってくれた。
「タンカー事故のようだな。……これはまずい」
「まずいって、今のうちに逃げられませんか?」
遅れて火事に気付いたフロイラも慌てだした。
オップファーさんが厳しい顔をして答える。
「後ろに逃げても、逃げ切れない。そして、ここから北に行っても南に行っても、危険な肉食魚のテリトリーだ。タンカーから逃げたところで、襲われるのがオチだ」
「八方塞がり、ですか」
でも、ここまで来て、火事なんかで諦めたくない。しかも、人間の起こした火事だなんて。
「いや、逃げる方向が一つだけある」
そう言うと、オップファーさんは大きなヒレを動かし、海に潜った。
「ついて来い」
そういうと、彼は燃えるタンカーのやってくる、まさにその方向へと泳ぎ出した。
普通ならありえない行動だ。しかし、今の僕たちは彼を信じてついていくほかなかった。
燃えるタンカーの下へ、彼は泳いでいく。
近づくにつれ、水温が上がっていく。
僕とフロイラは必死でオップファーさんの背中を追っていった。
真っ黒な液体と、燃えた船体の一部が時折落ちてくる。何とか避けながら、もうすぐ船の下を抜けるところまできた、その時だった。
僕の背中を何か熱いものが走り抜ける感覚に襲われる。
次の瞬間、僕の後ろを泳ぐフロイラが、悲鳴を上げた。
「きゃぁっ」
僕は咄嗟に後ろを振り向いた。
フロイラの赤い身体が、木材と黒い液体に巻き込まれ、沈んでいくのが見えた。
僕は追いかけようとする。
しかし、オップファーさんの緑色のヒレに阻まれた。
「君は早く逃げなさい。私が行く」
「だけど」
「君たちをここまで連れてきた、私の責任だ」
オップファーさんの大きなヒレは、僕の小さな体ではびくともしなかった。
「早く」
僕は仕方なく、沈んでいくフロイラに背を向けて逃げ出した。
オップファーさんが全力でフロイラを追いかけていく勢いを感じた。振り向いてはいけない気がした。
「フロイラ」
何度も呟きながら、僕は泳ぎ続けた。
どれだけ泳いだかわからない。海の真っただ中で、僕はいつしか、力を失っていたようだ。
「ライゼ君、おい、大丈夫か」
気が付くと、オップファーさんの声がした。
「ここは……」
どこともしれない海の底に、僕は沈んでいた。
「よかった、気が付いたようだな」
オップファーさんは安堵のため息をついた。 僕はすぐに、大事なことを思い出す。
「フロイラ、フロイラは」
しかし、オップファーーさんはゆっくりと首を振った。
「私が追いついたときには、もう遅かった。彼女は海の中に、光になって散ってしまった。本当に、申し訳ないことをした」
「いや、オップファーさんのせいじゃないです」
フロイラが、もういない。その事実を、僕は受け入れられなかった。光になって散ったという言葉も、彼の気遣いなのかもしれない。
長い沈黙の後、オップファーさんがおもむろに何かを取り出した。
「彼女が散った後、海の底に残っていたものだ」
それはフロイラと同じ、赤色の宝石だった。
「これが、フロイラの」
そう言いかけたとき、僕の身体を記憶の奔流が駆け巡った。僕はこの宝石をどこかで聞いたことがある。
そうだ。宝石としてではなく。
「赤い光」
赤色に輝く宝石は、まさに光そのもの。それに気づいたとき、激しい戦慄が走った。
僕が探していたものは、フロイラそのものだったなんて。
そして、それは僕をもう一つの絶望へ導く。
僕が探し求めていたのは、フロイラの死そのものに違わなかったのだ。たとえ、僕がそれを知らなかったとしても。
「オップファーさん」
――だけど。
「僕は東に戻ります」
僕にはそうするしかなかった。
「行かなきゃいけない場所があるんです」
どういう形であれ、それが僕の見つけてしまった答えなのだから。
「そうか。どういう事情かは知らないが、行ってきなさい。海は事由だ」
オップファーさんは大きく頷く。
僕は彼にお礼を言い、フロイラと泳いできた海を、今度は一匹で、たどり始めた。
◆ ◆ ◆
あのときから、季節が何度も巡っていった。
僕は今でも、海を旅している。
僕はオップファーさんと別れた後、来た時と同じくらいの時間をかけて、アルプトラオム先生の元へ戻った。そして、フロイラの残した「赤い光」を使って、「あるべき姿」に戻る魔法をかけてもらった。
しかし、僕は人間の姿には戻らなかった。
僕のあるべき姿は人間ではなく、ライゼとしての姿なのだと、アルプトラオム先生は言った。
僕は、あまり驚かなかった。少しだけ、そんな予感がしていた。
今なら、ライゼとしての自分を受け入れられる気がする。
僕は、アルプトラオム先生のもとを離れて、この広い海を旅してまわることを決めた。人間だったころにはわからなかった世界の広さを、この海でなら見つけられたからだ。
数年の間に、いろんな場所に行き、いろんな魚にあった。
この広い海では、誰もが旅の途中だった。決められたままに進む魚なんて、どこにもいなかった。
僕はライゼとして、この海で、はじめて自由になれた。
失ったフロイラのことを忘れることはない。でも、彼女が残してくれた光が、僕の行く先をずっと照らしてくれている。
アルプトラオム先生やオップファーさんのいるところから遠く離れた海でのこと。
日が沈み、海の中がすこしずつ暗くなっていく。僕は水面へと浮上し、夜の空を見上げる。
一筋の光が、夜の暗闇を駆け抜けた。
それをきっかけにしたかのように、次々と光が駆け抜けていく。
あの日、フロイラと見られなかった、流れ星だった。
流れ星は海に落ちて 蒼月 @sougetsu-blackcat
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